幽霊を拳で語れ(part1)

 水平線の向こうへ夕日が落ちて、だいぶ時が過ぎた夕闇。


 太陽の残り火が海から遠ざかってゆくたび、夜色に近い青――ミッドナイトブルーが空に広がってゆく。


 穏やかな熱を持つシャープなアッシュグレーの瞳に、その景色が静かに映っていた。


 男らしい厚みのある唇に挟まれた赤茶の細長いもの。それは青白い煙をゆらゆらと吐き出し、濃香のうこうを振りまく。


「ふー」


 太いシルバーリング三つをつけた、節々のはっきりした手。それが、タバコとは違うものを口から取り出して、灰皿へトントンと灰を叩き落とす。


び売ったりよ……」


 喧嘩っぱやそうな、しゃがれた男の声が小さく響いた。迷彩柄――カモフラシャツの下に隠された厚い胸板。情熱は奥深くまで熱く燃えたぎっている。


ようぇふりするような女郎めろうだったら……」


 何かを迎え撃つような、ギザギザの丸い金属――ウェスタンブーツのかかとについいるスパー。ヴィンテージジーパンの長い足が組み直されると、それがカチャカチャと喫煙室に音を歪ませた。


「……守ってる暇はねぇんだよ」


 男が体を少し傾けると、胸元で他の金属音がチャラチャラと入り乱れた。羽型と雄牛のツノをデザインした、ふたつのペンダントヘッド。


人様ひとさまに迷惑かけねぇで、てめぇで立ちやがれ」


 頬に絡みついた長めの短髪。それは藤色の剛毛。太い指先で振り払った衝動で、柔らかい灰がぽろっと床へ落ちた。


 白ではない、赤茶の吸い殻を灰皿ですり消し、ウェスタンブーツは自動ドアから、クリーンエリアへ出てゆく。


 ガタイのいい二百三センチの長身の近くを通った、ラフな格好をした若い男が礼儀正しく頭を下げて、入れ違いに喫煙室に入ってゆく。


「お疲れさん」


 気さくにしゃがれた声がかけられた。歩き慣れたオフィスビル。吹き抜けのロビーを横切ってゆくたび、次々と頭を下げてくる人々。


「お疲れさん」


 ポケットに両手を突っ込んで、黄昏れ気味に歩いてゆく男。彼のねぎらいの言葉は、人々のハートに重いパンチのように響き、彼らは目を輝かせて去ってゆく。


 男は慣れた感じで壁際へやって来た。向かいの最上階――数十メートル上の回路を、鋭いアッシュグレーの眼光で獲物のように捉える。


「♪〜〜♪〜〜」


 何かのタイミングを計るように、男の口笛がパーソナルティスペースで舞っていた。しばらくすると、吹き抜けのロビーから誰もいなくなった。ふとした静寂が合図する予感プロローグ


 アッシュグレーの瞳は左右を注意深く確認。壁と向き合うように、百八十度振り返り、ターゲッティングした回路に背を見せる。


「誰もいねぇな」


 口の端でニヤリとすると、ウェスタンブーツが床を強く蹴りつけ、スパーが激しくカチャッと叫んだ。


 男の近くの床で綿埃が真上から強い風を受けたかのように、狂喜乱舞きょうきらんぶで飛び跳ねる。


「っ!」


 その場でジャンプするように、男は飛び上がった――


 彼の身につけていた金属という金属が激しくすれ合う。浮かび上がるアクションは、高いところから飛び降りた映像を逆再生したかのようだった。


 上へ大きく背面跳びをするように、一階のロビーから、さっきにらんでいた数十メートル上にある最上階の回路へビュッと力強く登ってゆく。


 あと少しで天井に衝突するというところで、男は少しだけ身をよじり、転落防止用の柵を片手でつかんだ。


「ふっ!」


 そこを軸にして、バク転するように回路の床へ向かって、かなりの超常現象を巻き起こしながらも、順調に降り立とうとしていたが、


 ガシャーンッ!!


 予想外の破壊音があたりに鋭く響き渡った。衝撃を感じたウェスタンブーツのかかとが床に着地すると同時に、アッシュグレーの瞳は天井を見上げ、


「あぁ?」


 暑くてどうしようもなくて、仕方がないと言った男の声が気だるくうねった。


 瞳に何かが落ちてくるたび、ガラスの破片が突き刺さったような鋭い痛みが増えてゆく。


 目の防御反応――涙が次々に出てきて、今の事件を肉眼で検証するのが難しくなった。


 しかし、男の視界は一気に鮮明になった。それは物理的な視覚ではなく、別のものを使っているようだった。


 そうして、真相に迫る。闇――いや涙に隠された事実。それは、照明用の電気が原型をとどめていない、だ。


「壊しちまったってか?」


 バク転した時に蹴り上げたのだ。本当にガラスの破片が目に刺さっていた。


 痛む目のまま顔を真正面に向ける。藤色をした剛毛の頭に、どんどん落ちてくる危険物。どうにも止まらない破損事故。


「しょうがねぇな。おい、リオン! 直しやがれ!」


 誰もいないはずの空間に男は問いかけた。返ってくるはずもない返事だったが、


「――こちらで貸しは、百七十八回です」


 丁寧な物腰の声は耳から入り込むのではなく、自分の内側から聞こえてくるが正しかった。


 男にとってはそんなことはよくあることで、カウントされている数字のほうが気になった。


「オレのキス――で、それチャラにしろや!」


 なぎ水面みなもをギリギリで通り過ぎてゆくような、音があるような、ないような微妙な静寂が広がっていた。


「……………………」


 いつまで経っても、どこまで探してもさっきの声は見当たらない。そうして、男はこの結論に達した。


「返事なしで放置ってか? 相変わらずドSだな」


 不思議なことに、男の瞳に刺さっていたガラスの破片も傷もなくなり、頭上にある照明は、さっきの崩壊劇が嘘のように、平然とした顔で明かりを降り注いでいた。


 男はすぐ近くにあったドアから、オフィスフロアに入っていった――――


    *


 ワンフロアに規則正しく並ぶデスクたち。向こうの端が煙るような広さ。いつもはPCに向かって、パチパチと作業をし続ける、静かな空間。


 だが、今は違っていた。


 社員たちの視線が殺到する。入り口から一番離れた奥にある、こげ茶の壁板をした仕切りへ。その向こうの部屋で、ガサツな男の声で激怒という色が今もまた轟いた。


「てめぇ、どういうつもりだよ!」


 それと同時に、フロアを震撼させるがごとく、


 ドガーンッ!


 という何か蹴りつけたような音が人々に襲いかかった。


 大荒れになっている別室。ガラス張りのそこは、ブラインドカーテンがいつもつながりという隙間を作っている。


 しかし、今はぴったりと何かをガードするように完全にシャットアウトされていた。


 それでもできる、紙一枚の隙間。向こう側で何かが投げつけられたのが見て取れた。自分のデスクでさっきから様子をうかがっていた男は、PCのキーボードに手を乗せまま、ため息を降り注がせる。


「兄貴がマジで怒ってんの、初めて見た」

「俺も」


 前代未聞の出来事で、社員たちは戸惑いを隠せなかった。短く同意した男の隣で、叱りの原因となっている、PC画面に映し出された共有データに、別の男がチラッと視線をやった。


「けど、無理もないよな?」

「そうだな。兄貴が一番こだわってるとこ、破ったんだからさ」


 右回りに四人の男たちで会話のバトンリレーがめぐると、最初に話し出した男は缶コーヒーを一口飲んで、表情を曇らせた。


「俺もこれはどうかと思うよ。人として」

「確かに正気の沙汰じゃないよな。この買い付けは」

「俺たちがこの渦中にいたら、いつ死ぬのかどんな時も気になって、耐えられないよな……」


 誰もが他人事とは思えなかった。今の激怒は仕方がないと、当たり前だと、フロアにいる全員が満場一致だった。


    *


 締め切られたブラインドカーテンに囲まれた別室――


 立派な机の上に、ウェスタンブーツの両足は放り投げられていた。ギャングのボスが手下を叱るような殺伐とした空気。


 カモフラのシャツが、ペンダントヘッドが、抑えきれない怒りで小さくおびえている。


 所在なさげに立っている若い男に靴底を見せるように、机の上に乗せられていた長い足のジーパンが組み合えられると、スパーがデスクに引っかき傷を作った。


 アッシュグレーの眼光は今はどこまでも鋭かった――。


「何度も言っただろ? 宝石買う時は気をつけろって」

「はい……」


 絨毯の瑠璃色を、散らばった書類がところどころ白く染めていた。藤色の剛毛と日に焼けた頬を持つ男は怒ってはいるが、決して頭にきている――感情に流されているのではなかった。


「最初から順番おって、説明してやっからよ。よく聞けや」

「はい……」

「どこの国から買ったんだよ?」

「タスタワ共和国です」

「その国どんな情勢なのかちゃんと知ってんのか?」

「知らないです……」


 若い男はごくごく小さな声で答えた。ドスが効いた男の声がカウンターパンチさながらに問い詰める。


「てめぇの仕事だろ? 無責任なこと言うんじゃねぇよ」

「…………」


 何も言えない男に構っている暇はなかった。厚みのある唇から、怒っても当然だと誰でも思うよう内容が出てきた。


「貧しい国からよ、ガキども奴隷みてぇに連れてきて掘らせてんだぜ。その宝石はよ」


 欲望の渦の中に、奴隷制度は鎮座していた。若い男は机の端をじっと見つめたまま、口を固く閉ざした。


「…………」


 男は少しだけ振り返り、窓の外に広がる夕闇を見上げた。この空はどこまでも遠くつながっている。しかし、


「この国はよ。平和で裕福だから、そういう感覚鈍ってんのかもしんねぇけどよ。目そむけんなよ。そういう貧しさで人が物みてぇに扱われてるとこはまだあんだよ」

「はい……」


 太いシルバーリング六つは体の上で手を組むと、男の腰元で軽くひしめき合う。


「によ、その宝石売った金が何に使われっか知ってっか?」


 金は天下の回りもの――。そこまで聞かれると思っていなかった若い男は、びっくりした顔をした。


「え、えぇっ!?」

「考えてなかったってか? 普通ノーマルに考えりゃ奴隷には払われねぇだろ。大金はどこに行くんだよ?」


 宝石の価値は高値がつくが、全部が回らないのは、部下の男にもすぐに理解できた。


「あぁ……」


 容疑者を取り調べる敏腕刑事のような、隙のない鋭い眼光がアッシュグレーの光を放つ。


「隣の国――カディラ帝国に渡んだぜ」

「かでぃら帝国……?」


 仕事――いや人としての甘さが否めない部下を前にして、男は太いシルバーリングで、コツコツと机の上を叩いた。


「ネットがあんだから調べろや。そこは軍事国家なんだよ」

「はい……」


 軍事国家にお金が渡る。その罪状を、若いのにはっきりと突きつけた。


「そこに金が渡るっつうことは、軍事資金になる。戦争に使うんだぜ。つまりはよ、人殺しの金なんだよ。てめぇは、それに加担したってことだ。宝石買ってよ」


 今もワンフロアから様子をうかがっている他の社員たちも、兄貴と同じ気持ちだった。何としても止めたかった。


「知らなかったです……」


 がっくりと肩を落とした若い男に、兄貴の説教はまだ続く。


「無知は罪ってよく言うだろ? 人殺しがいけねぇって知らなかったから、殺しちまったって言ってんの一緒だぜ。てめぇが今言った言葉はよ」


 部下がさっきから言っていたのは、ただの言い訳だった。


 ドスンと、ウェスタンブーツは絨毯に落とされ、男は椅子から立ち上がった。二百三センチの長身が威圧感を与える。


「この世はよ、綺麗に見えるもんほど裏はきたねぇんだよ。その宝石買った人間も知らねぇうちに、戦争に加担してることになっちまうんだよ」


 そうして、兄貴はオレの背中を見やがれ的に部下に背を向け、窓から景色を眺めた。アッシュグレーの鋭い眼光の先で、臨海地区にあるオフィスから見える、テトラポットに波の白が砕ける。


「罪重ねさせんじゃねぇよ、他のやつにもよ。てめぇの無知のせいで。てめぇも含めて、大量の人間が地獄に落ちちまうだろ?」


 職場で上司が部下に言う言葉としては、少しばかり違和感があった。


「え……?」


 腰に両手を当てて、背中で語ってやると言うような上司を見ようとすると――


 ザザッ!


 視界に砂嵐でも入り込むように歪んだ。そうして、気づくと、兄貴と若いのは、強風吹き荒ぶ荒野にふたりきりで立っていた。


 しかも、兄貴の姿がどこからどう見ても、さっきと全然違っていて、部下の男は思わず目を見張った。


「あ、あなた様はっ!」


 その言葉は敬意が込められていたが、次に若い男はなぜか吹き出して、嘘だったように緊張感はどこかへ消え去り、笑い転げそうになった。


「ぷっ! ぷぷぷぷっ……」


 兄貴は今も両手を腰に当て、二百三センチのガタイのいい背中を見せたまま、顔だけで振り返る。


「イケてんだろ? 笑い的によ。何度見ても、オレも似合ってねぇと思うんだよ。けどよ、決まりじゃしょうがねぇだろ?」


 部下は兄貴にもこんな苦労があったのかと思い、笑うのをやめた。


「は、はい……」


 しかし、兄貴は口を端でニヤリとする。


「つって、ジョークだ。これ消せんぜ」


 笑いを取るためだけに、似合わない格好をわざとする、あなた様を前にして、若い男はゲラゲラ笑い出した。


「あはははっ……!」


 やってやったぜ的に微笑みながら、兄貴のウェスタンブーツは荒野の砂の上でジャリジャリと音を立て、振り返った。


「笑いでほぐれたところでよ、本題だ」

「はい」


 あなた様が今ここで登場したことは、若い男にとってはとても重要な意味を持っていて、真剣な顔になった。


「よく考えろよ」


 いつの間にか被っていたカウボーイハットを、兄貴は風で飛ばされないように被り直す。


「人一人殺してもよ、地獄には落ちんだよ。そいつにも家族とかいんだろ? そいつらの心を傷つけたのも、てめぇが全部償うんだよ。それが戦争になったら、どれくらいの規模になっかわかんだろ?」

「はい……」


 兄貴の見ている世界は、人とは違っていて、若い男は改めて自分がしてしまったことの重大さを思い知った。


「しかもよ、率先してやってんだからよ。罪重ねた他のやつの分も全部、てめぇが償うんだよ」

「…………」


 話が結論にたどり着こうとする時、遠くの青空でコンドルがくるっと旋回した。


「それ償うのに、単位は何万年ぐれぇ最低でも必要だろ? ここで、地獄に落ちなんよ。自分の罪償うだけに生きねぇで、人様のために生きろよ。そのほうがずっと幸せだろ?」


 何万年も責め苦を味わう。日の目を見ない。自分にそれが耐えられただろうかと思うと、若い男はさっきの兄貴がしてくれた説教というパンチは、情という名で熱く胸に響き、視界が涙でにじんだ。


「わざわざ引き止めてくださって、ありがとうございます」


 男が頭を下げると、乾いた荒野の上に涙の雫が落ちた。兄貴はうぬぼれるわけでもなく、当たり前と言うように声をしゃがれさせた。


「礼はいらねぇぜ」


 男のロマン――。兄貴はやっぱりカッコよかった。同性でも惚れ込んでしまうような、黄昏感漂うガッチリとした大きな背中。


 ボロボロと流す感動の涙の中で、若い男は真っ直ぐ見つめた。兄貴の今はハートフルなアッシュグレーの瞳を。


「このご恩は忘れません」


 ずっとの意味がどれだけ先を指しているのかをわかっていて、渋い声で兄貴は言った。


「お寝んねするまでは、忘れんぜ――」

「はい……」


 若い男が鼻をすすりながら返事を返すと、風はなくなり、荒野も青空も消え去った――


 部下と上司は立派な机を間に挟んで向き合っている。不思議なことに、若い男の頬には涙などなく、目も充血していなかった。


 さっき荒野で話したことはないものとして――忘れて、日常は進んでゆく。


 今は何も被っていない藤色の髪を節々のはっきりした大きな手でかき上げて、上司は話を元へ戻した。


「全員やめねぇと負の連鎖は続くんだよ。だったら、てめぇからまずやめろよ」

「はい……」

「すぐに返品しろや。うちじゃ、そういう品物しろもんは扱わねぇんだ」

「わかりました」


 ぺこりと頭を勢いよく下げて、若い男は散らばっていた紙を全て拾い上げた。兄貴の机の上にそれを戻し、部屋から弾丸のように出てゆく。


 誰も傷つかないうちに。誰も罪を重ねないうちに。その想いを胸に、若い男は自分のデスクまで全力で走った。


 部屋に残された男は横目で追う。部下のプライドが傷つかないようにと配慮して、閉めたブラインドカーテンの隙間を。


 三十秒ほど経過したところで、ウェスタンブーツのスパーをカチャカチャさせながら出ていった。


 フロアーに出て、すぐそばにいた他の部下たちのそばへ寄って、さっきの若い男が懸命にキャンセルをしている姿をチラッとうかがう。


「てめぇら、あれが終わるまで待機ウェイトしやがれ」


 さっきから心配していた男たちの一人が、ささやき声ながら粋にうなずいた。


「おっす! 店に電話入れときやす! 遅れるって」


 身軽に椅子から跳ね上がるように立って、携帯電話をポケットから取り出し、パスワードを解除しながら、通話できるエリアまで走ってゆく。


 その風圧を頬で感じて、男はガサツな声で一言断りを入れた。


「席はずすぜ」


 長いジーパンの足は人の気配を背にして、行き止まりの廊下へ向かって急ぎ足で歩いてゆく。


 もう少しで壁にぶつかるというところで、二百三センチのガタイのいい体は、そこへ吸い込まれるように消え去った――――


    *


 ――――アッシュグレーの鋭い眼光の真正面には、夕暮れのオレンジがにじむ宵闇が広がる。一番星を原っぱにでも寝転がるように眺める。


「人間っつうのは弱くてよ。てめぇが重ねた罪棚に上げて、地獄の辛さから逃げ出そうとすんだよな」


 男の背中にははるか下のほうで、オレンジ色の街灯が光を放っていた。部下を叱った部屋は足元の壁の向こうにある。


「そんなとこで、抜け出せる方法があるって聞かされたら、何の疑いもなしにほいほいついて行っちまうだろ?」


 ビルの壁と直角――地面と平行になるように、大地でも歩くように壁に立っていた。


「でよ、その行き先がどこかも知らねぇで、さらに罪重ねるだけなんだよ。そりゃそうだろ? 呼びにきたやつはよ、そいつを苦しめたくて来たんだからよ」


 壁から滑り落ちることもなく、屋上まで浮遊するように登り切る。背中からダイブする映像を逆再生したように、建物の縁を九十度曲がった。


はマジで負の連鎖なんだよ」


 不浄の世界へと鋭いパンチを放つように、しゃがれた声が夜風に乗った。


 転落防止用の柵の一番上から、ストンとコンクリートの上に降り立つと、スパーやペンダントヘッドたちが総動員で金属音を歪ませた。


 最高点の南へ移動してゆく月の光が優しく降り注ぐ。誰もいない。今は登ってはいけない時間帯の屋上。施錠された出入り口は、男の斜め前にある。


 薄暗くて役に立たない腕時計。それなのに、男にははっきりとよく見え、文字盤は十八時をちょうど過ぎ、秒針が新しい旅へ出発したところだった。


「にしてもよ、人生何が起きっかわからねぇな。出遅れてんだろ、六時からだろうがよ、オレの時間は……しょうがねぇな」


 忙しいからこそ、この話はふたつ返事では引き受けられなかった。


 ジーパンのポケットから慣れた感じで、ふたつのシルバー色が取り出される。ゴウッという火が勢いよくつく音がすると、青い炎が姿を現した。灼熱色が丸を描いてゆく。


 それと反対側を厚みがある唇から中へ放り込む。すると、香水のような芳醇な香りが、青白い煙とともに舞い上がった――――


    *


 ――――信号を右に曲がった瑞希は、人ごみに埋もれそうになりながら、白いローヒールで駅近くの石畳を歩いていた。


 もう少しで来る、左へ入る脇道。紫のタンクトップとピンクのミニスカートは、自然と車道とは反対側へ幅寄せしてゆく。


(よし、ここから横にずれて……)


 大通りからはずれると、どこかずれているクルミ色の瞳に映る景気は一変した。店などの派手な明かりは姿を消し、小さな街明かりはくすんでいて寂しげ。


 触れてしまったら、異世界へと連れ去られそうな怪奇的な色を落とす。


「やっぱり人通りが少ない……」


 あたりが急に肌寒くなった気がした。瑞希は肩を両手で抱くようにして歩いてゆく。


 風はやけに重く、自分の髪もろもと、アスファルトへ引きずり下ろすように――引き込むように薄気味悪くまとわりつく。


 白いローヒールサンダルは、引き返せない異世界へ誘い込まれるように進んでいた。


 その時だった――

 嫌な感覚が足首に広がったのは。


「ん?」


 瑞希は不意に立ち止まる。足元で何か細い糸のようなものを引っ掛け、切ってしまったような感じ。――境界線という言葉がピタリと来る。


「今何かを通り過ぎた?」


 足元を見てみるが、何もない。至って平常。薄暗いだけで。アスファルトと街灯に映し出された、自分の短い影だけがそこにある。


「ピリッとした気がした」


 肩がけのバッグを真正面に持ってきて、ぎゅっと両手で抱きしめた。それが頼みの綱と言うように。


 今来た道を振り返る。遠くのほうで、蜃気楼に揺れるように、大通りを歩く人の群れと、店の看板の灯りがどことなくぼんやりと広がっている。


「戻ったほうがいいのかな?」


 一歩踏み出したままの足に、重心がなくなっては戻ってきてを繰り返す。何かの境界線の上で瑞希は迷い続ける。進行方向へ振り向き、目的地の小さなトンネルの闇をじっとうかがう。


「でも、向こうの高架下を通らないと、このターン終わらないんだよね?」


 ブラウンの長い髪がサラサラと揺れて、どこまでも永遠と続いているような脇道の奥に広がる暗がりを見つめた。


「そう言えば、こんなに人がいないのって何だかおかしいなぁ」


 気づけば、自分と同じ道を歩いている人は誰もいなかった。自身の声だけがやけに大きく聞こえ、吹いてくる風はやたらと生暖かい。


「まわりの音もこんなに小さいかな? だって、大通りが見える場所だよね」


 平和な街灯りを眺めて、首をかしげる。物理的な距離と音がどうやっても釣り合っていなかった。


「もしかして、何か手違いが起きてる……?」


 ――胸騒ぎ、虫の知らせ。


 瑞希は来た道を戻り始めようとした。しかし、大通りのにぎわいは、狐にでも化かされたようにどこにもなかった。


 いや、あの人混みも街明かりもなく、暗い夜道が先へ先へとまっすぐ伸びていた。


「え……?」


 瑞希は間違ったのだと思った。戻るつもりが、反対方向へ歩き出そうとしたのだと思った。


 ブラウンの長い髪を揺らして反対側へ向くと、そこにも、暗い夜道が永遠と続いていて、吸い込みそうな闇が広がっていた。


「え……? 駅は? 大通りは……ない」


 誰もいない細い脇道に立ち尽くし、瑞希は右に左に首を傾けるが、どちらも同じ景色。どうやら時間だけでなく、空間までループしてしまったようだった――――

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