BはC疑惑のダイス
一条と瑞希は廊下の角を曲がる。静かな夜に、中庭の池がさざ波を立てると、銀の月明かりが不規則に揺れた。蛍火が舞う雪のように、ふわふわと飛び回る。
幻想的な別荘の景色に、瑞希が気を取られそうになった時、一条の斜め前に男がいつの間にか立っていた。
「あれ? 気のせい? 前から歩いてきてたかな?」
気配も靴音もしなかった。だが人が立っている。男の話し方はどこかゆるゆる〜っとしていたが、問い詰めるような言い方だった。
「なぜ君が彼女を迎えに行ったんですか〜?」
「なぜあなたはそちらの質問を私にするのですか?」
自身と同じような丁寧な物腰の男に、一条は驚くわけでもなく、氷雨降る冷たさを感じさせる優雅な声で聞き返した。
売り言葉に買い言葉というニュアンスを漂わせて、男がゆるゆる〜と聞き捨てならないことを言ってのける。
「僕と彼女は一緒に入浴した――仲なんです〜」
「えぇっ!?!?」
瑞希の驚き声が夜更けの廊下に轟いた。一条は彼女へ振り向きざまに、神経質な手の甲を唇に当ててくすくす笑い出した。この女は何を――いや、この男は何を言っているのかと思って。
「…………」
肩を小刻みに揺らしている一条の斜め後ろで、瑞希は落ち着きなくあたりを見渡していた。星空を見上げ、池の水面を眺め、笹の葉が風に揺れるのを目で追う。
しかしやがて、
「あ、あの……一条さん?」
瑞希が戸惑い気味に問いかけるころには、一条もすっかり元の冷静さを取り戻していた。
「えぇ。どうかしたのですか?」
しかし、煩悩だらけの女の言葉で、再び王子は笑いの渦へ撃沈された。
「こ……これは事実です。否定しません……」
とうとうやからしていた瑞希だった。
「…………」
一条は思う、この男と女は何をしてきたのかと。王子が上品に笑っている姿を前にして、瑞希は声を大にして反論したが、
「ただ! ただですよ! どうしてそんなことになったのかがわかりません!」
まったく言い訳になっていなかった。一条と違って、地をはうほど低い男の声が瑞希の骨までえぐるようにやってきた。
「君が僕の言葉をきちんと理解していなかったからではないんですか〜?」
また意見が食い違っているふたり。瑞希は悔しそうに唇を噛みしめたが、男の瞳が怖すぎて直視できなかった。
「…………」
ある意味こう着状態となってしまった男と瑞希の間で、一条の優雅な声が手を差し伸べた。
「どのようなやり取りがあったのですか?」
自分が体験したことは夢だったのかもしれないという疑いが次々に湧いてきて、瑞希は一条の瞳さえも見れなくなって、両手を落ち着きなく触り続ける。
「おかしいと思うかもしれませんが、とにかく、どう説明していいのかわからないんです。でも、こうとしか言いようがないんです」
「えぇ」
「――全部がおかしかったんです!」
一条を見上げた瑞希の目はお笑いでも何でもなく、本気で助けを求めていた。一条は軽く握った拳を唇に当てて、くすくすまではいかないが、やはり上品に笑っていた。
「全部がおかしい……」
一条は思う、誰が話をおかしくさせているのかと。だが、瑞希にとっては真面目な話で、今は神に誓っても本気であって、笑いを取りにいってはいなかった。
「あ、あの! 一条さんにどうやったら、わかっていただけるかと思うんですが……」
しかし、瑞希を迎えに行って、男にそれをわざと問い正された一条は、誰が話をおかしくしているのか、最初から理解していた。王子は優雅に「えぇ」とうなずいて、
「彼は他の方とは違うところがあるみたいですからね」
鬼に金棒。瑞希は味方を得たと思って、緊張感がほぐれて、色々としゃべり出した。
「あぁっ! わかっていただけますか! そうなんですよ。些細なことまでもおかしかったんです!」
「えぇ」
「でも、この一緒にお風呂に入ったのが一番おかしかったんです。あえて言うなら、魔法という名のセクハラです!」
瑞希の例えは、エロティック妖精が出た、みたいだった。さっきから口を挟まなかった男の、口調はおどけていたが、
「おや〜? 君も人聞きが悪いですね〜」
殺気という言葉が裸足で逃げ出すほど、殺気に満ちていた。彼はまるで、瑞希に大きな石でもくくりつけて、モラルハザートの海へと放り込もうとしているようだった。
瑞希は岸の縁で、かろうじて足を踏ん張って、落ちないように必死で抵抗する。
「いやいや! それが一番合ってると思います!」
煩悩だらけの女が死の狭間でもがいているのと、男が平然と彼女を突き落とそう――制裁を科そうとしているのと。やはりおかしな状況となっている廊下でも、一条の冷静さは健在で、あごに手を当て静かに瑞希の瞳を見つめた。
「どのようなセクハラをされたのですか?」
「このようなセクハラです!」
瑞希が右手を上げた隙に、彼女の背中は男に無情にもトンと前へ押され、ザバーンと海へ沈みながら、ゴボゴボと口から泡を吐き出し、海底深くへと彼女は沈んでいった。
気がした――――
*
――――眠りの底から戻ってくると、自転車のブレーキ音がキキーっと鳴り響き、靴音が瑞希の耳をノックした。
「ん……?」
座ったまま眠りこけていたみたいに、駅のロータリーを背に歩道の柵に腰掛けていた。まだ少し寝ぼけていて、石畳の上に滑り落ちそうになったが、
「うわっ!」
瞬発力のよさで、彼女は柵の上に何とか居残った。つかんだ手のひらに鉄の冷たさが不意に広がる。
「……戻ってきたんだ」
こんな無機質なものはさっきまでどこにもなかった。正反対の熱い情と優しさがすぐそばにあった。
「死が待ってる……?」
数時間前の自分が通ったであろう信号へと視線を向け、もう一人の自分が薄い残像のように抜け出て、歩いてゆく様が浮かぶ。
あの時はまだ知らなかった。自分の命を狙っている存在がいることなど。
「何が起きてるんだろう?」
無関心に通り過ぎてゆく人の群れ。一人きりで対峙してみる。
「あれってお化け――幽霊じゃなかったら何なんだろう……?」
男に会うまではただの心霊現象だと思っていたが、どうも違うようだった。いつの間にか瑞希を取り囲むように黒い霧が伸びきてきているようで、彼女はまたあの真っ暗闇の中へ引きずり込まれそうになっていた。
がしかし、ふと都会の喧騒が途切れ、少しかすれ気味で飄々としたチビっ子の声が説教を食らわしてきた。
「おう。人生色々あっかんな、明るくいかねぇと、上手くいくことも上手くいかなくなっちまうぞ」
「どうして、チビっ子なのに人生を語れるんだろう?」
さっき兄貴がガキだとはっきり言っていた。それなのに、どうも話の内容が人生を長く刻んだみたいなもので、瑞希は違和感を抱いて首を傾げた。
しかしそこは時間の都合上カットされて、
「よし! 次行くぞ」
「はい、お願いします」
条件反射。黄色とピンクのメルヘンワールドへ来たら、ダイスを転がすが仕来り。ふわふわと浮かぶシャボン玉の七色の光を瑞希は見つめながら、ただただかすかな音に耳をかたむける。
「…………」
「…………」
コロコロコロ……。スゴロクでも楽しんでいるようなチビっ子の、ピョンピョンと跳ねるようなウッキウキの声が響き渡った。
「おう? 三番な!」
「どんな人――」
瑞希が唇に指を当てて考えようとすると、チビっ子の声がマイクから少しはずれて、小さな響きになった。誰かに待ったをかけられたようで、テンションダウン。
「あぁ? どうなってんだよ?」
「ん?」
瑞希は空を見上げたが、誰かさんの声は聞こえず、チビっ子の息を飲んだ音が聞こえた。
「マジか!?」
「何か手違いがあった?」
見えないからこそ、何が起きているのかよくわからず、不安に駆られる。瑞希は右に左に落ち着きなく空を眺めた。マイクにゴツっとぶつかりながら、
「三番は今はなし! なしなし!」
神様の言う通りは、なぜか
「えぇっ!? どうしてですか?」
瑞希はびっくりしてその場で飛び上がりそうになった。そうして、チビっ子から出てきた言葉は、事務的なものだった。
「席はずしたらしいんだよな」
「え……? みんな待機してるんじゃないの?」
時間にマキが入るほど急いでいた割には、何がどうなっているのか。瑞希を中心にして動いているのではないのか。彼女は色々と聞きたかったが、チビっ子も把握していないようだった。
「俺もよくわかんねぇんだけどよ。それぞれに駆け引きみてぇなものがあるみてぇなんだよな」
「駆け引き? あれ? 仲間じゃないんですか?」
ますます何の集いなのかと瑞希は疑問に思う。
「まぁ、そうだけどよ。今の理由はそういうことじゃねぇんだよな。プレイベートみてぇだぞ」
やはり親友とかなのだろうかと、瑞希は今度はそう思った。
「どういうことですか?」
「大人の事情ってやつだろ?」
「ずいぶん意味深な要件で……」
どんな人間関係が広がっているのか、霧はますます深くなるのだった。
チビっ子だからこそ、聞かされていないのか。瑞希は小さくため息をつき、あの神がかりな美しさを持つ男たちを、この子供が仕切っているみたいな関係だったが、よくよく考えてみれば、それも不自然な気がした。
「瑞希、いいから時間ねぇからマケって。よし、選び直すぞ」
そうしてまたやってくる。黄色とピンクのメルヘンティックワールドに広がる静寂に、コロコロと転がるダイスの地味な音。
「…………」
「…………」
勢いよく机の上から何かを取り上げたような風圧がして、意気揚々としたチビっ子ボイスが元気に告げた。
「よし、五番な!」
「どんな人――」
瑞希が考えようとすると、誰の割り振りなのか確認したチビっ子はまるで座っている椅子から、打ち上げ花火でもヒューっと上がるように飛び上がったような超ハイテンションになった。
「おう? やっぱ神様〜! ウッホォーッ! だな! この番号は運命だぞ」
「だからどうして、神様だけテンションが高いんだろう?」
一言余計な叫びが入っていると瑞希は思う。自分もテンション高めだが、ここは一歩引いて、あちこちから何が原因でそうなっているのか検証する。
「っていうか何の話? 全体像がつかめないなぁ。三番と五番の人はどんな関係ですか?」
ここまで話をしておいて、チビっ子はサクッと先へ進めた。
「いいから聞けって、行き先だ」
そうして、さっきまでのノリノリとは違い、棒読みになる。
「デパートに行こう――」
瑞希の両腕は空へ向かって勢いよく上げられ、左右に大きく揺らされた。
「どこのデパートですか! いっぱいあります!」
この駅のまわりはデパートで囲まれていると言っても過言ではない。瑞希は頭がクラクラとしてくる。全ての方向に鎮座する建物をそれぞれ、次々に想像するがために。
「瑞希チョイスで大丈夫だって」
ここらへんは、さっきからどうも普通の人ではない集団としては、問題なしのようだった。
しかし、瑞希はあの広い通路で、敷居も高いが階層も高いデパートのどこへ行くかに迷う。
「そうですか。でもどの階に行けば――」
お見通しというようにチビッ子の声が割って入ったが、最後の言葉はおかしい限りだった。
「行けばわかる――っつうか、捕まるって」
「捕まるっっ!?!?」
瑞希は想像してみた。虫取り網を頭からすっぽりと被せられて、男に捕獲される自分を。しかし、アニメみたいな話で、どうにも現実味に欠けていた。
それなのに、チビっ子からさらに非現実的――いやSFみたいな話が聞かされる。
「やばいの飛んでるらしいぞ。さっき説明聞かされて、俺も気をつけねぇといけねぇって思ったかんな」
しかも、ニヤニヤと笑っている雰囲気が思いっきり漂っていた。瑞希の中の
「いやいや! そんな危険な人のところに行くんですか! 飛んでるって何が?」
と聞いているのに、チビっ子は火に油を注ぐようなことを言う。
「大丈夫だって、マジでおかしなやつだかんな。
「いやいや! 今までも結構おかしかったです! っていうか、個性的でした!」
瑞希は両手を大きく横へ揺らして猛抗議したが、チビッ子は背中を足蹴りするように強引に急かしてくる。
「いいから早く行けって。三丁目の駅に着く前には
不安を煽るだけ煽って、黄色とピンクのメルヘンティックワードは、光の粒子がはじけるように消え去ってしまった。
一人取り残された駅前の歩道。街ゆく人はみな、素知らぬふりをして過ぎ去ってゆく。瑞希の白いサンダルは石畳の上で戸惑っていたが、
「あ……、一方的に切られてしまった」
ガタガタっとマイクをつかむ音が不意にして、瑞希にしか聞こえないチビっ子ボイスが言い忘れをつけ足した。
「おっと、地下道じゃなくて地上通ってけよ」
経路まで指定されて、どうやってももう逃げられない。都会の光で隠されてしまった星屑が広がる空を見上げて、瑞希は人混みの中でブツブツと自問自答する。
「どういうこと? 飛んでる? 捕まる? マジでおかしなの……?」
さっきと同じように信号を渡り、通りを左にそれ、大通りへ向かってゆく。そうして、こんなことに今さらながら疑問を持った。
「っていうか、どうして私が好きなデパートを知ってるんだろう?」
瑞希はまだ気づいていなかった。男たちとチビっ子が持つ能力の素晴らしさに――――
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