純真無垢なR17(part3)
どれだけ時間が過ぎたのだろう――。
都会の喧騒も何もない。静かな部屋。お互いの呼吸しか聞こえない空間。ほのかに香る相手の匂いと息遣いが、一人ではないと嫌でも感じさせる。
月影という癒しを浴びながら、どこまでも静寂が続いていきそうだったが、少年のまだら模様の声がそれを破った。
「シューレイ聞きたいよね? こういう時は……」
「ん?」
瑞希は不思議そうに顔を突き出し、まぶたをパチパチと激しく
月明かりが山吹色ににじむボブ髪を、器用さが目立つ手でかき上げ、そこにどんな意味があるのかわからない相づちを打った。
「そう。知らない? 世界的に有名なヴァイオリニスト」
瑞希の記憶の引き出しは、適当にしまわれている。あげくいっぱいになって入らなかろうが、それでも押し込むから、中身がはみ出している。
しかしそれがかえっていい時もあるもので、シューレイいい具合にはみ出して――いや引き出しに挟まっていた。
瑞希はパッと表情を明るくさせ、ウンウンと大きくうなずく。
「あ、あぁ! どこかで聞いたことあると思ったら、あの人ですか!」
「あれの曲じゃないと、浄化――されないんだよね〜」
話のノリという波に乗りかけた瑞希だったが、少年の言葉のチョイスにつまずいて、海底にジャボンと沈んだ。
「何の浄化?」
少年は瑞希とは反対方向へ顔を向けたが、
「俺あれのこと、あ……ちゃってるからさ――」
何か重要な単語が抜け落ちていた。少年が最初に言った普通ではないの意味がひとつだと思ったまま、瑞希は首をかしげる。
「今何て言ったんだろう?」
冷蔵庫のグーンと低い鳴き声が響き、滑らかな絹をキュッと絞り上げたような弦の音が薄暗い部屋に、そよ風が吹くように優しく流れてきた。
まるで夢見枕に立ったような音の出どころ。瑞希はあたりをキョロキョロする。
「ん? あれ? CDかけに行きました?」
「リモコン」
両手を腰の後ろについて、ピンクの細いズボンは床の上で軽く組まれた。何の疑いもなく、瑞希はうなずいて、夜景を眺めようとする。
「あぁ、そうですか」
そうして、少年の手強さがとうとう頭角を現した。螺旋階段を突き落としたようなぐるぐる感のある声が短く言う。
「嘘」
「え……?」
少年の綺麗な横顔を、瑞希がじっと見つめると、次はこう返ってくるのだった。
「魔法」
「え……? どうして、現実からいきなりファンタジーになって――」
「それも
スーパーハイテンションでナンパで軽薄的な否定。二頭の馬が引っ張ってゆく昔の戦車に引きずられるように、瑞希は少年のペースに巻き込まれ始めた。
「どれが本当ですか?」
「教えて欲しい?」
「はい」
さっきまでとはまったく違う、ケーキにハチミツをかけたような甘さダラダラに語尾を伸ばして、少年は可愛くおねだり。
「じゃあ、十二時まで、俺と一緒にいるって約束して〜?」
いきなり家に連れてこられて、はっきり言って誘拐である。犯罪である。瑞希は思いっきり聞き返して、ぴしゃりと意見した。
「はぁ? 終電がなくなるので、十一時三十分にしてください!」
どこのタワーマンションで、最寄駅がどこかもわからないのに、なぜかチャチャッと計算して時刻を指定した。うなずかない女に気にした様子もなく、少年の右手はパッと持ち上げられた。
「そう。じゃあ、教えない。今の話は没収です!」
何が今起きていたのか瑞希は、今頃気づいて頭を抱えた。
「いや〜〜〜〜! 嘘って言ったのが罠だった〜〜!」
音楽をかけた方法は教えてもらえず、少年の要求だけは提示されるという理不尽。
瑞希はすぐに諦めて、また月に魅了され始めた。ベールのように優しく降り注ぐ月影を感じて、そっと瞳を閉じる。
さっき会ったばかりなのに、なぜか馴染んでしまっているふたり。言葉が途切れても気まずさは心に広がらない。
ヴァイオリンのみのクラシック曲に包まれ、時は少しずつ過ぎてゆく。
西へ低く傾いた月が、黄緑色の瞳に映り込むと、少年は手のひらを自分の前に出した。すると、マスカットが一粒現れる。
「できない色って、どうやって作ればいんだろう?」
「絵を描くんですか?」
瑞希はあたりを見渡したが、道具は見当たらなかった。少年は片肘だけ床につけて、マスカットを一口かじった。
「そう。気づいてなかったの? 俺、超有名――なんだけど……」
自画自賛。謙遜という文字は彼の辞書にはない。
「名前何て言うんですか?」
瑞希は知らなかった、目の前にいる少年が有名人だと。写メを撮られまくっていることも、謝罪に夢中で眼中に入っていない。
マスカットのさわやかな香りの中で、まだら模様の声がこんなことを言う。
「どっち聞いちゃいたい?」
「どっち? あぁ、苗字か下の名前ってことか」
瑞希はまだ少年の普通ではないの意味がよくわかっていなかった。
「そう。そっちにいっちゃった」
「え……?」
さすがにおかしいと瑞希も思ったが、少年は彼女の視線を無視して、さっと起き上がり、ハイテンションで右手を上げた。
「じゃあ、言っちゃいます!」
「お願いします!」
ノリノリの瑞希も片手を上げた。すると、こんな響きがふたりきりの部屋に広がった。
「ラリュー ミセネ」
「らりゅー みせね? 外国の人?」
異様に高い背。彫りの深い整った顔立ち。しかし、きちんと言葉は通じている。しばらく首を傾げていた瑞希。
彼女が今もしっかり斜めがけしているバッグへ、少年は手の甲を押すようにして指し示した。
「いいから調べちゃってください! はい!」
瑞希はチェアの上で身をよじらせて、外ポケットから携帯電話を取り出した。青白いバックライトが、彼女の顔を照らす。
未だに文字入力が下手な瑞希は、画面を右に左に上に、人差し指をゆっくり滑らせながら文字を入力。
とにかく、声でしか聞いていない。ひらがなとカタカナをごちゃ混ぜに打ち込んだ。
「らりゅー ミセネ……ん?」
検索ボタンをタッチ。そのまま出てくるはずもなく、瑞希は携帯電話が指摘してきた画面の文字を読んだ。
「検索違い?
キラキラネーム。一番上に出ていた記事をタッチ。一行読んだだけで、瑞希は驚きで息を詰まらせた。
「っ!」
画面を戻して、次々に検索結果を表示する。文字を目で追うたびに、瑞希のもつれた叫び声が上がってゆく。
「え、え、えぇっっっっ!?!?」
「お前、本当にノリいいね」
裸足の長い足を放り出して、マスカットをかじって、白いシャツをはだけさせている少年。御銫がどんな人物かわかって、瑞希の丁寧な説明が始まった。
「どうして、世界的に有名で、神の申し子とか言われてるほどの、天才画家の藍琉さんが私を捕まえてるんですか!」
バツ二フリーターと天才画家という、あり得ない組み合わせ。どんな因果か運命か。
「そっちじゃないほうで、お前に用事があんの」
天才画家は関係ないらしい。あとはどんな理由があるのかを思って、瑞希は聞き返した。
「どんな用事ですか?」
「それは、俺が一番――になっちゃったから、内緒なの〜」
甘すぎでのどが痛くなるほどのダラダラな口調だった。転がるダイスをふと思い出して、
「え? まだ続くってこと?」
チビっ子とのやり取りをよく理解していない瑞希に、御銫の全ての人々をひれ伏せさせるような皇帝の威圧感がある声が注意をしてきた。
「お前の頭、どうなってんの? よく考えないとでしょ?」
「考える……?」
「お前さっき、何番って聞かなかった?」
「……四番。あぁっ! そう言うことか! わかった! だからハズレがないのか!」
瑞希はわざとらしく大げさにうなずく。しかし、自己完結していて、誰にもわからない。御銫から教育的指導。
「はい、きちんと説明しちゃってください」
「一番がAさん、二番がBさん、三番がCさんで、四番が藍琉さんってことか。だから、あと三人はいるんだ。必ず誰かになるから、ハズレがないってことだ」
瑞希の頬にかかった後れ毛を、御銫の指先がくすぐるようにすくい取る。
「お前、今わざと知らないふりしたでしょ?」
「むふふふ……」
唇に手の甲を当てて、瑞希は不気味な含み笑いをした。御銫はホストみたいに軽薄的に微笑んで、
「いいね。やっぱり
「三十路言うな!」
瑞希は御銫の手をつかみ取って、ぽいっと遠くに投げた。まったく懲りていない少年は、デッキチェアに寄り添って、
「俺、いくつか聞いちゃいたい?」
「はい」
駅構内で偽痴漢事件――いやボッタクリを告発。滅多打ちにした少年。あのどこかの国にいる皇帝のような堂々たる態度。そんな御銫の綺麗な唇から出てきたのは、この数字だった。
「十八――」
確かに肌の
「嘘。こんな人生語る十八がいますか!」
「嘘じゃないよ。体は十八だよ」
まだら模様の声で即座に否定した。
彫刻像のように彫りの深い少年の顔をじっと見つめて、瑞希は呪文のように繰り返していたが、最後がおかしくなった。
「体は十八……体は十八……ペニ◯も十八」
聖女計画が音を立てて崩れていった。
「エロだね、お前」
「エロ言うな! エロ! もうおさらばしますよ!」
「誰がエロ、ダメだって言ったの?」
「え……?」
瑞希が驚いて見つめた御銫の表情は、誰だどう見ても、少年がふざけて言っているのではなく、純真無垢という言葉が似合う雰囲気だった。
「いいじゃん。エロ。普通のことだよね? 何かやましいことあんの?」
「改めて聞かれると……」
「仲良く手つなぐのと、セック◯する――の一緒だよね?」
距離感がどうもさっきからおかしかったのは、これが原因だと知って、瑞希はびっくりした。
「えぇっ!? ずいぶん極端な性格で……」
それでも、御銫は真剣な顔で聞く。
「線引きってどこですんの? 全部フラットだよね?」
「心が澄み切ってると、こうなるのかも……」
御銫には欲望はなく、純粋な想いがあるだけなのだと瑞希は悟った。
「でも、痴漢はダメだよね」
セクハラ。心を踏みにじるものは決して許さない。御銫は厳しい性格だった。
「そうですね」
瑞希は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ずっと月を見上げていた御銫は、暗闇なのに宝石のようにキラキラと輝く黄緑色の瞳を、瑞希に向けてホストみたいに微笑む。
「まぁ、俺は触られちゃって、よかったけど……」
「ドMですか〜?」
瑞希は噛みつくように聞き返した。個性的なバングルをした腕で、山吹色のボブ髪はあきれたようにかき上げられ、
「そっちにいっちゃったの〜?」
「はぁ?」
思いっきり聞き返した瑞希の声が響く空間は、何十畳もある――下手をするとベンチャー企業の事務所にもなり得る広い部屋だった。
「お前のこと、俺が好き――なんでしょ?」
御銫の器用さが目立つ手が伸びて来て、瑞希の頬を指先でなぞろうとした。さっきから聖女への階段を踏みはずしているが、夢見る少女では決してなく、瑞希は後ろへすっと下がって回避した。
「何でそんなにすぐ好きになるんですか?」
「人を好きになるのに、時間が必要なの?」
皇帝のような威圧感で聞き返された。ぐるぐると引き込まれてしまいそうな黄緑の瞳を見つめたまま考える。
あと一日経ったら、あと一ヶ月経ったら好きになる。そんなバカな話はないと気づいて、
「……あぁ、確かに必要ない時もあります」
「でしょ?」
御銫の指先はまた瑞希に伸びでこようとしたが、彼女はさらに後ろへ下がった。
「でも、名前も知らない……」
「名前がいるの? 好きって心が大切なのに――?」
恋愛感情とか、真実の愛とか。そんな次元ではなく、もっとはるか向こうにある
「…………」
とうとう御銫の指先は瑞希の頬に触れて、涙をそっと拭った。
「だから、お前のこと好きなの。今は真面目に話してる。嘘は言ってない」
皇帝ではなく天使。大人でなく子供。猥褻ではなく純真。聖水で作られているのかと思うほど、澄んだ黄緑色の瞳。はだけている素肌は陶器のように滑らかな
「そうですか……」
瑞希はそう答えるのがやっとだった。
男とか女とかではなくて。歳が一回り以上離れているとかではなくて。何かとてつもない大きなものにお互い巻き込まれ、この指先も熱くなった心もすぐに
「…………」
「…………」
御銫はそのたびに何も言わず、指先で何度も拭った。ブラウンの髪はポンポンと軽く叩かれ、まだら模様の声が沈黙を破る。
「ちなみに、お前の名前は知ってるから」
「え……?」
情報が共有されていると理解していない瑞希の前で、マスカットが再び突きつけられた。
「
軽薄的な物言いで、瑞希は短く否定した。
「嘘」
マスカットはポンと口の中に投げ入れられる。
「そう。よくわかったね。勘?」
「あぁ、それは時々使います」
「そう。じゃあ、俺も勘」
どうやっても合わせている感が漂っていた。
「嘘」
御銫の黄緑色の瞳に、空港へと降りてゆく飛行機が映り込む。
「嘘じゃないよ。ただいつ使ったかはわからないんだけどね」
「わからない? 普通、勘って、ひらめいて使いますよね?」
「さっき言ったでしょ? 俺普通じゃないって」
御銫のさらなるミラクルワールドが展開する。
「どういうことですか?」
器用さが目立つ手が、窓ガラスの前でジェスチャーする。
「こうさ。道歩いてて、行き先が右と左に分かれてるでしょ? 俺は右に行こうって思ってるわけ」
「うん。ここまでは私も同じ考え方です」
「でもね。気づくと、左の道に行ってんだよね。しかも、そっちが近道なわけ」
そんなご都合主義な人生があってなるものかと、瑞希は思いっきり突っ込んだ。
「はぁ? それは絶対嘘です!」
御銫の高い声をわざと低くしたようなそれが、少し張り上げられた。
「嘘じゃないよ! いつの間にか変わってるんだよ。俺、基本的に理論派だからさ。はずれることがある勘には頼らないんだけど。無意識の直感も、神様のお導きってことで、使っちゃって全然オッケーじゃん?」
御銫の価値観というか、思考回路がぶっ飛びすぎているだけで、彼は決して嘘はついていないのだった。
「……なるほど、藍琉さんの考え方が聞けて、とても素敵な時間だな」
銀の月明かりを見上げて、瑞希は珍しく微笑んだが、おかしいことに気づいた。
「あれ? さっき違うこと話してなかったっけ? 答えを聞いてないような……?」
また話が巻かれている、つまりは罠であった。御銫からどんなミラクル旋風かの内容が告げられる。
「だから、俺、他のやつに、無意識の策略――とか言われちゃってんの」
「それか! どこで罠を張ったか、聞いてもわからないってことだ……。真相は闇の中――」
御銫が手強すぎて、瑞希は額に手を当てて非常に苦しい表情をした。御銫のズボンは大理石の上で横滑りして、デッキチェアにすうっと近く。
「もっとお前のこと好きになった。俺のベッドに寝て――?」
瑞希の頬のすぐそばを御銫の手が通り過ぎて、彼女のあごは彼へと振り向かされた。一直線に絡まり合う、黄緑色とクルミ色の瞳は。
ぐるぐると惑わされる御銫の雰囲気にあっという間に飲み込まれ、瑞希はエロ妄想へ飛ばされた――
*
銀の月影が差し込む、白いシーツの上。山吹色のボブ髪は重力に逆らえず、瑞希に向かってまっすぐ落ちてきていた。
「どうして、押し倒してるんですか?」
「理由聞いちゃいたい?」
御銫が肘を曲げると、シーツに新しいシワができた。男の色香が女の
「はい……」
十八歳の少年は、遊び慣れたホストみたいに微笑んで、女の髪を優しくなでた。
「俺がうますぎて、お前が気絶しちゃうからでしょ? 倒れたら危ないでしょ?」
「嘘」
瑞希に指先を払われた御銫だったが、気にすることもなく、真面目な顔をする。
「嘘じゃないよ。俺、ペニ◯も普通じゃないからね――」
どうにも気になる話で、瑞希は期待を胸に聞き返した。
「どうなるんですか?」
御銫は右手をパッと高くかかげた。
「自由自在――に動かせちゃいます!」
「マジでっ!?!?」
瑞希はベッドを下へ滑っていって、御銫のズボンのチャックを下ろし、
*
「――お前、勘鋭いね」
「え……?」
エロ妄想から戻ってくると、御銫の整った顔立ちと澄んだ瞳を見つけた。純真無垢な天使の
「消し消し! 煩悩とはおさらばだ!」
伸ばしていた手まで振り払われた御銫の、無機質な声が響いた。
「お前、話途中なんだけど……」
「あぁ、えっと……」
妄想が割り込みしてしまって、会話履歴が抹消されている瑞希だった。まだら模様のハイテンションボイスがこんなことを言う。
「十四です!」
「何の数字?」
御銫の黄緑色をした瞳の奥を、瑞希はじっとのぞき込む。どこかずれているクルミ色のそれを、御銫は見つめ返す。
「そう。俺の頭ん中、数字でできちゃってるから」
「嘘」
「嘘じゃないよ。さっき理論派だって話したでしょ? 俺、数学得意だから」
天才画家からこんな話が出てきて、瑞希はデッキチェアから思わず起き上がりそうになった。
「数学? 絵じゃなくて?」
「いいから、俺のベットに寝て」
御銫にどさくさ紛れで抱き寄せられて、瑞希は彼の手をはいで抜け出した。
「何をするつもりですか?」
しっとりした男女ふたりきりの部屋。だったが、御銫のまだら模様の声が超ハイテンションに響き渡る。右手をさっと上げ、白いシャツから素肌がこぼれ落ちる。
「寝るはどっちの意味? 答えちゃってください!」
「何でするんですか?」
聖女への道にはまだまだ遠い瑞希だった。純真無垢な高次元の存在が降臨したように思えたが、話の内容は矛盾だらけだった。
「お前自分で話、十七禁に持っていって。セック◯はしないよ。俺こう見えても、淡白だから」
皇帝で天使で大人で子供で猥褻で純真という、あらゆるギャップ――いや
「嘘」
「嘘じゃないよ。だけど、時々トランス状態になるんだよね」
ミラクル旋風が吹き荒れた。意識が飛んでも行為し続ける御銫が脳裏に浮かんで、瑞希は慌てて意見する。
「いやいや! それ我慢しすぎですよ」
御銫の人差し指は斜めに持ち上げられて、ホストみたいに軽薄的に微笑む。
「そう?」
「パートナーの人に迷惑かけますよ」
否定するはずなのに、彼は、
「そうね。解消する相手が誰でも、そうなったらへこむね」
本気で落ち込んでいるようだった。さっき瑞希のことを好きだと言ったのに、誰か他にもいるような雰囲気が漂っていて、最初に言っていた普通ではないが、いよいよあり得ないほどおかしいところまでやって来ていた。
「ん? 何だか言葉が変だ……」
しかし、このミラクル旋風を起こしまくりの少年なら、それが普通なのかもしれない。瑞希はそう納得することにした。
「お前また、話途中なんだけど……」
催眠術を解くようにパンと手を鳴らされたように、瑞希は我に返ったが、もう戻れないほどセンセーショナルで、言葉を詰まらせた。
「あぁ、えっと……」
「十二です!」
御銫の独特な価値観の前に、瑞希はひれ伏したが、
「え? だから何の数字?」
幽霊にお礼を言いたいというほど前向きな彼女は、すぐに噛み砕いで自身の
「ん〜〜? 藍琉さんの価値観は計り知れないってことか。たぶんそうだ。理解できたら、世界がもっと広がるかもしれない」
喜びのダンスを踊る。デッキチェアの上で、右手を上げる。左手を上げる。肩でリズムを取る。激しく揺れるブラウンの髪の横で、皇帝のような威圧感でありながら、春風のような柔らかな御銫の声が響いた。
「いいね、お前、本当に……」
そんな彼の心の中は、
(こんな綺麗な魂の人間に初めて会ったよ――)
ピタリと動きを止めた瑞希は、月影の下で少年の澄んだ瞳を見つめる。
「え……?」
高い声をわざと低くしたそれでハイテンションで叫び、御銫は右腕をパッと斜めにかかげた。
「はい、話戻しちゃいます!」
「あぁ、お願いします!」
瑞希もつられて、同じことをした。
何十畳もある部屋。他に気配がない。つまりは一人暮らし。それをしている十八歳の少年の綺麗な唇から出てきたのは、
「俺、九時になると眠くなっちゃうの〜」
「子供と一緒だ……」
瑞希はあきれたため息をつき、持っていた携帯電話を傾けた。バッグライトが照らし出した時刻は、
――二十一時十四分。
御銫の就寝時刻は少々過ぎていた。彼は瑞希の腕をつかんで、ブランコのように横へスイングして、ダダをこねる。甘さダラダラの口調で。
「一緒に寝て。ダメ〜?」
「一人で寝てください。子供じゃないんだから」
瑞希は帰るという選択肢を忘れさせられてしまった。三十四の女に十八歳の少年が叱られたの図になった。ケーキにハチミツをかけたような甘さダラダラがまたやって来る。
「お前に甘えたいの、ダメ〜?」
「どんな甘え方する気ですか?」
指ひとつひとつが交差するように手を絡めた御銫は、原っぱに一緒に遊びに行こうというように純真無垢で瑞希を誘った。
「手つなぐの――」
「はぁ〜、子供ですか?」
すでにガッツリ手をつながれている瑞希は、頭が痛いみたいな顔をした。御銫は軽薄的に微笑むのに、言っていることは純真だった。
「そう。俺、少年の心持ったまま大人やってんの」
ツッコミもせず、瑞希は妙に納得する。
「確かに子供みたいな発想力だ。でもそれって何事にも重要だよね? 勉強になるな、藍琉さんと話してると……」
どこまでも前向きな、聖女になりきれない煩悩だらけの女。まどろんでいる黄緑色の瞳はサッと瑞希に近づき、
「そういうお前が好き〜!」
御銫の両腕は彼女をガバッと抱きしめた。瑞希は怒りもせず、母親が子供をあやすように、山吹色の髪をトントンと軽く叩いて、
「はいはい、わかりました」
体を離した。手をつなぐは、手を拘束されるということで、行動がかなり制限される。瑞希は街明かりと月影だけの部屋を見渡す。
「でも私は眠くないので、何か飲み物あってありますか?」
「冷蔵庫、あっち」
指さされた方へ、瑞希のローヒールサンダルはカツカツと音を立てていたが、途中からカーペットに移った。防音材のように、靴音は吸い込まれてゆく。
瑞希が背中を見せている後ろで、デッキチェアのそばにいた御銫はすうっと消え去り、次に現れると、ベッドのシーツの上にいた。
そんな摩訶不思議現象が起きているとも知らず、瑞希はカウンターキッチンへと歩いてゆく。
銀の大きな冷蔵庫の前に立ち、何の警戒心もなく扉を開けると、電気店の売り場かと思うほど、色とりどりの中身。
甘酸っぱい香りがふわっと恋風のように広がる。クルミ色の瞳は庫内を見渡して、ベッドに横たわっている人へ振り返った。
「何ですかー? このくだもの畑みたいな冷蔵庫は……」
緑色の三日月みたいなメロン。マンゴーの赤オレンジ。りんごの赤い丸。ありとあらゆるフルーツが入っていた。
デパートの売り場といっても過言ではない品揃え。手前にある黄色いものはとりあえず、今は素通り。
「俺、フルーツしか食べないの」
純真無垢という透明感のある性格を表しているような好み。瑞希はため息つき、
「ベジタリアンならぬ、フルーチアン。個性的だぁ〜」
そうして今やっと、手前に置いてあった黄色の三日月にツッコミを入れた。
「っていうか、バナナは冷蔵庫に入れないです!」
南国産の果物をクールダウンさせる。瑞希にとっては意味不明だったが、御銫にとってはこだわりだった。
「え〜? 俺、冷蔵庫に入れたバナナが好きなんだけど」
「え〜? 私は緑色のバナナが好きなんだけど」
自分の好みを言いつつ、言葉の頭と語尾をそろえてみた。御銫はゴロッとうつ伏せになり、子供みたいに足を左右にバタバタさせる。
「冷たいのがいいの〜」
「それだったら、一口大に輪切りにして、冷凍庫で凍らせればいいじゃないですか?」
御銫が左右にゴロゴロと転がるたび、シーツのシワが濃くなってゆく。
「それ硬すぎるから、や〜!」
「こだわり派だ」
何だか可愛く思えて、瑞希は珍しく微笑んだ。冷蔵庫の中に首を突っ込み、彼女の声がくぐもる。
「水かフルーツジュースしかない……。よし、水をもらいます!」
「いいよ〜」
空に浮かぶルビーのようにきらめく航空障害灯。車のヘッドライドの川。遠くのビルの窓明り。それらを眺めながら、瑞希はミネラルウォーターをかたむける。
ダイスで決めたられた行き先。あのチビっ子が言っていたように、新しい発見はあった。
(やっぱり人生何が起きるかわからないね……)
そこへもっとわからない発言が、ベットから向かってきた。
「俺、お前の手コ◯――にやられちゃったんだけど……」
純真無垢なR17。勝手に行為の名前がすり替えられていたことに、瑞希は即行ツッコミ。
「あれは手◯キじゃないです! 手の甲がすれただけです!」
痴漢でもなく、バッグを引っ張っていただけ。さっきまで子供みたいだったのに、御銫は教師になったみたいに形勢逆転する。集合時間を仕切るように、薄闇の中で手招き。
「はいはい、俺のところに戻ってきて。早く!」
「はい……」
瑞希のローヒールサンダルがベッドに近寄ってゆく。結露ができ始めたミネラルウォーターのペットボトルを持ちながら。
「手」
綺麗で大きなそれが、何の下心もなく差し出された。
「はい……」
瑞希の香水がふわっと舞い、その上に御銫の手を乗せられると、安心したように、黄緑色の瞳はすっと閉じられた。
「お前にさ、会えてよかったよ」
就寝時刻をとうに過ぎている御銫の言葉が、途切れ途切れになってゆく。
「たとえ、……だけでも、お互いの……から消え去っても」
頬に乱れかぶった山吹色の髪がかき上げられることもなく、綺麗な唇はまだぎこちなく動いていた。
「……する……の時まで、一緒にいるから……お休み」
抜け落ちた言葉たち。スースーと気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。御銫のミラクル旋風に乗せられ、明日の朝まで帰れなくなった瑞希。
しっかりと握られた手の温もりを感じながら、彼女は違和感を強く持った。
「一緒にいる? 消え去る? また無意識の直感かな?」
答えてくれる人はもういない。瑞希の香水をつけた手首が御銫の頬に近づき、指先で乱れた髪を直す。
(可愛い寝顔だ。この人はとても純粋なんだな。こんなに心の澄んだ大人の人に初めて会った。修道院に行く前に出会えてよかったな。今日はいい日だった。神様に感謝だ)
寝息を聞きながら、彼女は夜空を見上げる。クレーターが見えるほど大きな満月。明日はあれが少し欠ける。今隣で眠っている御銫は、あの月のような変化を持っているような気がした。なぜだか。
時々冷蔵庫がグーンと低くうなるのを聞きながら、月が西へ傾いてゆくのを、瑞希は冷たい大理石の上で、地べた座りをして眺めていた。
どのくらい時が過ぎたのだろう。携帯電話を見ようとするが、瑞希は急に体の異変を感じて、
(ん? 急に眠くなって……)
空になったペットボトルが大理石の床に、力なくコトンと落ち、コロコロと少しばかり転がっていった――――
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