純真無垢なR17(part2)
電車が到着もしていないのに、降りてくる人がやけに多い階段。妄想世界で戦士になっている瑞希は、あたりの異変に気づかなかった。
全て登りきったプラットホーム。広がった光景に驚き、現実世界へ引き戻された彼女は、クルミ色の瞳を大きく見開いた。
(うわっ! ど、どうしてこんなに混んでるの?)
右側に入ってくる電車に乗るために並ぶ人の列。その
ホームのコンクリートはもはや人の海で、まったく見えない状態。それでも、人の流れを探し、瑞希は進んでゆく。
(うわ〜! やっぱり山ノ足線混んでる……。こんなにいつも混んでるのかな?)
自販機のライトもかろうじて、あそこにあるだろうぐらいにしか見えないほど、人、人、人の山。いやこうなったら山脈である。
いつ線路に転落事故が起きてもおかしくないほどの大混雑。改札が今すぐに閉鎖されてもおかしくない寸前まで来ていた。
そこで、さっきからみんなが繰り返し聞いているアナウンスが響き渡った。
「
首都を環状している路線。ひとつでもトラブったらアウト。瑞希の心は驚愕に染まったが、すぐに平常を取り戻した。
(電車が来ないから、こんなに混んでるのか! このラッシュに何か意味があるのかな?)
瑞希の歩みは止まり、今登ってきた階段を振り返る。
(それとも、ここで時間を潰して、三丁目の駅で普通に帰るだったのかな? じゃあ、戻ろう――)
そう思ったが、彼女は
その一手間を惜しんだばかりに、待ちに待った電車がホームに先頭を突っ込んできた――先手を打たれた。
「電車到着しております。白線までお下がりください」
この機を逃してなるものかと、階段からホームへ乗り込んでくる人の津波に瑞希はさらわれ、どんどん後ろへ押され始めた。
(え、えっ!? も、戻れない。階段が〜〜! どんどん遠くなって……)
そうこうしているうちに、電車がホームへ到着。今度は列車に乗り込もうとする左の流れに連れていかれる。
もうこれ以上乗れないだろうというのに、降りる人のためにシューっと開いたドアへ他の人たちと一緒に、瑞希は吸い込まれてゆく。
(やっぱり、この電車に乗れってことが正解だった? しょ、しょうがない。大人しく乗ろう。せめて、肩がけのバッグは降ろさないと……。他の人の迷惑になっちゃうからね)
斜めがけしていたアウトレットのバッグを手持ちに変えて、いざ出陣。満員電車レベル九十六に挑戦。
すでに乗る場所がない車内。瑞希は背を向けて、ドアの上にある壁に手をかけ、そこを反動にして、体を中へ無理やり押し入れた。
(よし! 乗れた!)
それでもまだスペースはあると、次々に背中から乗り込んでくる人々。瑞希はバッグを手にしたまま、反対側のドアへ流されてゆく。
(うわっ! いたたたたっ! 乗る乗る〜! みんな待ってたんだもんね、乗るよね〜)
足の踏み場がないほど、靴だらけの電車の床。
(どこまでも流されて……。っていうか、ドアから離れたい! 右だ、右!)
入り口近くのポールからふたつほど奥へ入った、つり革前で何とか止まった。しかしそれでも入ってくる人の群れ。瑞希にピンチがやって来てしまった。
(あっ! バッグと自分が離れそうになってる! 何とかこっちに引っ張らないと……)
右手だけでしか持っていないバッグ。離したら最後、どこへ行ってしまうかわからない。
今は人々の陰で姿も形も見えないそれを、必死に自分へと引き寄せる、腕の力を駆使して。
「発車します」
どんなにゆっくり動き出そうとも、足を広げて乗れないほどの混雑。ドミノ倒しのように倒れそうになる。
(うわっ! お、押される……。捕まるところがない!)
瑞希は頭上をくまなく探す。ポール、つり革、その間にある鉄の棒。どこもかしこも人の手だらけ。まったくスペースがない。
まっすぐ立とうとする人の流れで、
(バッグ離れちゃう! 引っ張って!)
話し声がまったく聞こえない車内。話せる雰囲気ではない。超満員電車。ストレスマックス空間。殺気立っている電車の中。
妄想する余裕もない。とにかく乗り換えの駅までの我慢である。しかし、
(うわ〜! 急ブレーキ!)
バタバタと靴音が響くと同時に、人がドッと押し寄せてくる。下手をすれば、ボウリングのピン並みに倒れそうな急停車。
(仕方がないよね。運行が乱れてるから、赤信号が出てくるんだよ。で、そのたびにつかまってない人が、民族大移動のごとく動く〜〜!)
瑞希のすぐ隣に、白のはだけたシャツがいつの間にか立っていた。山吹色のボブ髪。それは他の人よりも頭ひとつ半ほど上に出ていて、天井に着きそうなほど高い。
ようやくひとつ目の駅に到着。何重にもかけられたペンダントヘッドの前で、瑞希は安堵のため息をもらす。
(あぁ〜、私は降りないんで、背中の後ろを通ってください!)
奥から人が湧き水のようにドヤドヤと流れ出てくる。瑞希は背をそらして、無理やり隙間を作る。
綺麗な筋肉がついているお腹がはみ出している、白いシャツへと彼女の顔はあと数ミリでぴったりと着きそうになった。
ドアから再び人が乗ってきて、車内が動き出した。瑞希は必死に捕まえる、誘拐されそうなバッグを。
(人が動くたびにバッグが〜〜! 離れちゃうから引っ張らないと……)
出発した車内で、彼女はブラウンの頭に異変を感じた。
(ん? 誰かの視線を感じる……)
ふと顔を上げると、そこには宝石のようにキラキラと異様に輝き、どこかいってしまっている瞳の黄緑色が降り注いでいた。
瑞希のクルミ色のずれているそれと出会うが、それは刹那。気まずそうに、彼女は視線をはずす。
(……仕方がないよね。すぐ近くにいるから目が合うよね。他のところを見ておくようにしよう)
パーソナルティースペースは完全に破壊されていて、電車が動き止まるたびに、人々は進行方向に前進後退する。
熱く激しい
妙な問い詰めるような感じがする視線――
瑞希はもう一度見上げた。白のはだけたシャツから露出している鎖骨を通り越して、男――いや少年の瞳を。
黄緑色の瞳とクルミ色の瞳は、密着度満点の中でバッチリとぶつかった。しかも、なぜか火花を散らすような殺気立った様子で。
しかし、瑞希は宝石のような瞳の魅力に吸い込まれてしまって、そんなことに気づかず気まずさだけを感じて、視線をそらした。
(とても澄んだ綺麗な目してる。きっと心も澄んでるんだろうなぁ〜。子供でもこんなに綺麗な人いないよね?)
瑞希の視界は何重ものペンダントが描く銀の楕円だけになった。その中のひとつ時計のヘッドをぼうっと眺める。
(十八時十分すぎ……)
ゴトゴトと進んでゆく電車。瑞希は考えないようにしたかったが、少年は美しすぎた。空から降りてきたのかと見間違うような、神がかりな顔立ち。
(彫刻像みたいな彫りの深い顔だ。この世の人じゃないみたいに整ってる。この人に会えただけでも、この電車に乗ってよかった。神様に感謝だ)
瑞希は至福の時を迎えたが、それは長く続かなかった。
彼女は体の一部に異変を感じて、満員電車の混雑からくる苦痛ではなく、別の意味で顔をしかめる。
(あれ? 手の甲に何かがある……。さっきまで何もなかったよね?)
直視したかった。ひどく嫌な予感がした。だが、人が幾重にも重なっていて、手の甲の感覚をたどるしかない。原因究明に当たる。
(硬い棒状のものがある……? でも、これはどこかで感じたことがある……!! これはっ!?!?)
バツ二のアラサー女の中で、経験値を使って答えをはじき出した。それは衝撃で狂気で脅威で革命……それぞれに
(きゃああああっっ!?!? 手を急いで離せ! す、すみません! バッグを引っ張ってた手がすれて――!)
バッグを引っ張っていた手を自分へできるだけ寄せた。人がいっぱいいる静かな車内。ことがことなだけに、瑞希は声にはせず、白いシャツの前で小さく頭を何度も下げた。
(すみません、すみません! 本当申し訳ないです!)
しかし、電車が次の駅に着くと、バッグを持っていた手首をガバッとつかまれ、列車の床をローヒールサンダルはずるずると引きずられ始めた。
(え……えぇ? あ、あの……ちょっと待ってください! 私は降りないんです! 手を離してください! あ、あの!)
ツルツルとした床の感触がなくなり、ストンと一段落ちた。コンクリートの無機質でありながら、夏の熱を十分吸い込んだホームに、サンダルのヒールは立たされた。
瑞希の真正面には、白のはだけたシャツが夜風に舞い、二メートル越えのすらっとした長身で、最低限の筋肉が綺麗についている少年の唯一止められたボタンがあった。
個性的なシルバーのアクセサリーたちの輝きは、まるで天から降り注ぐ聖なる光を浴びているような神聖なオーラ。
皇帝で天使で猥褻で純真で大人で子供で、様々な矛盾だらけの少年の声。それは怒っているのではない。笑っているわけでもない。
ただ威圧感この上ない。地上にいる全ての人をひれ伏せるような強烈な力を持っていた。
「お前さ、俺に何してくれてんの――?」
「あ、あぁ……すみません」
瑞希は素直に頭を下げたが、少年のズボンのチャックまわりは見ないように、十分気をつけた。
螺旋階段を突き落としたようなぐるぐる感のある声で、体の部位名と状態の単語が何の躊躇もなく、いや
それどころか、純真無垢という言葉が一番似合う。矛盾しているようだが、この少年が口にすると、そうとしか言いようがなかった。
「俺のペニ◯さすってボッ◯させてる。これって、痴漢行為だよね?」
浴びせられた言葉が言葉だったが、瑞希は真摯な気持ちで、少年の黄緑色の瞳をまっすぐ見つめた。
「……確かに結果はそうですけど、違います」
「どう違うの?」
二メートル越えの長身。それだけでも目立つのに、そばを通っていた女子高校生の黄色い悲鳴が突如上がった。
「きゃあああっ!!」
改札口にいた時と同じように、写メのフラッシュが大量に焚かれ始めた。まるでどこぞの記者会見のようになってしまった駅のホーム。
他の人たちは迷惑がるどころか、写真を撮る人と目を見張る人ばかり。
しかし、
「故意にではありません。バッグが自分から離れそうになってたのを、引き寄せるのに、手の甲がすれただけです」
そうして、またやって来る。神がいるような畏敬、荘厳。あたりの空気はビリビリとしたものに豹変した。
フラッシュは止み、まわりを通っていた人々は不意に立ち尽くす。彼らの手足はなぜか震え出した。
「肩にかければよかったんじゃないの?」
他の人がひるんでいる中で、瑞希だけは一歩少年に歩み寄った。
どこかの国にある謁見の間で、皇帝陛下が座る玉座の前に伸びる赤い絨毯。その上に立っているような気持ちに嫌でもなり、最敬礼でひざまずいているが、誠に僭越ながら……をすっ飛ばして、瑞希は少年に物申す。
「いや、混雑してる電車の中では、足元のほうが空いてるので、下におろしたんです。他の人の邪魔にならないように。ですが、乗る時にうまく自分のほうに寄せたままにできなかったんです。だから、それは私の責任です」
「そう」
どんな意味があるのか、どんな感情があるのかわからない、短いうなずき。山吹色のボブ髪は額から後ろへ気だるくかき上げられる。
逃げ出しもせず、少年のズボンのチャック前を手で指し示して、瑞希は真面目に丁寧に頭を下げた。
「あの……ご立派な状態――にしたことは、すみませんでした」
少年は笑いもせず、表情ひとつ崩さず、視線もはずさず、この時を待っていたと言うように、アンドロイドみたいな無機質なまだら模様の声を響かせた。
「お前、鈍臭いね」
「え……?」
ピンクの細身のズボン。白のはだけたシャツ。下から順番に瑞希の視線は登ってゆき、銀のペンダントヘッドにたどり着く前に、彼女は強く横へ体を引っ張られる感じがした。
「っ!」
体が勢いよく半円を描く。その感覚は何かに似ていると瑞希は思った。それは遠心力――
遊園地にあるティーカップにでも乗ったように、少年と瑞希は見つめ合ったままぐるっと回ったかと思うと、駅のホームからすうっと消え去った。
ふたりがいた足元には、絵の具の空チューブがしわくちゃの顔をして落ちていた。
*
カツンと足元で、硬いものに尖ったものが当たった音がした。真正面にいたはずの少年の声が右側からやってくる。皇帝のような威圧感があるのに、春風のような柔らかさを持つ響き。
「人間ってさ、自分に都合のよくないことから、すぐ逃げるよね?」
湿った生ぬるい夜風が、乾いた心地よい冷たいものへと変わり、頬をなでるわけでもなく、寄り添うだけの無風。
いつの間にか閉じていた瞳をまぶたから解放した。本当に理解できない話で、瑞希は不思議そうな顔をする。
「そうなんですか?」
彼女の生き方はとても不器用。何事も真正面からぶつかってゆく。弾き飛ばされようが何だろうがそれでもぶつかってゆく。
もし逃げていたのなら、うわべだけでごまかしごまかし生きて、離婚も失踪もしなかっただろう。
夜色が混じってしまった山吹色のボブ髪は、手でくしゃくしゃにされた。
「しかもさ、相手の男が普通とは限らないよね?」
妄想癖がひどいと自覚のある瑞希は、よく考えないで返事を返してしまった。
「あぁ、その件に関しては、自分はかなり変わってるので、全然気にしません」
人の気配が他にまったくしない、ふたりきりの場所。照明なしの薄暗さ。相手は少年とはいえ、男である。危険な香りが思いっきり漂っていた。
「そう」
少年はホストみたいに微笑んで、軽薄的にうなずき、言葉を続けた。
「じゃあ、次」
何かのデータを取っているようだった。都会の喧騒が何ひとつない空間。
自分の居場所と立場を忘れさせられているような、いや惑わされているようで、瑞希は未だ自分がどこにいるのか知ろうともせず、少年の彫りの深い顔をまじまじと見つめた。
「え……?」
袖口のボタンが全開にされたシャツの腕を、ガラス窓にもたれ掛けさせる。その仕草はひどくエロティックでサディスティック。
「どう? この景色。俺の家、タワーマンションの最上階」
「……け、景色? えっ? ど、どこ……?」
全面ガラス張りに、瑞希のどこかずれているクルミ色の瞳が映った。足元には都会の光る海。航空障害灯の赤いランプが同じ高さで、遠くにいる蛍火のように点滅を繰り返す。
後ろへ振り返ると、闇色に染まっているベッド。ソファーにローテーブル。奥にあるカウンターキッチの主役、冷蔵庫が鈍いシルバー色を放っていた。
(さっきまで駅にいたのに、どうして、この人の部屋にふたりきりでいる――?)
自宅にお持ち帰りされてしまった瑞希。考える暇もなく、少年がすぐ隣で右手をパッと斜めへ上げた。
白いはだけたシャツの裾が揺れ、彼の綺麗な素肌が顔をのぞかせる。健全でありながら色情という風を吹かせて。
「はい! じゃあ、感想を言っちゃってください!」
「えぇ〜っ!?!?」
瑞希は意見求めます的に、少年をじっと見つめた。どうも彼のペースに巻き込まれている感が
少年は気にした様子もなく、ペンダントヘッドの中から時計を取り出して、黄緑の瞳でじっと見つめ、
「制限時間一分。スタート!」
ツッコミどころ満載だったが、瑞希は一生懸命考え出した。
「ん〜〜?」
部屋の大理石に伸びている自分たちの影を眺めたまま、ない頭を悩ませていたが、瑞希の得意技が出た。頭の中で電球がピカンとついたようにひらめいた。すっかり相手のペースに流されている瑞希は挙手する。
「あっ、はい!」
空を突き抜けてしまうような超ハイテンション。砕けているのか丁寧なのかよくわからない、少年独特の口調。
「はい、そこの女、どうぞ答えちゃってください!」
ローヒールサンダルで大理石をかみしめるようにして、窓に向かって仁王立ちした。ヤッホーと叫ぶように、手のひらを口に添え、力の限り叫ぶ!
「ここはどこかの展望デッキですか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
夕日のバカヤロー的に、いつまでもどこまでも、彼女の低い声は響いていた。しかしやがて、息切れとなり、ミニスカートの膝に両手を当てて、上半身を前後に激しく揺らして息を整える。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……。もう一日分のエネルギーは使い果たしました。ご
仏壇の
「以上です」
瑞希のパフォーマンス終了――
いつの間にか指先に持っていたマスカットを、少年は瑞希に軽く押し出す。
「うん、合格。いいよ」
何かを見極めているような言葉。シャクっとかじられた果実の前で、瑞希はぽかんとした顔をした。
「はぁ〜?」
万華鏡のように不規則に無限に変わりゆく車のヘッドライトの川を眺める黄緑色の瞳。その奥にある脳裏で、過去の記憶が
「今まで連れてきた女はさ、『綺麗〜!』とか『素敵〜!』とか『すご〜い!』だけだったんだよね」
交わることもない他の女の話をされても、瑞希は戸惑うばかり。
「はぁ……」
「感性の貧弱さがあるわかりだよね? でさ、どうしてそう思うのかって理由聞くと、答えられないんだよね。それってさ、どんなに着飾ったって、心は老婆でしょ? 話すだけ時間の無駄。だから、そんな女は即行送り返したけど……」
無機質に合理主義な男。自身の理論からはずれているものは決して許さない。異常がつくほど厳しい性格。
だったが、瑞希は別のところで妙に感心した。
(この人は心が澄んでるんだ、本当に……。相手の心を大切にしてるんだから……)
まるで学校の先生が教壇に立っているように、少年は右手を上げて、注目をさせた。
「はい! 次の質問です!」
「はい?」
次々に巻き込まれる、ミラクル旋風という名の独特なペース。ペンダントヘッドからまた取り出した時計を、少年は無機質に瞳に映す。
「この景色を展望デッキと思った理由を答えちゃってください。制限時間二分、スタート!」
「ん〜?」
真面目な瑞希はしばらく考える。少年と自分の足元に広がる光の海。ところどころで点滅する様々な色の明かり。車のテールランプの赤い川。それがまるで砂時計の砂のようにスルスルと遠くへ落ちてゆき、残り時間を知らせているように思えていたが、
「夜景……光……!」
ピンとひらめいた瑞希の右手は再び上がった。
「はい!」
「はい、そこの女、どうぞ答えちゃってください!」
まだら模様の軽薄的な声が言うと、瑞希は窓際に歩み寄りながら、ヒールを大理石に打ちつけて、カツンカツンと哀愁のリズムを刻む。
今は夜色になってしまったタンクトップの前を手で握りしめて、センチメンタルに潤ませる瞳。
「幾つもの人生がひしめき合う都会の海。まるで運命のように、それらひとつひとつが絶妙に絡み合う光のイリュージョン。そこを見下ろす私は傍観者」
詩でも読んでいるみたいな体言止めの連続だった。街で客引きでもするホストのような声がかけられる。
「いいね。何かやってんの?」
マイワールドから戻ってきた瑞希は、照れたように頭をかいた。
「あぁ、昔シンガーソングライターを目指してました」
「そう」
そこにまたどんな意味があるのか、どんな感情があるのかわからない、短いうなずきをして、少年の彫りの深い整った顔立ちは、ナルシスト的に微笑む。
「ノリいいね〜」
「あぁ、ありがとうございます」
素直にお礼を言った瑞希だったが、こんな言葉が少年から返ってきた。
「ノリいい人間ってさ、話適当に流しておけば、罠に簡単にはまるタイプだから、いいね――」
瑞希はすっと真顔に戻って、化石並みに固まった。
「え? 罠にはめる? 聞き捨てならないな……」
あのチビっ子から、人に会うとは聞かされていない瑞希。
「あれ? 駅で話してたのって、わざと長くしてた……?」
今頃それがおかしいと気づいたが、何がどうなっているのか、この少年の頭の良さがどうやってできているのか知る前に、さえぎられてしまった。
「今はそれいいから、はい!」
少年の長い足は、大理石の上を裸足でピタピタと歩いていった。窓際に置いてあったデッキチェアのそばで手招きする。
「こっち来て、ここ座っちゃって!」
「あぁ、はい……」
近づいてきた瑞希の肩を、少年は下に押して、チェアに座るように仕草だけで命令した。
「はい、空見ちゃってください!」
無理やり視界を下げられた頭上に、幻想的な景色が広がった。夜空に浮かぶクイーン。銀の月影が惜しげもなく降り注ぐ、ガラス張りの部屋。
どこかずれているクルミ色の瞳は感嘆で見開かれ、瑞希は歓喜の声を上げた。
「うわー! やっぱり高いところだから、月が近くに見えますね〜。いつもこの空を見てるんですね?」
隣の大理石には片膝を立てて、ラフに座った少年の声は、どこか寂しげだった。
「あれはもっと綺麗なの、本当は……」
「え……?」
さっきまでの超ハイテンション、軽薄的でナンパは息を潜めていた。瑞希は視線を落として、少年の横顔をそっと見つめると、ふさふさした何かが視界に映り込んだ。
(あれ? 気のせい? 背中の後ろに何かあった気がしたけど……)
月を見せたくて、チェアに座らせたのに、自分の顔を見ている。瑞希の視線に気づいて、少年はブラウンの髪に優しく触れ、真正面に戻した。
「はい、ほら! よそ見しないで」
「あ、あぁ」
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