銃声は都会の海に消えて(part1)

 ミッドナイトブルーの空。浮かぶ大きな銀盤。夜空に手が届きそうな高層ビルの屋上。角にある細い柵の上に、すらっとした人が立っていた。


 瞳はスミレ色。遠くの地面まで切り刻みそうなほど――鋭利。その一言に尽きる。


 非常に高い場所での強風に、針のような輝きを持つ、銀の長い前髪がサラサラと揺れ動く。


「守る価値などないだろう……」


 男の声が風に乗せられ散ってゆく。月影を一人で浴びながら、大きな翼でも羽ばたかせたように、上空へゆっくりと舞い上がる。


「どのようなおつもりだ?」


 星空の向こう――さらに高い場所へと問いかける。奥行きがあり少し低めの男の声が、純粋に疑問という色を持って。やがて、諦めたように首を横へ振ると、銀の前髪がサラサラと揺れた。


「いい、調べてやる。ありがたく思え」


 俺様ボイスが響くと同時に、柵の向こう側――夜の街が広がる上へ男の体は傾いた。銀の光を浴びたその姿は、最低限の筋肉しかついていない体躯。


 空を真正面で見る形で、背中から落ちてゆく刹那。重力のかかる方向が変わる瞬間の立ち止まりで、男の右手が星空へ向かって構えられると、


 ズバーンッッッ!!!!


 都会の海に銃声が鳴り響く、あたりの空気を引き裂くように。


 ゴーーーーーッッッ!!!!


 銃声は摩天楼にこだまする。弾丸が発射された反動で、男の体はロープが切れたエレベーターのように猛スピードで空中を地面へ向かって急降下し始めた。


 身ひとつで体を守るものが何もない。それなのに、風に乗った鳥のように悠然とビルの谷間を落ちてゆく。窓明かりが男の両脇を、特急列車のように次々と通り過ぎていった。


 だが不思議なことに途中で、ビューっと頬を切るような強い風がにわかに吹くと、男のすらっとした姿は透明色に染まり、すうっと消え去った――――


    *


 大きな駅の西口ロータリー。歩道の柵にぼんやり座ったまま、瑞希は考えていた。ノーリアクションがもたらす様々な出来事に対処する方法を。


 彼女が着ている紫のタンクトップとブラウンの長い髪を見ている、鋭利なスミレ色の瞳があった。


 それは、ロータリーを真ん中にして反対側。さっきまでいなかった全身黒で決めている男。


 シャツの襟元は複雑に切り込みが入った、オシャレ感満載。その一部をネクタイがわりのように縦に絡ませている。貴族的な雰囲気をかもし出す結び目。


 細身のズボンは膝下が皮地と綿という、こだわりの一品。洗練されたデザインで縫い合わせてある個性派。先の尖った黒いショートブーツが、足元で気品を匂い立たせている。


 すっかり日も落ちて暗い街並み。男は不意に手のひらに出てきた、顔の線を消すような大きめのサングラスをかけた。怪しさ全開だったが、何か理由があるようだった。


 まさか背後からターゲッティングされているとは思わず、瑞希は無防備な背を見せたまま、首を右に左に傾ける。


 叡智えいちの意味を表すエメラルド。その宝石を埋め込んだピアスが、瑞希へまっすぐ向かって行こうとした。しかし、彼の耳に何かが入り込む。


 それは、チャンネルの合わないラジオのような、ザーッという雑音に混じってくる、いくつかの話し声。銀の長めの前髪が不機嫌に横へサラサラと揺れる。


「……放置だ」


 瑞希とデパートをつなぐ横断歩道の奥へ、サングラスに隠された鋭利なスミレ色の瞳が、今にもバラバラに切り刻みそうに差し込まれていた。


「……俺は今は無理だ。他のやつがやれ」


 誰かがそばにいるわけでもなく、携帯電話もあるわけでもなく。独り言は都会の喧騒へと溶けてゆく。人に何かを譲ろうとしていた。


 男は瑞希が柵から立ち上がった後ろ姿を、今もしっかりターゲッティング中。他のことは全て置き去りにして。


 それでも、聞こえてくる雑音の状況は変わらないようだった。鋭利なスミレ色の瞳はほんの少し、瑞希からそれて、悔しそうにショートブーツで石畳を蹴りつけた。


「くそっ!」


 瑞希がデパートへ人混みを横切り始めたのを、視界の端に映したまま、男の姿は信号待ちの人が動き出す寸前でできる死角の中で、にわかに強風が吹き荒れると、消え去っていた――


    *


 駅近くの大通り。少し中へ入った一方通行の薄暗い路地裏。ビルの壁を背に、三人の男に囲まれた、女の表情は完全にこわばっていた。


「ねぇ、いいじゃん?」

「俺たちといいとこ行こうよ」


 表舞台からはずれた脇道。遠くには人がたくさんいるのに、自分たちのまわりには誰もいない。都会の死角。


「離してくださいっ!」


 手首を馴れ馴れしく触られている女が叫ぼうとも、騒音がひどくかき消されてしまう。ふざけた感じで、どこにもいそうな男が全身をなめ回すように見てくる。


「嫌よ嫌よも、好きのうち〜?」

「違います。誰か助けてください!」


 女の容姿はどこか冴えない。特に綺麗でもなく、着ている服も特徴があるわけでもなく、まるで心の内を表すかのように、ひどく色形がぼやけていた。


「誰も来ないよ〜」


 男たちがさらに手を伸ばそうとした時、カチャッと金属がすれる音がした。男の一人のこめかみに冷たい感触がにわかに広がる。


 そうして、その向こうから、奥行きがあり少し低めの上品な男の声が態度デカデカで言ってきた。


「貴様の頭に風穴を開けてやる。ありがたく思え」

「あぁ?」


 邪魔するなと言うように、今にも襟首をつかみそうに、男は気だるく聞き返し、振り返った。そこには――


 拳銃44−40口径モデル。フロンティア シックス シューターの銃口が向いていた。


 鉄の玉を頭に打ち込まれ、即死。容易に想像できる構図が、嘘でも冗談でもなく、シリアスに展開中だった。


 カチカチと銃弾を叩き出すハンマーが後ろへ向かって倒されてゆく。最大限までとうとう来た。あとは指をかけているトリガーを引けば、死体がひとつ出来上がるという寸法だ。


「ウエェッッッ!?!?」


 これ以上大きくならないというように目は見開かれ、男の声は思わず裏返った。


 裏路地で向けられた拳銃。相手の格好は警察でも何でもない。黒一色の二メートルに迫るような長身。


 目は口ほどに物を言う――。かけられたサングラスで、瞳はうかがい知れない。いやでも恐怖心はあおられる。


 銃口の向こう側で、怒りがメラメラと燃える炎ではなく、地底深くでグツグツと煮えたぎっている、マグマのような重厚感を漂わせる。火山が爆発したら最期さいご


 ビーム光線を体に差し込まれているような威圧感。鋭利に切り刻まれるような殺意とも言い換えられる。それが銃口からひしひしと伝わってきて、


「ウワッッッ!!!!」


 男たち三人は叫び声を上げながら、大慌てで逃げていった。女は安堵のせいでアスファルトにヘナヘナと崩れ落ちる。


 サングラスの男は声をかけることもせず、先の尖ったショートブーツを反転させ、立ち去って行こうとした。


 一ミリのズレも許せないと言わんばかりに、整えられた襟足の銀色をした髪。女は目を潤ませて、最低限の筋肉しかついていない男のすらっとした綺麗な背中に手を伸ばした。


「あ、待ってください! 助けてくれて、ありがとうございました」


 男は振り返ったが、地べたに座っている女に近寄ることもなく、サングラスもはずされることなく、何の間違いもなくこう言った。


「貴様の頭はなぜ、そんなに壊れている?」

「え……?」


 不思議なものでも見つけたように、男はサングラスをかけたまま、パーソナルティースペースを完全無視で、女とキスができそうな位置まで顔を近づけた。唇の形だけでも、美形だとわかるほどの秀麗。


 そこから出てくる言葉はやはり間違いでなく、男にとっては正論だった。


「なぜ、俺が貴様を助ける義務がある?」

「え、どういうことですか?」


 相手が理解しようとしまいと、自己解決で勝手に進んでゆく。ゴーイングマイウェイ。


「あいつらがあとひとつ罪を重ねたら地獄行きになるから、罪を犯す前に助けたまでだ」


 銀の長めの前髪を持つ男は、男たちを助けにきたのだった。女は眼中にもともとなかった。男にしてみれば、お礼を言われたのは意味不明だった。


「あっちを助けた?」


 女は女で、違う意味不明の嵐に巻き込まれ、ぽかんとした顔をした。話が通じていないのを見て取った男は、とうとう怒りが火山噴火した。


「貴様、こっちに来い!」

「え、えっ!?」


 女は立ち上がる暇もなく、引きずられ始めた。男は自分の歩幅――長い足でどんどん大通りへ歩いてゆく。


「あ、あの!」


 バッグの中身がアスファルトの上にぶちまけられようとも。女の足がもつれて、まともに歩けず、膝やスネを地面にこすりつけようとも。


 男は気にせず、力づくで女の手首を握り、ショートブーツはゴーイングマイウェイで進み続ける。


「っ!」


 大通りの灯りがブーツのつま先に差し込むと、男は女を物でも扱うように歩道に放り投げた――いや突き飛ばしたように見えた。


「っ!」


 平和な人混みの中に、勢い余って倒れた女。近くを通っていた人々はびっくりして立ち止まり、ドーナツ化現象を撒き散らした。


 男にとっては他の人の反応も、人の目などもどうでもよかった。この地べたに横座りしている女に、文句を言うほうが先だった。


 グツグツと煮えたぎっていたマグマが、山の頂上から天高くヘスカーンと抜けるように怒鳴り散らした。


「貴様、俺に手間をかけさせるとはどういうつもりだ! 少しは自分の身をわきまえろ! 貴様程度のくだらない女に、声をかけてくるやつは、レベルの低い体目的か金目的に決まっているだろう! ウカれて暗い路地裏について行くとはどういうつもりだ! 自分の身も守れないくせに、対策も取らず動くとは、貴様の頭はガラクタか!」


 身もふたもなさすぎだった。泣かないほうがどうかしているほどの迫力で、女は顔を覆って嗚咽をもらし始めた。


「うぅ……」


 人垣という傍観者たちが男たちに抗議の眼差しを向ける。こんなことで引くような中途半端な信念で、男は物を言っていなかった。真剣に話しているからこその言動だった。


 細い腕は腰のあたりで組まれ、人差し指が苛立たしげにトントンと叩きつけられる。


「自身で責任を取れ。貴様が全て招いたことだ。大通りを歩いて、まっすぐ家へ帰れ! この俺の時間を割いて……」


 泣いている女を無情にも置き去りにして、男はモデルのようにクルッと華麗にターンした。黒のショートブーツは遠ざかってゆく、文句を吐き捨てながら。


「くそっ! 見失った。どこだ? あの人間の女……」


 他の人が背中をにらんでいる中で、男の針のように鋭く輝く銀色の髪と、すらっとした黒真珠のような気品漂う長身は、人々の目線の先で平然と消え去った――――


    *


 瑞希のどこかずれているクルミ色の瞳は、今やしっかりとしていた。昔とった杵柄きねづか。自身の得意ジャンルと言ってもいい、CDショップ。


 様々なジャケ写がアーティストという個性を見せる、新作CDを手に取っては、人混みモードで、心の中で熱く語り中。


(最近CDじゃなくて、データで買っちゃうから久々お店に来た。いつも歩かない景気が見れただけでも、よかったなぁ〜。ふふ〜ん♪)


 背表紙が並ぶ棚へ振り返ると、ブラウンの長い髪が背中でサラサラと揺れ、香水があたりに漂った。


(あっちに行ってみよう! 何かいいものがあるかも〜♪)


 好きなものに囲まれた空間。瑞希は天国の雲の上をスキップするような気分で進んでいた。邦楽から洋楽コーナーへと回り込む。


(ん〜〜? あっ、MUZE/ミューズだ!)


 オルタナティブロックのCD。その背表紙を指先で横になぞってゆくが、あるタイトルで運命的な出会いをし、瑞希は至福の時に包まれた。


(うわっ! このCDあったんだ! 十年前に発売されて、ネット上じゃ価値が上がって、何万もするんだよね。こんなところにあった! しかも原価だ)


 何度もネットで確認した曲目を思い浮かべる。


(この中に入ってるカバー曲またよくてさ。Can't Take My Heart Off You/君はいつも僕の心にいる!)


    *


 気づくと、妄想世界で瑞希は大歓声を浴びて、コンサートの舞台に立っていた。スポットライトからの熱が、心に火をつける。


 ゆったりとしたスイングのリズムで左に右にステップを踏む。しかし、サビ前の長めの間奏へと入り、ロックの縦揺れを、ブラウンの髪を激しく揺らしながら再現し始めた。


 サビへと徐々に盛り上がってゆき、瑞希はスタンドマイクを斜めに押し倒した。右手を高々と上げて、得意げに歌い出す。


「♪I〜love〜you〜, baby!」


 後ろへ引っ張るようなグルーブ感でノリノリだったが、歌詞を覚えておらず、次から適当になった。


「And if……ふんふんふ〜ん♪」


 しかし、またサビの頭部分になると、スタンドマイクを斜めに倒して、手を挙げ、一音ずつ押し込むようなアクセントをつけて熱唱する。


「I〜love〜ya〜, baby〜〜〜〜♪」


 スタンドマイクをくるくると回し、コンサートは最高潮を迎えようとしていた。


    *


 妄想もれがまた起きていた。CDショップにいた他の客たちの視線が集中する先では、三十路の女が棚の間で、髪を縦に激しく揺らして踊っている姿があった。


 まぶたは開かれたが、瑞希の意識は興奮冷めやらぬ様子で、両手を胸の前で組む。


(いいんだよね。この曲カバーしてるアーティスト他にも人たくさんいるんだよ。超有名な曲だからさ)


 まだまだ熱くマニアックに語り中。


(めちゃくちゃポップな曲なんだけど、MUZEがアレンジすると、ロックなんだよね。しかもオルタナティブだから、うまい具合に王道避けてる……。素晴らしいっ!!)


 瑞希は両足をしっかりと開いて、CDの真正面に立ちはだかった。しがないバツ二フリーターのサガと対峙する。


(よし! これは、修道院に行くまでの食費をなしにしても買う、だっ!)


 一日千円。約三千円のCD。三日も飲まず食わずにさせる代価。それを差し引きしても、音楽という恵みの雨を与えてくれる一枚のディスク。瑞希は満面の笑みでかがみ込んだ。


 あと一ミリでお目当てのものにたどり着きそうになった時、斜め上から繊細な誰かの手が降りてきた。


「ん?」


 CDを棚から引き出そうとすると、ふたり分の力で簡単に全貌を現した、限定版ディスク。


 誰かが同じ面を上からつかんでいた。小さく細い四角に手がふたつ。距離が異様に近い。


「え……?」


 瑞希が振り返ろうとするよりも先に、奥行きがあり少し低めの男の声が、ずいぶん上のほうから降ってきた。


「貴様、離せ。俺が先だ」


 収録されている曲はマニアックなのに、同じCDを同時に取る。オーソドックスを通り越して古典的だった。


 かっさられそうに引き上げられたCD。そこに映る瑞希の横顔は、瞬発力を発して力んで、


「っ!」


 自分へとCDを強く引き寄せた。瑞希の頭に突き刺さる、超不機嫌俺様ボイスが。


「貴様、離せ!」


 あと十年若かったら、驚いて手を離していただろう。しかし、もう三十路のバツ二なのである。大抵のことではビクともしないと思い、瑞希はCDを軸にして、後ろへ振り返った。


 だが、相手の背が異様に高いのか、神経質に綺麗に全て止められた黒いシャツのボタンが眼前に広がるだけで、男の顔は見えなかった。


 予想外のことが起きても驚かない。人生いろいろあると知っている三十路女が、勢いよく引っ張ると、縦向きだったCDは床と平行に向きを変えた。


「私が先です! 離してください!」


 しかし、男も強情で、力加減もせず上へと引っ張る。


「俺が先だ!」

「いや、私が先です!」


 買うと決死の覚悟を決めた乙女心――いやバツ二心は、大地のように揺るぎなかった。


 そうして、男と瑞希の間で、CDはシーソーのように、ゆるい8の字を描く宿命を追うこととなった。


「俺だ!」

「私です!」

「俺だ!」

「私です!」


 店にいた他の客が一斉に振り返った。限定版CD戦争の激戦区で、ふたりの声は店中に機関銃や爆弾のように大きく響き渡っていた。


「俺だ!」

「私です!」

「俺だ!」

「私です!」


 他の人が仲裁に入れないほど殺気立っている――いや恋人同士の痴話喧嘩みたいな、ふたりきりの世界にる瑞希と男。他の客は微笑ましげに思い、それぞれまた買い物を始めた。


 しかし、放置されたふたりは真剣そのもの。いつまでもどこまでも続いていきそうな、いざこざだったが、男のもう片方の手に、長方形の薄い紙がいきなり現れた。


「っ……」

「?」


 急に指の力が弱まったので、瑞希は思わず顔を上げた。自分のどこかずれている顔が映る男のサングラス。一枚のCDをめぐってはライバル。それなのに、気がそれているみたいな男。


 しかし、瑞希の眼前に長方形の紙――最終兵器が突きつけられた。そうして、男は勝利をかっさらっていこうとする。


「やる。よこせ」


 焦点が合わないながらも見つめたそれは、一万ギル札だった。お笑い好きで、滅多なことで怒らない瑞希だったが、サングラスの向こうにあるだろう瞳をきっとにらみ返した。


「人の心はお金では買えません! 一万ギル渡されても私は諦めません!」


 男は紙幣を持つ手はそのままに。CDをつかむ指先のそのままに。全身黒の服装は全く動かず。言い返すでもなく。諦めるでもなく、終始無言。


「…………………………………………」


 まるで静止画でも見ているようで、唯一のコミュニケーションツール、アイコンタクトがサングラスで取れない。しかし、表情も変えていないようだった。そこで、瑞希はピンときた。


(これがノーリアクション! この人だ、今度は……)


 それならば、友好な関係をと望む。どんな運命かは知らないが、出会うことなったのだから。


 三十六センチも背の高い男の顔をのぞき込もうとすると、瑞希の白いサンダルは爪先立ちになった。


「あ、あの……」


 だが動きがあった。サングラスに映る瑞希の顔がどんどん大きくなってきた。他の客から見ると、男が無言のまま前かがみになって、女に顔を近づけて、文句というマシンガンを浴びせる――いやセック◯のゼン◯にでもするのだろうと放置した。


「…………………………………………」


 当事者の瑞希はそれどころではなく、後ろへ下がって逃げようとしたが、商品棚にぶつかって無情にも叶わなかった。


「っ!」


 パーソナルティースペースを完全無視で近づかれた瑞希は、気まずそうにエメラルドのピアスに視線を移した。


「え〜っと……」


 ノーリアクションを克服できない瑞希は、苦渋の表情をする。


(どうやって会話すればいいんだろう?)


 チビっ子の忠告通り、初っ端から危険な目に遭いそうだった。


「…………………………………………」


 それでも止まることなく、男のサングラスはどんどん迫ってきて、とうとうキスができるほどの距離になってしまった。やっぱりゼ◯ギだったんだと、他の客はすんなり合点がいった。


 これは新手あらての攻撃だったのかと、瑞希は思う。ここで反撃しないと、このまま直撃だ。キスという戦法で、CDを持っていかれるという惨敗どころの話ではない。


「な、何を――」


 唇が触れてしまうほどの位置で、男が不意に言葉を発した。


「いい。ありがたく思え」


 瑞希の頭の中で、何に感謝をするのかという、ハテナマークがくるくるとメリーゴーランドを楽しみ始めた。というか、無遠慮ですぎで意味不明で、思いっきり聞き返してみたが、


「はぁ?」

「…………」


 瑞希に構わず、男のお金を持っていた手は彼女の脇を通り過ぎる。何とか意識が戻ってきた彼女が振り返ると、一万ギル札がCDの棚に挟み置きされたところだった。


「え、今度は何をして――」


 意味不明でゴーイングマイウェイたちが、また繰り返そうになったが、瑞希の視界がブラックアウトし、店内に流れていた音楽が消え去った――――


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