弐
一年ほど
通盛には政略的に祝言をあげた正妻がいたのだが、そちらはまだ年若く、同居もしていないためほとんど顔を会わせることもない。それゆえ小宰相はただ一人の妻として、自他ともに扱われることとなった。
通盛は常に優しかった。彼女を娶った
彼の父・
武門の嫡々である通盛の屋敷には、武具や鍛練場など穏やかならぬものも多く、家人にはもちろん荒々しい者たちも少なからずいる。ゆえに、雅ごとばかりの高貴な公家の出の彼女には足がすくんでしまうような光景が多々見られたのは事実だった。
それでもそれを補ってあまりあるほどに、小宰相は丁重に大切に扱われた。家運は全盛といって良く、内にても外にても、なに不自由もない暮らしが淀みなく続いていった。
*
だが諸行は無常。盛者は必衰。
時は治承三年七月。平家の棟梁、
幾度かの政変を経て、娘・徳子の産みまいらせた孫の
戦火は各地にてくすぶり続ける。一門の周辺がますます焦げくさくなっていくさなか、柱石の清盛が病により逝去した。燃えたぎるような煉獄の熱に苛まれながら、元締めは集まった家人たちに遺言を残したという。
「葬儀は無用。一門の者たれば最後の一人まで戦い抜き、我が墓前に頼朝の首を備えよ」
その言葉通り、若い維盛に代わって棟梁の座に着いた重盛の弟・
それはただ春の世の夢のごとく、栄華の果ては、ひとえに風の前の塵に同じく煙と消え去ったのだった。
*
秋がきて、冬が過ぎた。
小宰相は従者に先導されて、春先の宵、山の
「……失礼いたします」
控えめな声音で、呼び掛ける。いつもと変わらぬ静かな声で返答があった。
そっと中に入ると、鎮座した通盛は下半身を甲冑に包んだままの武者姿。頼みの灯りは小さな燈台が一つだけ。薄暗い幕内は当然のことながら、ひしと張り付くような緊張感が漂っていた。
都落ちから実に七ヶ月、彼女は側室として常に彼とともにあった。一門とともに西海の波の上、舟旅は続く。平家軍は一度は九州まで下り、そののち四国は
一触即発の緊迫した状況のなか、後白河法皇から休戦を取り持つ由の使者が到着したのがつい先日のこと。通盛とともに弟・
「よう参った。都育ちのそなたに山歩きの足労をかけて、すまぬな」
「――どうしても、今宵そなたに逢っておきたかったのだ。
引き寄せられた腕の中で、妻は夫をそっと見上げた。思い詰めたような頬に憂いの影が忍び寄る。疲れを滲ませながらそれでも自分の身を思ってくれる変わらぬ優しさに、愛しさが高波のようにせり上がってきた。彼女は思わず、胸元に添えた手に力を込める。
「殿……実は私、ややこを
「なんと……!」
通盛が目を瞬かせて喜色を浮かべる。
「
「はい……ご負担になってはと思い、ずっと申し上げそびれておりました」
「負担だなどととんでもない! ああ、なんと目出度いことか。この通盛は齢三十になるこの歳まで子がなかったものだが、そうか、それは、なんとも……」
言って夫は、細めた眼尻を潤ませる。
「同じことなら男子であって欲しいな。この子はまさしく私の希望の光だ。この世の忘れ形見とて……。いや、そんなことよりも今は何ヶ月になるのだ? 体調のほうはどうだ? いつまで続くか分からない波の上、しかも舟の中での生活……ああ、そなたが心安らかに出産するには、どうしてやれば良いものだろうか」
「まぁ、殿」
彼のあまりの興奮ぶりに、彼女は現状も忘れついつい苦笑を浮かべてしまう。通盛も妻を見つめふと、笑みを吐いた。
「そう……そなたにはいつでも、そうやって笑っていてもらいたかった。当初はまるで雪の精のように玲瓏で美しいばかりのそなたが、日々の暮らしの中、少しずつ恥じらいながらも
小宰相はひたと夫の瞳を覗き込んだ。初めての逢瀬の夜にも、そうして寄る辺ない我が身を映し出してくれていた穏やかな両の眼眸。
「そなたには白の襲がよく似合う。その奥に映える紅や朱や紫――雪の精が纏うような氷の
言いながら、夫は妻のうなじにそっと手を添えた。温かな指先が、衣を何枚も重ねて着たその内側、しっとりとした彼女の温もりを求めて混ざり合う。
「――そうだ、そこの神社の奥には
「そんなの……そんなのは、嫌です」
出逢ってからおよそ初めて、妻は夫に言葉を返した。通盛は微かに驚嘆の色を浮かべ、妻を抱く腕をくつろがせた。彼女は眉根を寄せ、対照的にさらに手元に力を籠める。
「これまで、あなたのこの温かな
通盛が小さく妻の名を囁いた。妻の返事は掠れて声にはならない。彼は彼女の細い身体をその体内の愛し子ごと掻き抱いて、白い衣に豊かに散った黒い髪を撫で下ろした。
「――兄上、何をしておいでです」
通盛が再び口を開く前に、割って入った声があった。戸口を見やると、精悍な武者姿の弟・教経が立っている。
「ご無礼をつかまつる。ですが、ここはかの
通盛は何事かを言いかけ、思い直したように口をつぐんだ。その通りだ、と弟に軽く頭を下げると、すぐに妻を舟へと返すよう従者に指示を出す。それから陣の外まで自ら妻の手を取って導き、最後まで彼女の身体を気遣いながら山道を降りていく背を見送ってくれた。
そしてその夜が、夫婦の今生での別れの夜となったのである。
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