一年ほど逢瀬おうせを重ね、通盛は小宰相を側室として自邸に迎え入れた。

 通盛には政略的に祝言をあげた正妻がいたのだが、そちらはまだ年若く、同居もしていないためほとんど顔を会わせることもない。それゆえ小宰相はただ一人の妻として、自他ともに扱われることとなった。

 通盛は常に優しかった。彼女を娶ったのちもそれまでと変わることなく、細々こまごまと心配りをし、いつでも不安を取り除いてくれた。

 彼の父・平教盛たいらののりもりは門脇中納言と通り名される。長く院政を敷いていた上皇をおさえ、まつりごとを掌握した平清盛、その異母弟として華々しく世に進出している武将である。清盛が数多い弟たちのなかでも特に目をかけ、その邸は平家一門の領地である六波羅ろくはらの総門に据え置かれたことが、呼び名の由来であった。その父も、気さくで誠実なお人柄。息子の愛妻をこころよく迎え入れてくれた。

 武門の嫡々である通盛の屋敷には、武具や鍛練場など穏やかならぬものも多く、家人にはもちろん荒々しい者たちも少なからずいる。ゆえに、雅ごとばかりの高貴な公家の出の彼女には足がすくんでしまうような光景が多々見られたのは事実だった。

それでもそれを補ってあまりあるほどに、小宰相は丁重に大切に扱われた。家運は全盛といって良く、内にても外にても、なに不自由もない暮らしが淀みなく続いていった。


 *


 だが諸行は無常。盛者は必衰。

 時は治承三年七月。平家の棟梁、平重盛たいらのしげもり薨去こうきょした。傑物とはならずとも、一門と朝廷との間をうまく取り持っていたのは義に篤い彼の功績である。そのため彼の死後、出家して法皇と改めた後白河と、こちらも出家の身の大入道、平家の元締め清盛との間の溝が深まっていく。

 幾度かの政変を経て、娘・徳子の産みまいらせた孫の安徳あんとく天皇を擁し、清盛は神戸は福原への遷都を決行した。時を置かずして関東にて源氏の頼朝よりともが挙兵。旧都を通り、平家はその鎮圧のために兵を差し向ける。だが、重盛の跡目を継いだ維盛これもりを大将軍とした平家軍は大敗を喫し、旧都へと敗走。対策のため清盛は再び、平安京へと都を戻した。

 戦火は各地にてくすぶり続ける。一門の周辺がますます焦げくさくなっていくさなか、柱石の清盛が病により逝去した。燃えたぎるような煉獄の熱に苛まれながら、元締めは集まった家人たちに遺言を残したという。

「葬儀は無用。一門の者たれば最後の一人まで戦い抜き、我が墓前に頼朝の首を備えよ」

 その言葉通り、若い維盛に代わって棟梁の座に着いた重盛の弟・宗盛むねもりは源氏との戦を続行する。しかし屋台骨を失った平家の戦況は悪化の一途を辿り、朝廷とも決裂。ついに一門は、安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちを決行することになる。

 それはただ春の世の夢のごとく、栄華の果ては、ひとえに風の前の塵に同じく煙と消え去ったのだった。


 *


 秋がきて、冬が過ぎた。

 小宰相は従者に先導されて、春先の宵、山の小路こみちを登る。足場のよくない傾斜面に構えた城郭の奥、神社のそば近くに設えられた夫の陣に足を踏み入れた。

「……失礼いたします」

 控えめな声音で、呼び掛ける。いつもと変わらぬ静かな声で返答があった。

 そっと中に入ると、鎮座した通盛は下半身を甲冑に包んだままの武者姿。頼みの灯りは小さな燈台が一つだけ。薄暗い幕内は当然のことながら、ひしと張り付くような緊張感が漂っていた。


 都落ちから実に七ヶ月、彼女は側室として常に彼とともにあった。一門とともに西海の波の上、舟旅は続く。平家軍は一度は九州まで下り、そののち四国は屋島やしまに陣を構えて体制を建て直した。海上での戦にけた平家は、通盛の叔父・知盛とももりの活躍などを経て瀬戸内を勝ち渡り、摂津、福原の都にまで進軍してきていた。もはや京の都は手を伸ばせば届く位置。一方、鎌倉の頼朝が派遣した弟の義経は三種の神器奪還と平家討伐のために西国を目指し、先頃、丹波をまわり三草山の戦にて勝利を納めている。

 一触即発の緊迫した状況のなか、後白河法皇から休戦を取り持つ由の使者が到着したのがつい先日のこと。通盛とともに弟・能登守教経のとのかみのりつねの率いる先駆けの軍は、戦況を見据えつつ、じんわりとした停滞の夜を迎えていた。


「よう参った。都育ちのそなたに山歩きの足労をかけて、すまぬな」

 練絹ねりきぬに舞鶴の刺繍の施された直垂ひたたれ縹縅はなだおどしの鎧。戦場にあっても平家の公達きんだちからは薫物たきものが漂う。きよらな伽羅の香りと夫の労りの笑みに、小宰相はほっと小さく息をつき、かぶりを横に振った。

「――どうしても、今宵そなたに逢っておきたかったのだ。源九郎げんくろうは幼き頃より天狗に育てられた将と聞く。さような物の怪の類いに狙われては、もはや明日にでも私は討たれるような気がしている。そうなれば、そなたの身の上はどうなることかとただそればかりが気がかりでならぬ」

 引き寄せられた腕の中で、妻は夫をそっと見上げた。思い詰めたような頬に憂いの影が忍び寄る。疲れを滲ませながらそれでも自分の身を思ってくれる変わらぬ優しさに、愛しさが高波のようにせり上がってきた。彼女は思わず、胸元に添えた手に力を込める。

「殿……実は私、ややこを身籠みごもっております」

「なんと……!」

 通盛が目を瞬かせて喜色を浮かべる。

まことなのか、それは?」

「はい……ご負担になってはと思い、ずっと申し上げそびれておりました」

「負担だなどととんでもない! ああ、なんと目出度いことか。この通盛は齢三十になるこの歳まで子がなかったものだが、そうか、それは、なんとも……」

 言って夫は、細めた眼尻を潤ませる。

「同じことなら男子であって欲しいな。この子はまさしく私の希望の光だ。この世の忘れ形見とて……。いや、そんなことよりも今は何ヶ月になるのだ? 体調のほうはどうだ? いつまで続くか分からない波の上、しかも舟の中での生活……ああ、そなたが心安らかに出産するには、どうしてやれば良いものだろうか」

「まぁ、殿」

 彼のあまりの興奮ぶりに、彼女は現状も忘れついつい苦笑を浮かべてしまう。通盛も妻を見つめふと、笑みを吐いた。白躑躅しらつつじの襲の衣から、袴の紅がこぼれて咲き開く――今宵も妻は艶やかだった。

「そう……そなたにはいつでも、そうやって笑っていてもらいたかった。当初はまるで雪の精のように玲瓏で美しいばかりのそなたが、日々の暮らしの中、少しずつ恥じらいながらもやわらかな笑みを見せてくれるようになったことが何よりも嬉しいことだ。このような状況になって沖の舟とおかの陣に別れて待機し、ともにいてやることもままならない。だがそれでも、私の心は常にそなたとともにあることを忘れないでくれ」

 小宰相はひたと夫の瞳を覗き込んだ。初めての逢瀬の夜にも、そうして寄る辺ない我が身を映し出してくれていた穏やかな両の眼眸。

「そなたには白の襲がよく似合う。その奥に映える紅や朱や紫――雪の精が纏うような氷のうちきに人の女の温かな肌の色……」

 言いながら、夫は妻のうなじにそっと手を添えた。温かな指先が、衣を何枚も重ねて着たその内側、しっとりとした彼女の温もりを求めて混ざり合う。

「――そうだ、そこの神社の奥には氷室ひむろというものがある。知っているか? 冬場の氷を、春や夏まで貯蔵するための山中の庫裏くりよ。石組のその中では永久凍土の冷気を保ち、氷塊を凍てついたそのままに封じ込めてある……私の心も、この氷室の中の氷のように、解けることなく永久とわにそなたを思おう」

「そんなの……そんなのは、嫌です」

 出逢ってからおよそ初めて、妻は夫に言葉を返した。通盛は微かに驚嘆の色を浮かべ、妻を抱く腕をくつろがせた。彼女は眉根を寄せ、対照的にさらに手元に力を籠める。

「これまで、あなたのこの温かなたなごころに私の心はどれほどに和まされたことでございましょう。さればこそ、今日までどのような時もお傍に寄り添うことができたのです。たとえ永久に消え入ることがないのだとしても、冷たい氷室のようなものなどに、あなたさまの思いを閉じ込めたりなさらないで」

 通盛が小さく妻の名を囁いた。妻の返事は掠れて声にはならない。彼は彼女の細い身体をその体内の愛し子ごと掻き抱いて、白い衣に豊かに散った黒い髪を撫で下ろした。

「――兄上、何をしておいでです」

 通盛が再び口を開く前に、割って入った声があった。戸口を見やると、精悍な武者姿の弟・教経が立っている。

「ご無礼をつかまつる。ですが、ここはかの九郎くろう義経よしつねが差し向けられているほどの過酷な砦。だからこそ、我ら兄弟がわざわざここへやって参ったというもの。弓矢取りの本望にかけて、何としてでもこの地は死守せねばなりません。今は休戦の流れとはいえ、妻を呼び寄せて悠長に睦み合うなど言語道断ですぞ」

 通盛は何事かを言いかけ、思い直したように口をつぐんだ。その通りだ、と弟に軽く頭を下げると、すぐに妻を舟へと返すよう従者に指示を出す。それから陣の外まで自ら妻の手を取って導き、最後まで彼女の身体を気遣いながら山道を降りていく背を見送ってくれた。

 そしてその夜が、夫婦の今生での別れの夜となったのである。





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