あふみありせば
玉鬘 えな
壱
――そういえばあの日も、花降り注ぐ月夜だった。
慕わしい男のぬくもりについぞくるまれながら、女は思い起こす。
暗く静かな帳の中、せつないほどの寒さが身を切り付けて、女の肌は熱を帯びてなおいっそうしっとりと温む。
この中では不安はすべて取り除かれ、心は安らかに和むのだ。
もうなにも心配はいらないと、女はただ男の温もりにのみ、その身を委ねた。
*
春。うらうらとあたたかな日差しのなか、京は
ところせましと押し寄せ、ひしめき並ぶ
なかでも際立ってきらびやかな一行が、さっと門前を通りすぎる。集団の主、
さながら御仏が雲間から姿を現されるように車から降り立つ
上西門院に仕える女房たちはそろいもそろって美しい。顔形だけではなく、家柄も教養も申し分ない娘たち。そればかりでなく、母である故・
咲きほころぶ花々のような衣裾を引きつつ、続々と現れる天女とみまごう女たちの群れ。
中宮の車の傍近く、
ともすれば季節外れとすら思われる雪がさねを、舞う花弁の中で絶妙に着こなす小柄な横顔。白い面に額髪がさらりと揺れて落ちかかり、降り下りる桜の雨と相まって幻想的に彼の眼に焼き付いた。それは優美であり、可憐であり、しかし哀愁すらも思わせる鮮烈な風情であった。
「おい、
同じく馬上の身、弓を背負った武官の出で立ちの経正に声をかける。通盛と経正、そして中宮も、ともに祖父を同じくする従兄弟同士。陽気な性質の彼は
「弓矢取りの嫡子が、ずいぶん夢見勝ちなことを言うね。上西門院さまの女房のどなたかかい? どれ……」
そして彼女を認め、ああ、と得心したようにうなずいた。
「禁中一の美姫と名高い
「小宰相どの……なるほど、禁中一と
「なんとまあ、さすがの
「もう心に決めた男があるのだろうか……。経正よ、特定の通う者があるのかどうか、聞いたことはあるか?」
「おいおい、まさか本気で、難攻不落の女房どのに挑戦するつもりなのか?」
「難攻不落?」
「そうとも。いいか、相手は
大仰な身ぶりをまじえ、芝居じみた調子で嘯いてみせる経正の言葉に通盛は目を瞬かせる。
「なるほど……」
呟いてもう一度、かの雪精が消えていったほうに視線を向けた。のどかに暖かい日向、春風に急かされるように散っていく桜の花びらが最期の時を抗うように逆巻いた。もはや小宰相の姿は桜霞の向こうに隠れてしまったが、通盛の心には彼女の面影が、あたかも凍傷のようにひしと焼き付き、到底消せそうにもなかったのである。
*
その日から、通盛は小宰相に気持ちを伝え続けた。
最初は
だが経正の言っていたとおり、彼女の反応は潔いまでのなしの
実に三年、である。年月とともに踏み返されて積み重なっていく
そうやって今年も変わらずやってきた春の盛りの季節。ある日、通盛はこれを最後と心に決めた。
――
もはやこれ以上は、縁のなかったことと諦めるべし、と己に言い聞かせつつ、和歌を詠み上げ、文に
この文遣いの者は三年の間、通盛の使者として小宰相のもとへ通い、一人の侍女と馴染みになることに成功した忠義者である。最後の遣いをと頼まれて、この者自身、感慨も深く上西門院の御座所へと参ったというのに、肝心の取り次ぎの侍女が不在だという。なんと今日に限って、遣いを果たすことができそうにない。
さて使者も困り果てた。最後と聞いてきたものを、このままおめおめ持ち帰るなど、とてもじゃないができるはずもない。
門前の通りを所在なくうろつきながら、いかにせむ、と悩んでいたところ、参上途中の牛車がその横をからからと通り過ぎる。脇を歩く牛使いの少年には見覚えがあった。他ならぬ小宰相のところの童だ。
これは天啓、とばかりに使者の男は牛車の反対側に回り込み、物見の窓から最後の文をえいやと投げ入れた。どうか主の思いが今度こそ、雪の精の頑なな心を溶かすように祈りつつ。
*
驚いたのは中にいた女たちである。どこからともなく現れて、豊かな黒髪をかすめてぽすりと小宰相の膝の上に落ちてきた結び文。
「この白い
付き従っていた二人の侍女はともに頭を横に振る。牛使いの少年に聞いても首を傾げるばかり。
仕方なく、そっと開いてみると端書きに通盛の署名が確認できた。
「
迷っている間にも、車は門をくぐり、牛使いの彼が降車の支度を始めている。
車に残しておくわけにもいかず、かといって大路に捨て去るわけにもいかず、やむなく彼女は袴の腰に通盛の文を挿し、そのまま主である上西門院のもとへと
かくして出仕に励み、文の存在もころりと失念していた夕の頃のこと。
「あら」
と、上西門院が屈んで手ずから何かを拾いあげた。
「まあこれは……珍しいものを拾いましたよ。いったい、どなたの落とし物でしょうね?」
小宰相は女院が手にした白い結び文を見とめ、はっと息を呑んだ。腰元に手をやっても、そこに挟み込んでいたはずの手触りはない。
「届けるべき相手に届けてあげたいものだが……お前たち、本当に誰も知らないの?」
重ねてのお問いかけにも、居並ぶ女房たちは知らないと口々に答える。ただ一人、透きとおるような白い頬に紅をのぼらせて黙り込んでいるものを除いては。
ああ、と得心した上西門院ははたはたと手紙を開いてみる。
『わが恋は 細谷川の 丸木橋
踏み返されて 濡るる袖かな』
――我が恋は細谷川にかかるはかない丸木橋です。幾度も踏み返されて(文を返されて)は谷に落ち、袖を濡らしているのです。
「なんと心のこもったお和歌でしょう。小宰相、これはあなたのものですね?」
まわりの女房たちに促されて御前へと進み出た彼女は、消え入るような声で
「あなたの対応にも屈せず、このようにお心を伝えてくださることはまことにありがたいこと。越前どののお人柄がよく表れておいでです。小宰相、こたびの返事はきっとしなければなりませぬ」
「……はい」
「かの小野小町のたとえもあります。
そうして恐縮するばかりの小宰相を前に、自ら
『ただ頼め 細谷川の 丸木橋
踏み返しては 落ちざらめやは』
――一心に思いをお続けなさい。細谷川の丸木橋は踏み返せばおちましょうが、あなたの文は返すことはありませんよ。
こうして女院御自らの仲立ちによって、通盛は小宰相のもとへ通うことになった。
初めての夜、
そもそもこのような時、どのようにしていれば良いものか、奥手な小宰相には見当もつかなかった。
それに、と長い睫毛を瞬いて、彼女は脳裏に思い描く。
彼が自分を
緊張で胸が押し潰されそうになった頃、外からかたりと小さな物音がする。待ち人だ。
失礼します、と声がけがあり、すぐに御簾が捲し上げられた。小宰相は思わず一歩、身を引いたが、通盛は足音もたてずにすいと入室した。
「――やっと、お目通りがかないました」
先ほど想像していた姿とは打って代わり、今の通盛は
「……怯えておいでかな」
物言わぬ彼女を気遣うように、穏やかに通盛が問う。距離を保ったまま、その場にそっと腰を下ろした。
「実を言えば、私も怖くて震えております。恥ずかしながら」
照れ臭そうに放たれた言葉に、彼女は彼を振り返った。
「切望叶ってこうしてやっとお逢いできたというのに。このまま熱情のままに掻き抱けば、あなたは淡雪のごとく消えてしまいそうで」
「……お武家さまにも……怖いことがおありなのですか……?」
どこまでも穏やかな物言いの彼に誘われるように、おずおずと彼女は訊ねた。
「はい」
まことに、お恥ずかしいお話ですが、と男は苦笑をみせる。
「私はそも
まあ、と小さく溢した小宰相を、通盛はじっと目をすがめて見つめる。
「――あなたを初めてお見かけした時、まるで雪の精のようだと思いました」
「雪の、精……」
「はい。従兄弟どのには、武士のくせに夢見勝ちなと笑われましたが……」
また照れたように
「でも、私には本当にそのように見えたのです。雪のごとく桜の舞い遊ぶなか、その様に誘われて迷い出てしまった雪の精さながら……あの日から、私の心はあなたの虜になってしまったのです」
「……幾度も、そのようなお文をいただきましたわね」
「そう。本当に、あのお姿が胸に焼き付いて離れませなんだ」
また、通盛が小宰相をじっと見た。今度は、小宰相も逃げずにその視線を受け止めることができた。
「今も……まるで夢のように思えます」
ですが、と言い添えて、通盛が半間の距離を詰めた。小宰相はぴくりと手を引いたが、素早くその腕を袖ごと絡めとられる。
「お……お待ちくださいまし」
「いいえ」
初めて、通盛が語気をわずかに強くした。
「武士には、たとえ怖くとも勇気を出して、ことに当たらねばならぬときもあるのです。たとえこの
それに、と白い袿の腰を引き寄せる。額と額とがぐっと近づき、彼の瞳の中に彼女の寄る辺ない顔が見えた。
「私は長く、お待ちしました。今宵はもう、待つことはできません」
顔を背けようとしたところで頬を撫で上げられ、阻まれる。
「まこと、美しい」
彼の声が静かに穏やかなままなのがせめてもの救いだった。早鐘の鼓動に呼吸さえも苦しくて、彼女は目を伏せた。
「本当に夢のようだ。この白き衣の内側、この紅……雪の中に、赤く息づく熱き血脈のような……私はただその温もりを、この体で確かめてみたかった」
するりと帯紐が解かれる。
「
憂虞と羞恥に、彼女は身を捩る。逃すまいと、熱に潤むその肢体を彼はまさぐった。決して荒くはない、やわらかく慈しむような指先に、やがて彼女の切り詰めたような不安は少しずつ氷解されていく。
「逃げずに」
通盛が頬を寄せて優しく囁いた。小宰相はすがるようにその声に身を委ね、春月夜の闇のなか、
*
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