あふみありせば

玉鬘 えな


 ――そういえばあの日も、花降り注ぐ月夜だった。


 慕わしい男のぬくもりについぞくるまれながら、女は思い起こす。

 暗く静かな帳の中、せつないほどの寒さが身を切り付けて、女の肌は熱を帯びてなおいっそうしっとりと温む。

 この中では不安はすべて取り除かれ、心は安らかに和むのだ。

 もうなにも心配はいらないと、女はただ男の温もりにのみ、その身を委ねた。


 *


 春。うらうらとあたたかな日差しのなか、京は法勝寺ほうしょうじにて満開の桜を愛でようと、時の中宮・徳子とくこ御幸みゆきがあり、絢爛たる花見の宴が執り行われていた。

 ところせましと押し寄せ、ひしめき並ぶ牛車ぎっしゃたち。その背後にかかった透けるような簾から下出す色とりどりのかさねの美しさ。

 なかでも際立ってきらびやかな一行が、さっと門前を通りすぎる。集団の主、上西門院じょうさいもんいん統子むねこ内親王は齢五十を過ぎ、出家の身でこそあったが、母譲りの美貌は老いてなおはなやぎを失わない。藤の襲はかえって品もよく、一団のなかにあっても確かな存在感をもって君臨していた。

 さながら御仏が雲間から姿を現されるように車から降り立つ女院にょういんに続き、次々と女房たちがあとにならう。

 上西門院に仕える女房たちはそろいもそろって美しい。顔形だけではなく、家柄も教養も申し分ない娘たち。そればかりでなく、母である故・待賢門院璋子たいけんもんいんたまこのおおらかな気性のみを継承した女院は、優れた歌人や文化人をも広く招き寄せ、その御座所ござしょは内裏に仕える数多の女官たちの憧れの的でもあった。

 咲きほころぶ花々のような衣裾を引きつつ、続々と現れる天女とみまごう女たちの群れ。

 中宮の車の傍近く、中宮亮ちゅうぐうのすけとして随行していた平通盛たいらのみちもりは静かにそれを見守っていたのだが、行列の中にある一人の女を認め、馬上、思わず手綱を引いた。

 ともすれば季節外れとすら思われる雪がさねを、舞う花弁の中で絶妙に着こなす小柄な横顔。白い面に額髪がさらりと揺れて落ちかかり、降り下りる桜の雨と相まって幻想的に彼の眼に焼き付いた。それは優美であり、可憐であり、しかし哀愁すらも思わせる鮮烈な風情であった。

「おい、経正つねまさ。見ろ、あの女人を。まるで桜に誘われてやってきた雪の精のようじゃないか」

 同じく馬上の身、弓を背負った武官の出で立ちの経正に声をかける。通盛と経正、そして中宮も、ともに祖父を同じくする従兄弟同士。陽気な性質の彼はおいかけをつけた冠姿の顔をのけぞらせて笑う。

「弓矢取りの嫡子が、ずいぶん夢見勝ちなことを言うね。上西門院さまの女房のどなたかかい? どれ……」

 そして彼女を認め、ああ、と得心したようにうなずいた。

「禁中一の美姫と名高い小宰相こざいしょうどのだな。なんだお前、初見なのか。確かに彼女なら、雪の精もさもありなむというところか」

「小宰相どの……なるほど、禁中一とうたわれるのも無理からぬこと。控えめで儚げながら、なんとも胸に焼き付くあのいっそ妖しいまでの鮮やかな様子さまは」

「なんとまあ、さすがの門脇かどわきの御曹司も、雪の精には形無しってところか。だが、彼女に好意を寄せる者は当然のことながら多いと聞くぞ。親宗ちかむねどのも、長く文を遣わしていらっしゃるとか」

 右中弁うちゅうべん・平親宗は彼らの叔母に当たる平時子の弟御である。今上の外叔父であり、上皇・後白河の信も厚い公達きんだちにまでも言い寄られているとなると、小宰相を巡る競争率の高さがうかがわれる。楚々とした睫毛から視線をただ流して通りすぎた雪の精の後ろ姿、黒髪が長く打ちかかる白い小袿こうちぎ、その衣端からちらりとのぞく紅梅色を、通盛は憑かれたように見つめ続けていた。

「もう心に決めた男があるのだろうか……。経正よ、特定の通う者があるのかどうか、聞いたことはあるか?」

「おいおい、まさか本気で、難攻不落の女房どのに挑戦するつもりなのか?」

「難攻不落?」

「そうとも。いいか、相手は勧修寺かしゅうじ流の流れをくむ正真正銘、箱入りの姫ぎみだぞ。御歳は花も恥じらう十六歳。日々届けられる文にも見向きもせず、あえなく散って朽ち果てる数えきれない懸想の念。あの美貌は、男達の溜め息の結晶に飾り立てられているといっても過言ではない」

 大仰な身ぶりをまじえ、芝居じみた調子で嘯いてみせる経正の言葉に通盛は目を瞬かせる。

「なるほど……」

 呟いてもう一度、かの雪精が消えていったほうに視線を向けた。のどかに暖かい日向、春風に急かされるように散っていく桜の花びらが最期の時を抗うように逆巻いた。もはや小宰相の姿は桜霞の向こうに隠れてしまったが、通盛の心には彼女の面影が、あたかも凍傷のようにひしと焼き付き、到底消せそうにもなかったのである。


 *


 その日から、通盛は小宰相に気持ちを伝え続けた。

 最初は和歌わかを詠みかけ、文を送り、時には土産なども添えて愛を請う。

 だが経正の言っていたとおり、彼女の反応は潔いまでのなしのつぶて。なんとか取り次ぎ役の侍女は確保することができたので、文を送ることに労することはなかった。それでも時折、勤めの際に禁中の透渡殿すいわたどのまみえることがあったとしても、宴の席での御簾みすの間から垣間見かいまみることができたとしても、小宰相は視線が絡み合うや否や、逃がれるようにすいと踵を返してしまう。

 実に三年、である。年月とともに踏み返されて積み重なっていく玉梓たまずさ。文も思いも切々と、重く深く通盛一人の胸の奥に沈み込んだまま。

 そうやって今年も変わらずやってきた春の盛りの季節。ある日、通盛はこれを最後と心に決めた。

 ――穿うがつほどにはげしく焦げ付いた思い出があればこそ、これまでひとえに投げかけ続けてきたが。

 もはやこれ以上は、縁のなかったことと諦めるべし、と己に言い聞かせつつ、和歌を詠み上げ、文にことづけて遣いをやった。

 この文遣いの者は三年の間、通盛の使者として小宰相のもとへ通い、一人の侍女と馴染みになることに成功した忠義者である。最後の遣いをと頼まれて、この者自身、感慨も深く上西門院の御座所へと参ったというのに、肝心の取り次ぎの侍女が不在だという。なんと今日に限って、遣いを果たすことができそうにない。

 さて使者も困り果てた。最後と聞いてきたものを、このままおめおめ持ち帰るなど、とてもじゃないができるはずもない。

 門前の通りを所在なくうろつきながら、いかにせむ、と悩んでいたところ、参上途中の牛車がその横をからからと通り過ぎる。脇を歩く牛使いの少年には見覚えがあった。他ならぬ小宰相のところの童だ。

 これは天啓、とばかりに使者の男は牛車の反対側に回り込み、物見の窓から最後の文をえいやと投げ入れた。どうか主の思いが今度こそ、雪の精の頑なな心を溶かすように祈りつつ。


 *


 驚いたのは中にいた女たちである。どこからともなく現れて、豊かな黒髪をかすめてぽすりと小宰相の膝の上に落ちてきた結び文。

「この白い薄様うすようのお文は……? お前たち、これに心当たりはありますか?」

 付き従っていた二人の侍女はともに頭を横に振る。牛使いの少年に聞いても首を傾げるばかり。

 仕方なく、そっと開いてみると端書きに通盛の署名が確認できた。

越前三位えちぜんさんみさま……またあのお方だわ。どうしましょう。今から参内さんだいというところ、このままにしておくわけには……」

 迷っている間にも、車は門をくぐり、牛使いの彼が降車の支度を始めている。

 車に残しておくわけにもいかず、かといって大路に捨て去るわけにもいかず、やむなく彼女は袴の腰に通盛の文を挿し、そのまま主である上西門院のもとへと伺候しこうした。

 かくして出仕に励み、文の存在もころりと失念していた夕の頃のこと。

「あら」

 と、上西門院が屈んで手ずから何かを拾いあげた。

「まあこれは……珍しいものを拾いましたよ。いったい、どなたの落とし物でしょうね?」

 小宰相は女院が手にした白い結び文を見とめ、はっと息を呑んだ。腰元に手をやっても、そこに挟み込んでいたはずの手触りはない。

「届けるべき相手に届けてあげたいものだが……お前たち、本当に誰も知らないの?」

 重ねてのお問いかけにも、居並ぶ女房たちは知らないと口々に答える。ただ一人、透きとおるような白い頬に紅をのぼらせて黙り込んでいるものを除いては。

 ああ、と得心した上西門院ははたはたと手紙を開いてみる。妓炉きろの匂いが強く薫る白い薄様には、世の常ならぬ筆の運びで思い人のつれなさを嘆きつつ、いまだ憎くは思えないという由が綴られていた。奥付けには和歌が一首と、憐れな男の名。


『わが恋は 細谷川の 丸木橋

 踏み返されて 濡るる袖かな』


 ――我が恋は細谷川にかかるはかない丸木橋です。幾度も踏み返されて(文を返されて)は谷に落ち、袖を濡らしているのです。


「なんと心のこもったお和歌でしょう。小宰相、これはあなたのものですね?」

 まわりの女房たちに促されて御前へと進み出た彼女は、消え入るような声でうべなう。ここ何年も、平通盛がこの控えめな女房に熱心に求愛していることは女院も承知のことであったので、さてどうしたものかと息を吐いた。

「あなたの対応にも屈せず、このようにお心を伝えてくださることはまことにありがたいこと。越前どののお人柄がよく表れておいでです。小宰相、こたびの返事はきっとしなければなりませぬ」

「……はい」

「かの小野小町のたとえもあります。女人にょにんは顔かたち美しく、風雅の道にも優れていたので心を奪われない人はいないくらいだったといいます。けれどもあまりのつれない態度に最後には人の憂いだけが残り、風を防ぐ頼れる者もなく、雨に濡れぬ手立ても失ってしまったとか。そうして月星の光を涙に浮かべながら、野辺の若菜や沢の根芹を摘んで、どこぞの果てではかない命を過ごしたということです。あなたの美しさはあなたの幸運を招きもしましょうが、また不幸をも呼び寄せてしまうものでしょう。訪れる幸福を、みすみす逃してはいけませんよ」

 そうして恐縮するばかりの小宰相を前に、自らすずりを引き寄せて返歌を詠い上げたのである。


『ただ頼め 細谷川の 丸木橋

 踏み返しては 落ちざらめやは』


 ――一心に思いをお続けなさい。細谷川の丸木橋は踏み返せばおちましょうが、あなたの文は返すことはありませんよ。


 こうして女院御自らの仲立ちによって、通盛は小宰相のもとへ通うことになった。

 初めての夜、つぼねに下がった彼女は落ちつきなく読み物などをして時を過ごしていたのだが、内容が全く頭に入ってこない。正式な結婚というわけでもなく、しとねや夜着の支度をするのも憚られる。侍女は外に控えてくれていたが、いざ彼が現れようものならと思うと気もそぞろだった。

 そもそもこのような時、どのようにしていれば良いものか、奥手な小宰相には見当もつかなかった。

 それに、と長い睫毛を瞬いて、彼女は脳裏に思い描く。

 彼が自分を見初みそめたというあの春の日の、おうち単衣ひとえが風に揺れる彼の人の立ち姿。緌が頬に影を落とし、剣をき、えびらを背負った武官装束の通盛は、男盛りの体躯をより一層際だたせていた。猛々たけだけしい武将の出で立ちは、優美なばかりの世界で花よ蝶よと育てられた彼女には恐ろしくさえも思えた。

 緊張で胸が押し潰されそうになった頃、外からかたりと小さな物音がする。待ち人だ。

 失礼します、と声がけがあり、すぐに御簾が捲し上げられた。小宰相は思わず一歩、身を引いたが、通盛は足音もたてずにすいと入室した。

「――やっと、お目通りがかないました」

 先ほど想像していた姿とは打って代わり、今の通盛は杜若かきつばた直衣のうし中啓ちゅうけいを携えた貴族風の姿。武家の者が身に纏うとそれは本来の公家の男たちよりも不似合いで、かえって男くささを強調して魅力が増すという。そんなものかしら、と小宰相は羞恥に堪えきれずに目を逸らした。

「……怯えておいでかな」

 物言わぬ彼女を気遣うように、穏やかに通盛が問う。距離を保ったまま、その場にそっと腰を下ろした。

「実を言えば、私も怖くて震えております。恥ずかしながら」

 照れ臭そうに放たれた言葉に、彼女は彼を振り返った。

「切望叶ってこうしてやっとお逢いできたというのに。このまま熱情のままに掻き抱けば、あなたは淡雪のごとく消えてしまいそうで」

「……お武家さまにも……怖いことがおありなのですか……?」

 どこまでも穏やかな物言いの彼に誘われるように、おずおずと彼女は訊ねた。

「はい」

 まことに、お恥ずかしいお話ですが、と男は苦笑をみせる。

「私はそもいくさごとには向かぬ性分で。弟のほうがよほど、武勇に秀でておるのです」

 まあ、と小さく溢した小宰相を、通盛はじっと目をすがめて見つめる。

「――あなたを初めてお見かけした時、まるで雪の精のようだと思いました」

「雪の、精……」

「はい。従兄弟どのには、武士のくせに夢見勝ちなと笑われましたが……」

 また照れたように苦笑わらう。そうすると切れ長の瞳が弓なりにまろくなり、くつろぐ猫の表情それのようだった。

「でも、私には本当にそのように見えたのです。雪のごとく桜の舞い遊ぶなか、その様に誘われて迷い出てしまった雪の精さながら……あの日から、私の心はあなたの虜になってしまったのです」

「……幾度も、そのようなお文をいただきましたわね」

「そう。本当に、あのお姿が胸に焼き付いて離れませなんだ」

 また、通盛が小宰相をじっと見た。今度は、小宰相も逃げずにその視線を受け止めることができた。

「今も……まるで夢のように思えます」

 ですが、と言い添えて、通盛が半間の距離を詰めた。小宰相はぴくりと手を引いたが、素早くその腕を袖ごと絡めとられる。

「お……お待ちくださいまし」

「いいえ」

 初めて、通盛が語気をわずかに強くした。

「武士には、たとえ怖くとも勇気を出して、ことに当たらねばならぬときもあるのです。たとえこの時間ときが儚く終わることになっても、女院さまのお心遣いを無にするわけにはまいりません」

 それに、と白い袿の腰を引き寄せる。額と額とがぐっと近づき、彼の瞳の中に彼女の寄る辺ない顔が見えた。

「私は長く、お待ちしました。今宵はもう、待つことはできません」

 顔を背けようとしたところで頬を撫で上げられ、阻まれる。

「まこと、美しい」

 彼の声が静かに穏やかなままなのがせめてもの救いだった。早鐘の鼓動に呼吸さえも苦しくて、彼女は目を伏せた。

「本当に夢のようだ。この白き衣の内側、この紅……雪の中に、赤く息づく熱き血脈のような……私はただその温もりを、この体で確かめてみたかった」

 するりと帯紐が解かれる。薄氷うすらひがほどけて温かな紅地が見え隠れする。さらに奥の陰、しっとりと熱を帯びて震える乳房から臍への柔らかな曲線に、通盛がそっと手を這わせた。あ、と小宰相は小さく吐息を漏らす。

あたたかい……雪のような表の下、あなたの中に、かように熱い血潮が流れているのですね」

 憂虞と羞恥に、彼女は身を捩る。逃すまいと、熱に潤むその肢体を彼はまさぐった。決して荒くはない、やわらかく慈しむような指先に、やがて彼女の切り詰めたような不安は少しずつ氷解されていく。

「逃げずに」

 通盛が頬を寄せて優しく囁いた。小宰相はすがるようにその声に身を委ね、春月夜の闇のなか、伽羅きゃらの香が漂う胸元にそっと溶け落ちていった。


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