翌朝、源九郎義経は鵯越ひよどりごえの逆落としを決行し、一ノ谷の陣を奇襲する。

 それは後白河法皇との結託による騙し討ち。平家の軍勢は総崩れとなり、散り散りになって沖の舟隊へと敗走した。

 通盛は教経ともはぐれ、わずかな手勢のみと夢野を駆け下る。追ってくる敵と刃を交わしつつ、進路を確保しながら一路、海を指す。愛馬は数刻前、足元を射られ、断念せざるを得なかった。

 北を振り仰げば東西に連なる六甲の山々、南を臨めば清盛の築いた大輪田泊おおわだのとまりのある瀬戸内海が横たわる、摂津・播磨の独特の地形。湊川みなとがわの下流域にまで達した時、通盛はふと立ち止まった。肩で息をしながら北を睨み、それから南を見据える。海上の春霞にその身を宿した沖合いの舟に、心静かに目礼を送った。

 春先の清かな風が額にかかり、汗に張り付いたうなじの髪を撫でた。追い付いてくる数多の鎧の足音が、さわさわと鳴る桜の葉音に交じって聞こえてくる。

 ――もはや、これまでか。

 源氏の兵は従来の誇り高い戦法に固執する平家にとっては、もはや賊のようなものだった。正面きっての名乗りからの攻撃や一騎討ち、大将格には自死を選ぶ権利があり、たとえ敵といえども敬意を払う競技にも似たやり方。源氏軍には何一つ通用しなかった。

 東国にて、力のみで恩賞と土地をもぎ取ってのしあがってきた荒々しい坂東ばんどう武者むしゃたち。彼らはそれぞれの家の期待を一身に背負い、功績を上げることに血眼になって挑んでいる。雅な公家方とともに都の中枢にあった平家の若武者たちはさぞや格好の餌食であっただろう。錦の直垂を身に付けた若者を何人もが群がって襲いかかり、首を取り、鎧を引きちぎって己の武功の証とするという。

時員ときかず!」

 通盛は滝口の武士の一人、見田くんだ時員ときかずを呼ぶ。は、とすぐに応じた家臣に、主は紺青こんじょうの眉をきりりと引き締め、振り向いて言った。

「お前は足が早い。なんとしても舟まで戻り、この顛末を妻に伝えてほしい。そして彼女と我が子の行く末を、見届けてもらいたいのだ」

「殿、私もご一緒に……!」

「ならぬ。必ず逃げ延びよ。よいか、他の者もみな、我が配下の者は一人でも多く生き残るように、努めて走れ」

 行け、と再び促される声を聞くや否や、時員は走り出す。他の者どももそれぞれが八方に駆け出した直後、背後の河川敷から源氏の武者達が次々と現れて通盛を取り囲んだ。その数、七騎。通盛は歯噛みをする。縹色の鎧の下に自ら刃を突き立てても、亡骸をいいように蹂躙されることは必至だ。

「外道めらが……平家の誇りを見せてやる」

 意を決し、刀を抜いて身構える。銀の籠手が朝の光を弾いてかちりと瞬いた。散らばもろとも、桜のごとく、美しくあれ。

 名乗りを上げる暇もなく、手近の騎馬に斬りかかる。背後を狙われ、身を踊らせて白刃をかわす。勢いそのまま、正面の武者の得物を握った腕を目掛けて刃を降り下ろす。手応えを感じたものの、その背に被斬、二刀。振り向きざまに大きく剣を振るうがその右脛にまた一刀。がくりと地に膝をつき、次に襲いかかる上段からの一撃で、通盛は意識を手放した。

 湊川の河口、湿り気のあるやわらかな土場に倒れ伏しながら、最後にその目が映したのは地に降り落ちていく桜の花弁。白い衣の裏側に薄紅の血潮が脈付いている雪の精のごとき、その白々とあそ様子さまであった。


 *


 見田時員はその夕べ、通盛の家内の乗る舟へと辿り着いた。

 北の方とそのお付きの乳母めのとの前で事の次第を報告し、深々と頭を下げる。小宰相は声にならない声で、あなや……と落としたきり。よろめく足取りで奥へと引きこもり、頭から衣を打ち被って倒れ伏してしまった。乳母の呉葉くれはがなだめても励ましても、一向に顔を見せることはない。


 一ノ谷と生田森の陣営を引き上げざるをえなかった平家の損害は、まさに壊滅的なものであった。通盛の他、弟の業盛なりもり、従兄弟の経正に敦盛あつもり、叔父の忠度ただのりなど、上位の有力な武将が九名までも討たれ、数万にまで回復していた兵力も、舟へと戻った時には残騎わずかに三千あまり。総大将の宗盛は屋島への撤退を命じた。

 五日の後、京にて源氏の軍による凱旋の首渡りが行われた。討ち取られた平家の将たちの首級にはそれぞれ名の書いた赤札が付けられ、長い槍に突き刺されて六条河原から東洞院ひがしのとういん大路を北に渡され、東獄門のあふちの樹にかけられた。かつては都をときめかせた若き公達らの変わり果てた姿に、袖裏に涙をそっと隠した者も決して少なくはなかった。


 連れだって屋島へと逃げ帰る船旅のなか、ずっと寝込んで一言も口を聞かなかった小宰相だったが、首渡しの報を聞いたその日の暮れ時、唐突にその蒼白な面を乳母に向けた。

「――今朝まで、殿が討たれたと聞いてもとても信じられずおりましたが、京でのおぞましい報を聞いて覚悟を決めました。あの最後にお逢いした夜、殿は予感がすると仰せられて私の身の上を案じてくださいましたの。あまりに心苦しそうなご様子に、なんとかお心を安らげてさしあげたくて懐妊のことをお伝えすると大変お喜びになって、ますます私の身を気にかけてくださるばかり。身重の私のために何をしてやれるかとそのようなことをお考えになっておられたのも、今となっては儚いお言葉で……」

 呉葉が痛ましそうに小宰相の両の手を握りしめると、彼女はそっと涙を一筋落とす。そうしてその一雫が堰を切ったかのように、とめどなく溢れこぼれる胸のうちを滔々とうとうと語りだした。

「嘘か真か、女は出産の時、十に九は命を落とすとかいいますし、仮にもし無事に出産できたとしても、亡き夫の形見と思うて幼い子を育ててみても、その子を見るたびに殿が恋しくなるに違いない。悲しみは増えても、心が慰められるということなどきっとないし、それにこの後この世に隠れ住んだとしても、思うようにならないこの世の習いですもの、女の独り身に望まぬ再婚を強いられるようなこともあるかもしれない。あれやこれやと考えると不安でたまらなくなって、寝ても覚めても心にあの方ばかりを恋しく求めてしまうの。あの方はいつもいつも、私のお側で、優しいぬくもりで憂苦を取り除いてくださっていたわ。今は何よりも、そのぬくもりだけが恋しい……。だから、このまま生き続けて苦しくもがくよりも、いっそ夫のもとへ行こうと私は決意しました。呉葉、ずっとついてきてくれてありがとう。あなた一人を残していくのは心苦しいとも思うのだけど、私が没したら私の衣からどれかを選んでお布施としてどなたか僧侶に渡し、どうか私たちの菩提ぼだいを弔ってほしいのです」

「なんということ……おひいさま……!」

 いつも物静かで口数の少ない姫君であった主の心からの慟哭を聞き、呉葉は涙を滂沱ぼうだと流して、白い手に取りすがった。

「あなたは亡き殿の北の方なのですよ。そのような弱気でどうなさりますか。たとえ後追ってお逝きになったとしても必ず殿と共にあれるという保証もございません。六道四生、どのように運命づけられることかは誰にもわからないことなのですから。それよりも落ち着いたどこかでご出産をなさって忘れ形見のお子さまを育てられ、まだどうしてもお苦しいときはご出家をなさって仏門に入り殿の菩提を弔ってゆかれるべきです。この呉葉も、どこまでもお供いたします……!」

 そう言って嘆く乳母の背を、小宰相は労るようにゆるりと撫でた。

「そう……そうですね……」

 海上の夜は更けいく。呉葉のすすり泣きが、さわさわと流れる潮の唄に混じり空に溶ける。

「……ほんに、あなたの言う通り。――つまらない弱音を許して、呉葉」

 今宵は早めに休みましょうと手を取って乳母を促すと、呉葉は主の手をしかと握って離さぬまま、その傍らで床に就いた。


 *


 誰もかれもが眠りについた夜半、月明かりに誘われるように、小宰相は船縁へと虚ろな眼差しで歩み出た。見渡す限りの夜霞、空と海の境界もおぼろ、海は暗く、ただ暗い。

 西も東もわからぬままに、彼女は月を頼みに密やかに念仏を唱え始めた。だが沖の千鳥の鳴き声や、遠くの漁船の声など、何もかもすべてが物悲しく聞こえ、彼女の心は再び不安に打ち震え始めた。霞はじっとりととぐろのように彼女を取り巻いて、大蛇のように身も心も取り込んだ。

「怖い……不安でたまらない。念仏などではなんと心もとない。あの方に……通盛さまに会いたい……」

 着物の上からそっと腹に手をあてて、愛しい膨らみをするりと撫でる。

「形見……忘れ形見だなんて、私は嫌。あなたとともにこの子をお育てしたかった……」

 ふらふらと水辺へと近づいていく。深淵のような水底はやはりただ暗くひっそりと口を開けるのみ。千尋の底に魅入られながら、彼女は腹を撫でる手をそのままその身に這わせた。胸元、両の腕、そして肩。

「あなたに慣れ親しんだこの身こそが、ややこもろともに、あなたの形見。なんと重く、辛いのかしら……」

 呟く声も途中、彼女は波の下へと消えた。どっぷりと大きく開けては細い身体を飲み込んで、海はまたその口をひたと閉じる。

 物音に気付いた近くの舟の舵取りが大声で入水を知らせる。飛び起きた乳母が傍らの寝床を見るも、そこはもぬけの殻だった。

 それから大勢で海に潜って彼女の姿を探したが、それでなくとも暗く霞んでいる春の海。呉葉の祈りもむなしく、頼りない月明かりの下ではなかなか見つけ出すことができなかった。

 かなりの時間が経って、ようやっと引き揚げることができた奥方はすでに虫の息という有り様だった。真っ白な袴に練貫ねりぬきの衣を重ねて着込み、長く豊かな髪が潮に濡れ、黒々と光を放ちながら艶やかに衣の白に散っている。

 乳母の呼び声に、彼女は生気のない瞳をうっすらと虚ろに見開いた。懸命に呼びかける家人たちの合間、屋形舟の簾の奥を、震える指先が差している。呉葉がその指し示された先を見ると、そこには通盛の大鎧が一領、飾られていた。

 小宰相が、通盛さま……と口の中で呟いて、その白い腕はぱたりと床に落ちた。

 すでに手の施しようもなく、それよりも何よりもあまりの思いの深さに心を打たれた家人たちは、いまだ伽羅の香の残る赤糸縅あかいとおどしの錦の鎧を奥方に着せた。そうしてそっと、海へと沈めてやったのである。

 すぐに呉葉も続いて海に入ろうとしたが、まわりの者に引き留められ、泣く泣く断念するほかなかった。彼女は虚しくおかへと帰りついた後、遺言どおり、主夫妻の菩提を弔って生きていくことを選ぶのであった。


 *


 ――暗い。怖い。恐ろしい。通盛さまのぬくもりが恋しい。もっと深く、もっと奥深く――。

 氷のような夜水の冷たさ、薄れゆく意識の中で、重い鎧の奥の奥、小宰相は夫のぬくもりを探す。いつでも彼女を包み込んで守ってくれた、唯一無二のぬくもりを。

 氷室の中の氷塊よりももっと冷たく堅牢な海の水、もう効かない視野にぼんやりと白い月の影がよぎる。あたかも桜の一片ひとひらのような。

 重い重い、白い衣と赤い鎧。もはや霞よりもおぼろな意識のなか、小宰相はやっと、通盛のぬくもりの残滓を捕まえた。もう離さないで、離れないで。ずっと、ずっとこのまま。


 ああ、そういえば、あの日もこんな花降り注ぐ月夜だった――。


 *


 やがて春の夜の月も西に傾き、霞んでいた空も次第に明るくなっていく。合戦の後の浜辺には、ただ波が静かに打ち寄せるばかり。

 夜明けとともに徐々に晴れ渡る渚、その長く引く白い浦浪の裾に、早咲きの桜の花弁がちらちらと散り浮かんでいた。




                                 【了】




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あふみありせば 玉鬘 えな @ena_tamakazura

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