獣月恋

 私は、魅入られたように身動きが出来なくなった。月の光に照らされ銀色に輝くその姿、ギラギラと欲望が宿るその瞳。その全てが私を、支配した。

 ぐるぐると威嚇の声が聞こえて私は微睡から目覚めた。春の日差しは暖かく少し座っているつもりが、眠ってしまったらしい。ここ数日、手当のために寝ていなかったのも、理由の一つだろうけど。

「あ、待って。まだ、起き上がってはダメですよ。傷は手当をしたとはいえ、深いので塞がっていません。ええっと、私の言葉はわかりますか?何も、しません。危害を加えたりもしないので、落ち着いてください。」

部屋の奥に敷いた布団の上で彼は包帯だらけの身体を起こして今にも飛び掛かってきそうだ。手負いの獣はなんとやらというけれど、彼の腹部に巻いてある包帯はじわじわと赤く染まっていく。敵意がないことを示そうにも、今、私は何も持っていないし、むしろ無防備に昼寝をしていたのだから、これ以上何を示せばいいのだろうか。

 ぐるぐると未だに視線をこちらに向けたまま、牙を剥く彼を気にしないようにして立ち上がり、瓶に貯めておいた水を器に入れる。そこから、彼に見えるように私が一口飲み、なるべく腰を低くして刺激しないように近づき彼の側に置いた。一応、眠っている間に口の隙間から水を垂らしていたが、あれでは最低限だけで出来るなら、自分の意志でもっと飲むべきだ。それにこうして同じ釜の飯を食えば、彼も信じてくれるのではないだろうか。

「大丈夫です、これは安全な水です。薬も毒も入っていません。だから、飲んでください。あ、もし、お腹が減っているようでしたら、干し肉がありますので後で食べやすいようにスープにして持ってきますね。」

 灰色をした瞳が、警戒するように私を観察する。くんくんと鼻を水に近づけ、私を油断なく見つめたまま、長い舌が掬うように水を舐めた。ちゃぷちゃぷとこの張り詰めた空気に似つかわしくない可愛い音だけが部屋に響いて、私は思わず笑ってしまう。

「あ!すいません、違います。ええっと、違うわけではないのですが。」

しどろもどろになる私を少し牙を出して威嚇した後、彼は鼻先で押すように空になった器を差し出した。これは、もっとくれということだろうか。それとも、スープにしろってことだろうか。一瞬、彼の灰色の瞳を覗き込み真意を測ろうとしたけれど、まるで針のように細くなった瞳が私を見つめる。

「あー・・とりあえず、水を汲んできますので、スープは少し待っていてください。」

器を掴んで立ち上がろうとする背中に、肯定なのか気まぐれなのか、フンと鼻を鳴らす音が聞こえた。


 ポカポカと暖かい春の日差しを浴びて彼の艶やかな毛並みが、キラキラと光っている。あれから、彼は私の少ない備蓄である干し肉を何日かくらい持たせようとたくさん作ったスープを流し込むように全て平らげ、もう、肉がないと言う私を威嚇と尻尾の一振りで黙らせた。

「いえ、文句を言うわけではないのですが、私はあれからまた、山を降りて村に買い物に行くことになったのですよ。あなたを手当するのに少々薬草を使ったので補充のために山道を奥に入ってちょっとですが、怪我もしたのに。あなた、どうしてそんなに偉そうなんですか。しかも、それ、私の本です。」

くつくつと新しく買ってきた干し肉を煮込む鍋の音を聞きながら、小さく抗議の声を上げる。へとへとになって帰ってきた私を出迎えたのは、荒らされたのか物が散乱している部屋とお気に入りの本たちの上に寝そべる彼の姿だった。

 部屋が荒れていたのは、仕方ない。彼はきっと危険がないか、ようやく動くようになった体で探索したのだろう。だけど、その本の上に乗るのは如何なものだろうか。ただでさえ、古い物で状態が悪いのにあんなふうに寝そべられたら、折りあとがついてしまう。それだけならいいけれど、若干何冊が破れているように見えるものもある。

 浮かんできた灰汁を取りながら、夜になったらそろそろ包帯を変えた方がいいかな。でも、体に触らせてくれるだろうか。と考えていると、部屋の向こうからワフと小さな吠え声がした。夢でも見ているのだろうか、とも思っていると、今度はもう一度、さっきよりも大きな声でワフっと聞こえた。これは、もしかして呼ばれているのだろうか、と振り向くと伏せるように起き上がった彼が、鼻先でお椀を動かしている。

「ええっと、お腹が空いたんですか?でも、スープはまだ、少しかかります。」

しかし、彼はワフっともう一度吠えて私から視線を下に動かす。それを追いかけると水の入った瓶を見ている。

「あ、喉が渇いたんですね。お水がほしいんですか?」

パシン、返事をするように尻尾が緩く跳ねる。瓶から水を掬い彼の鼻先にあるお椀に水を並々と注いでやると彼は嬉しそうに長い舌を使って喉を潤す。ぴちゃぴちゃと軽やかな音を聞きながら、私は試しにそっと彼に向けて手を伸ばしてみた。

水を飲んでいた彼は、一瞬だけ動きを止めた。それから、私の目を見つめてフンと鼻を鳴らした。黄色い瞳が私の目を捕らえた。射貫かれたように動けなくなった私の手にふわりと彼の柔らかい毛並みが触れた。彼が自らその顔を私の手の平に擦り付けている。

「あ、の、触っても、大丈夫ってことですか?」

クウンと彼は甘えたように喉の奥で鳴いた。耳のあたりに触れていた手をゆっくりと背中に向けて流していくと彼と自然に距離が近くなる。すぴすぴと彼の吐息が聞こえてくる距離で視線がぶつかる。綺麗な満月のような瞳が、

「あ、あとで包帯を変えますね。スープの火加減見てきます。」

慌てて立ち上がって台所に向かう。今さらになって心臓が爆発しそうなほど激しく鳴って顔が体が耳が熱い。私は、今、いったい何を考えていた。


 傷はまだ、痛々しく鮮明な赤をしていたが、それでも幾分良くなってきている。その証拠に、彼は部屋の中で退屈そうにあくびをしながら外を見ることが多くなった。

「傷口は化膿していませんし、痛みもなければ、動き回っても大丈夫ですよ。」

何度目かの包帯の交換後、彼の傲慢な態度にも慣れ、柔らかな毛並みを撫でながら言うと彼は嬉しそうに目を細めてワフと答えた。スープだけでは飽きたらず、とうとう干し肉をそのままガブリと食べられるようにもなっていた。

「あなたのために、最近は干し肉ばかり触っているような気がしますし、干し肉ばかり買っています。元気になったら、例えば、小動物を狩ってきてくれると大変嬉しいのですが。」

無警戒に伸びたお腹に顔を埋めて呟く。とくんとくんと私よりも若干速い鼓動が聞こえる。息を吸い込めば、獣独特の匂いと僅かに日差しの匂いがした。

「でも、それくらい元気になってしまったら、あなたはここを出て行ってしまうのですね。」

パタリパタリ、揺れる尻尾の振動を感じながら、視線を彼の顔に向ける。薄く開いた瞳も、口から覗く鋭い牙も、真っ黒な鼻先も、全てが、日常に溶けてしまっていた。

「私のそばから、いなくなってしまうのですね。」

呟いた言葉に、くいと彼が首を曲げて私を見つめた。スンスンと米神のあたりに湿った鼻先が押し付けられる。くすぐったい。瞼に、頬に、耳に、まるで匂いを付けるように柔らかく触れていく。

「・・・あなたと一緒にいられるなら、私は、あなたに食べられてもいいです。」

包まれている安心感から、うとうとしてしてしまったらしく私はそんなことを言って目を閉じた。


 ぐるるる、すぐそばで聞こえた唸り声に私は呼ばれるように目を開けた。

「・・・え、」

いつの間にか、辺りは暗くなっていた。どれくらい眠っていたのだろうか。そんなことを思う私の身体は、何かに押さえつけられていた。

「あ、の、」

暗闇の中、目の前には爛々と輝く黄色い双眸。押さえつけられた腕には、爪が食い込んで鈍い痛みを与えている。

「・・・・食べるん、ですか?わたしを?」

ふわり、ふわり、太ももを彼の尻尾が撫でるように触れて、お腹に乗った足もきっと爪を立てている。

恐怖なんてなかった。あの日と同じ。怪我をしていた彼を見つけたあの日。彼が、ゆっくりと口を開いた。首筋に冷たい牙が、熱い舌が、触れた。

私は、魅入られたように身動きが出来なくなった。月の光に照らされ銀色に輝くその姿、ギラギラと欲望が宿るその瞳。その全てが私を、支配した。

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