杉ちゃんと摩訶迦葉

増田朋美

杉ちゃんと摩訶迦葉

杉ちゃんと摩訶迦葉

今日も、何となく寒い日で、そとへ出るのはちょっとおっくうになりそうな日であった。もう少し、寒くなったらインフルエンザでも流行ってしまうのではないかと言われそうな気がした。

「あーあ、今日も寒いなあ。今日は暖かくおでんでも食べたいよな。」

「そうですね。」

丁度、呉服屋さんからの帰りで、道路を移動していた杉三とジョチは、そう言いあいながら、おでん屋さんに向かって移動した。

「よし、卵に昆布にちくわぶに、あと何があったっけ。おでん屋は、たしか、」

「はい、踏切をわたって数百メートルいった所ですよ。」

そういう訳で、二人は、東海道本線の踏切に向かって移動した。踏切は、すぐ近くにあった。

「あ、丁度電車が通る所だ。」

踏切の前を通りかかると、丁度電車が通る所なのか、警報がかんかんかんかんと鳴っていた。

「おい!」

と、杉三が強く言う。

「踏切に人がいるよ!」

確かにその通りだった。踏切のど真ん中に、中年の男性が立っている。もうすぐ、電車が通過しようとしているのに。

「非常ボタンを押しましょうか?」

と、ジョチが言ったが、杉三が其れより早く、

「やめるんだ!自殺なんてしたってな、碌な事がないから!」

と、杉三がでかい声でいったため、その男性は後ろに振り向いた。その顔は呆然としていて、この世の人ではないような気がする。

「やめるんだ!今日だけでもいいから、やめてくれないか!」

その人は、今回は失敗だという顔をして、ちょっと涙を浮かべながら、フウラフラと、遮断機の方へもどっていった。その人が遮断機の外へ出たのと同時に、ガタンゴトンという音がして、電車がうなり声をあげて走り去っていった。

「よし、行ったぜ!」

まもなく、遮断機は、再び開きだした。

「ああ、良かったなあ。何よりも、おまえさんが無事で本当に良かったよ。ちょっと遅かったら、確実に電車に跳ね飛ばされていった所だったぜ!」

ところがこの男性、ふらふらと杉ちゃんたちの前に座り込んで、わっと号泣するのだった。

「一体どうしたんですか。何かいけない事でもあったんですか。例えば、何か悪事をして、内部告発したとか。」

ジョチさんが、そういったが、その人は、なくばかりであった。仕方ないと思って、二人は、この人をおでん屋さんへ連れていくことにした。もう二度と変な真似はしないように、ジョチさんがしっかり手を握っている。

「それでは、行きましょうか。」

二人は、そういって彼の手を引っ張り、おでんと暖簾が垂れ下がっている、小さな店の前に、男性を招き入れた。

ガラガラと戸を開けると、中にいたのは、影浦であった。丁度、味噌おでんを口にしていた所だった。

「あ、いいところに居てくれたね。影浦先生、丁度いいや、こいつの話を聞いてやってくれないか。丁度、そこの踏切で、自殺しようとした所を、捕まえてきたのよ。」

影浦は、急いで味噌おでんを飲み込んだ。

「こいつって誰ですか。」

「この人。」

杉三は、男性を顎で示した。

「あ、はい。わかりました。じゃあ、ちょっとお話を伺ってもよろしいですか。」

影浦は、その男性を椅子に座らせた。ジョチはその間に勘定は払うから、二人分のお茶を出してくれとお願いした。

「先ずですね、お名前と、年齢、職業を仰ってください。」

影浦にそういわれて男性は、

「植松直紀、三十六歳です。職業はある高校で教師をしていました。」

と、聞かれた通りのことをいった。影浦は、彼に持っていた名刺をそっと渡した。精神科のお医者さんとわかって、彼はもう話す覚悟を決めたようだ。

「いつから、落ち込んだり、悲しい気持が続いたりしていたんですか?」

と、影浦が質問したのに対して、

「何時というか、よくわかりません。今日、学年主任から、おまえはもう用なしだといわれて、突発的に、電車の踏切に来ていました。」

「なんだ、若気の至りか。もう二度とそんなことはするなよ。」

彼がそういうと、杉三がカラカラと笑った。

「しかし、学年主任の先生がそういうことをいうのは問題ですね。学校としてちゃんと機能しているのでしょうか?学校というより、教師の組織が、ちゃんとしていないような。それでは生徒さんだって、安心して通学できませんよね。」

と、ジョチが聞く。

「はい。僕もそう思ったから、学年主任に改善をお願いしたいといったんです。」

植松はこたえた。

「なんですか?学校で校内暴力でもあったんですか?」

ジョチがもう一回そう聞くと、

「はい、校内暴力というか、学校に不登校の生徒が居まして、昨日学年主任が、もう退学にしたほうがいいのではないかと言いだしたんです。僕は、まだ彼女には可能性が有るんだから、もうちょっと待ったほうがいいといったんです。そしたら、学年主任は、すごい剣幕で怒り出して。もう、大学受験も近いのに、今更そんな生徒の面倒を見てどうするって!」

と、答えが返ってきたので、ジョチと影浦はため息を付き、杉三は声をあげて笑いだした。

「何ですか杉ちゃん。こういう所で笑う事ではありませんよ。これは学校の深刻な問題じゃないですか。」

「彼女はといったから、おそらく女子生徒ですね。もし、彼女に連絡を取ることが出来るのなら、役に立たない診療科ではありますけれども、話を聞くことは出来ると思いますよ。是非、連れてきてください。」

ジョチと影浦が相次いでそういうが、杉三はまだ笑っていた。

「杉ちゃん。笑ってはなりません。植松さんは、真剣に悩んでいるんですから。」

ジョチがそういうと、杉ちゃんは、

「だって摩訶迦葉みたいなんだもん。」

といった。

「誰が摩訶迦葉みたいなんです?」

と、影浦が聞くと、

「こいつ。何十人の阿羅漢のなか、ただ一人間違いを指摘で来たんだからよ。」

と、杉三が、植松を顎で示した。

「あ、なるほどね。確かに、阿羅漢に騙されて、うちの病院にやってくる人は、うなぎのぼりに増えてますからね。最近は、善人なのか阿羅漢なのかよくわからない人が多く出てますから、若い人が混乱しても、しかたないですね。その中で阿羅漢にはっきりと、自分たちがまちがっていると気が付いた、摩訶迦葉は、相当勇気のある人物だったのではないでしょうか。うまい例えではないですか、杉ちゃん。」

と、影浦も、笑った。

「そうですか。僕は仏教に詳しくありませんが、摩訶迦葉というのはどんな人物なんでしょうか?」

ジョチが聞くと、影浦は、

「ええ、僕も最近、仏法書を読んで気が付いたのですが、古代釈尊が仏教を広めた時に、釈尊の教えを変な風に解釈してしまった人たちが居たそうです。こういう人たちを阿羅漢と言います。その阿羅漢の中で、たった一人摩訶迦葉という人物が、自分たちの解釈はまちがっていたと気がついて、釈尊の元へ、詫びにいったという逸話が有るんです。」

と説明した。なるほど、そういう事ですか、とジョチは笑った。

「でも、この逸話にはまだ続きがありますよ、釈尊の元へ詫びに行った摩訶迦葉は、しっかり釈尊の元で正しい仏教を学び直して、釈尊がなくなった後、仏教を普及するための団体を作り、そのリーダーになりました。ただね、うちの病院に来る患者さんたちは、大体阿羅漢に騙されていたということに、気が付くことまでは行くんですけどね。そのあと、正しい仏教を伝えようという気にはならないんですよ。まあ、世のなかが、昔ほど貧しくないということも有るんでしょうけどね。本当は、阿羅漢に騙されないように行動してほしいと思うんですけど、、、。無理かなあ。」

と、影浦が詳しく説明した。

「へえ、影浦先生、詳しいんですね。何時頃から、そういうことも勉強するようになったんですか?」

ジョチが聞くと、

「いやあ、患者さんが悩んでいる事を聞いているうちに、こういう宗教的なことも知っておいたほうがいいのかなと思いまして。」

影浦は、そんなことを言った。

「まあ、植松さん。きっと鬱になって、電車に飛び込もうとしたのではないかと思うんですが、それはもしかしたら、あなたにとって、チャンスなのかもしれませんよ。僕は患者さんによく言っているですがね、鬱になったり、パニック障害とかそういうものになったりしたのは、これまでの環境が余りにもひどすぎたことを知らせてやっていると思うようにしてほしいんです。決して、怠けでも甘えでもありません。なかなかそういうことを考えてくれる患者さんはなかなか居ませんけどね。」

「そうそう!阿羅漢から脱出することも出来たんだからよ。悪いのは阿羅漢だから、おまえさんは堂々としていればいいって事よ!」

杉三もにこやかにいった。杉ちゃん本当に明るいんですね、と、ジョチは笑っていった。

「しかしですね。そんな風に学校が生徒に対応を取っていたら、その学校の行く末が心配でなりませんね。一体何処の高校なんでしょうか?」

「はい。吉永高校です。」

ジョチに聞かれて植松はそうこたえた。

「あ、そうですか。と言いたいところですが、あの学校は、たいへん伝統があって、もうすぐ創立100周年になるといって、あちらこちらで大騒ぎの筈でしたけどね。」

「はいそうです。来年がその100周年何です。ですから、学園祭何かも盛大にやりたいところですが、生徒の質の悪さにより、もう文化祭は取りやめになるのではないかといわれております。それだけではなく質の悪い生徒を切り捨てようとかそういう傾向にあって。僕は、それではいけないと言ったんですけど。今度は僕が用なしになるとは、思いませんでした。」

植松がそう語ると、杉三もあーあ、というため息をついて、

「まあ、確かに学校は百害あって一利なしですからねエ。」

と高らかに言った。

「で、その学校にいけなくなった女子生徒は、どうしているんでしょう?」

ジョチが聞くと、

「はい、このままだともう退学になってしまうのではないかと。」

と、植松はまた下を向いて、がっかりといった。

「それではいけませんね。いくら学校とは言っても、生徒がちょっと躓いたからと言って、それを切り離してしまうのはいけないんじゃありませんか。学校の先生だったら、そういうことはいけないでしょう。」

「ジョチさんのいう事も間違いではないが、阿羅漢のなかに戻してしまうのは、かえって良くないと思う。一切経によると、九万人以上いた阿羅漢の中で、間違いに気が付いたのは摩訶迦葉たった一人だったらしいから。残りのやつらは、誰も気が付かずに終っているんだぜ。そんなのを動かすのは至難の業だ。其れよりも、その生徒は、阿羅漢の中に、戻してしまわないで、さっさと逃がしてやればいいのよ。」

と、杉三が言った。

「だけど、さっき影浦先生が言ったように、阿羅漢に騙されないように行動してほしいということもありますよね。さっさと逃がしてやればいいと言ったら、敗北を認めることになるのではありませんか?」

植松は心配そうに言った。

「若い奴はそういうけど。今の時代は、一度躓くと、世間の厳しい目というナイフより怖いものがあるからな、それなら、常に世間から、いい評価を貰うほうへ逃がせ。」

と、杉三がカラカラと笑った。

「確かに、今思えば、そうなのかもしれませんね。僕もわかりますよ。今は多いですからね。本当にきっかけは些細な事であったけど、それがいつの間にか重大事件に発展してしまう人はいっぱいます。僕が買収した会社の経営者の中にもいました。表面的には、彼らはにこやかに笑っていますが、裏ではものすごい悲しい思いをしているに違いありません。それに歯を食いしばって耐えながら、事業をやっているんですよ。中には、ものすごい学力があって、そのままだったら、東京大学

とかいけたかもしれないと言われていましたが、ほんの誰かの一言で、それらを全部もぎ取られてしまった人だっています。本当に勿体ないことをしたと思いますけど、彼らはそれしか選択肢がなかったんじゃないでしょうか。僕たちが出来るのは、君は精一杯やったんだって言ってやることしかないんですよね。」

ジョチの話に、全員がしんみりした顔をした。

「まあな、こっからはちょっと演技指導な。阿羅漢と一緒になって、その女子生徒を追い出すように演技しろ。でも、彼女の前では、おまえさんは正しいことをしたといって、ほめてやれ。そして、新しい学校に行ったら、二度と阿羅漢に騙されるんじゃないぞと、彼女を厳しく叱ってやれ。おまえさんは、なかなかの二枚目だからよ。そのくらい演技できるだろ?そうすることが、彼女にとっての一番の指導なんだ!」

杉ちゃんは、にこやかに言った。

「そういうことは、出来るでしょうか。それでは、彼女にはそう言えるようにします。そうなれるようになるには、まだまだ時間がかかりますが、、、。」

正直戸惑っている植松であったが、杉三たちは、にこやかにそんな事気にするなよ、という顔をした。

「まあ、僕も教師としてちゃんとやれていませんでした。もう一回、彼女に向き合ってみます。学年主任とも、ちゃんと話してみます。」

「そうですよ。くれぐれも今日とおなじような真似は市内でくださいませ。」

と、影浦が医者らしく念を押した。

「まあ、その女子生徒は、医学的な援助が必要なら、僕の所に連れてきても構わないですからね。」

影浦がそういったので笑い話になってしまったが、最後はみな、顔を和ませて、おでんをたべあうのだった。

「じゃあ、約束しよう。また、何日かしたら、ここで会おう。そのときによい報告ができるように。」

と、杉ちゃんがにこやかに笑っていった。それなら、きっと、よい報告ができる。きっと、あの女子生徒も、立ち直る。いや、立ち直らせてやりたい、と、植松は思った。

「じゃあ、来週の今日にコチラにきてみますか?」

ジョチさんがそういうと、影浦もわかりましたといった。

「どうか、阿羅漢には、まけないでください。」

「はい、まけません。」

そういう決断の早さから、まだまだ若者だなあと、杉三たちは、笑い会うのであった。


そして、それから一週間たった、その日。

杉ちゃんも、ジョチも影浦も、約束した通りに集まったが、肝心の主役はなかなか来なかった。いったいどうしたんでしょうね、と、影浦が、連絡先を調べに、スマートフォンを手にしたとき。

「すみません。おそくなりました。」

頭をだらっとたらしたまま、植松がやってきた。

三人はその顔を見て、何があったかだいたい予測したが、

「何が有ったんですか?」

と、影浦がきいた。

「ええ、あのあと、学年主任がすぐに彼女の家にいったらしくて、親御さんの方に、これ以上学校の雰囲気を潰すのなら退学しろ、と、押し付けたらしくて。」

植松は渋々言う。

「僕が悩んでいる間に学年主任が決めてしまったらしいんです。どうしてもっと早く、決断ができなかったのでしょうか。」

三人とも、沈黙をながした。でもこれが世の中というものだ。大体、結論を出す前に、悪いやつらがそれをもぎ取ってしまう。

「まあまあ、まてまて。」

と、杉三がいった。

「しょうがないじゃないか、お前さんにはそれだけの力しかなかったということさ。」

「そうですけどね、杉ちゃん。」

もし、これが水穂さんだったら、しかたないけど、結論を導き出してくれてよかったとか、そういうことを言うはずだ。でも、そういうことは、ジョチさんには、ちょっとできなかった。

「まあ、それはね、若いんですから、一度や二度は不条理を経験するものですよ。でも、それはムダにはなりません。これからもそれを抱えたまま、生きていかなければなりませんね。そして、二度と繰り返さないように気を付けてください。」

とりあえず、そういった。でも、植松が望んでいることは、そういうことではないのかもしれない。もっと自分の苦しみをわかってくれるような、そういう人なのかもしれない。

「とにかくですね。今、阿羅漢に勝つか敗けるかは、自分次第だという事ですよ。自身で、二度と繰り返さないようにすれば勝ちになりますし、いつまでもふさぎ込んで居ては、その時点で敗けです。」

ジョチの言う通りになるのだが、なかなか、そういう風にやれる人はそうはいないのも、若い人間の特徴なのかもしれなかった。それを、大体の人は、それではいけないと言って、しかり飛ばすのだが、それではさらに心が傷つくということになる。だから、そこを間違えてはいけない。

「まずは、第一に自分の心を休ませてやってください。それをしてから次の行動を考えればいいのです。すぐにどうしようこうしようと、結論を急ぐのはやめた方がいい。もし、可能であれば一日くらい、休みを貰って、家でもどこかの温泉でも、一日ゆっくりと過ごされてもいいのではないでしょうか。」

影浦は医者らしく、そういうことを言った。

「影浦先生の言ってることを実行出来たら、心の病気何てなくなるんじゃないのかなあ。」

杉ちゃんが、ちょっとからかい半分で言ったのだが、そうですね、それが出来ればね、と、ジョチもッそれに同意する。

「まあとにかくねエ。おまえさんは、少なくとも、阿羅漢にはなれないんだからよ。阿羅漢の奴らが言う通りには、動けないよ。それは、おまえさんがいちばんよくわかっている事だろう。そういう訳で、阿羅漢の奴らが、やっていること言っていることに、共感することも出来ないだろうよ。それを忘れないで、生きていってほしいなあ。そうすることで、おまえさんの生き方というのも、決まってくるとお思うんだがな。どうだろう。」

今度は杉ちゃん、真面目な顔をしてそういう。確かに自分には、学校の先生たちがやっていることに、共感することは出来ないなあと植松は、感じ取っていた。

「これからも、阿羅漢に敗けないでさ、一生懸命生きて行って頂戴。おまえさんには、摩訶迦葉になってほしい。」

しまいには、懇願するようにそういわれて、植松は、もう阿羅漢には敗けないようにしようと、心に決めたのだった。

「また、ここに来てくれるか?今度はいい話を聞かせてくれよな。」

と杉ちゃんが言う。ジョチも影浦も同じような気持らしい。植松は、答えに迷ったが、少し考えて、

「はい。」

と、こたえた。

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杉ちゃんと摩訶迦葉 増田朋美 @masubuchi4996

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