#2

 白衣の右ポケットから手のひらに収まる大きさの箱を取り出し、そこから煙草を一本口にくわえる。古いジッポライターで火をつけた。

 ゆるゆると白い煙が空に昇っていく。

 灰が落ちないように気をつけながら、ジェビンは自分の医院の外壁に寄りかかって深く長く煙混じりの息を吐いた。

 雲の切れ間から淡い日が差している。

 雨の中であの青年を見つけたのはきっと偶然だったのだろう。

 往診が少しだけ長引いて、裏通りにある医院まで近道をしようと狭い通路を通った。

 いくら雨が降っていようとも、職業柄、血の匂いを間違えるわけがない。

 点々と残された血痕をたどった先で、十八かそこらの青年が意識を失っていたのだった。

 使いこまれたような刀を腰に帯びた青年が、どのくらい雨に打たれていたのかはわからない。だが、多国籍なこの街でも珍しいアッシュブロンドの髪は濡れぼそり、あらかたの血が洗い流されていた。

 右のまぶたには思いっきり爪を立てたかのような血が滲み、左の二の腕から肘にかけて鋭い刃物でざっくりと切り裂かれていたし、左大腿の刺し傷に至っては骨にまで達していた。その他、多数のすり傷や切り傷。両手首と首筋の、枷の跡。

 とにかく青年とその近くに落ちていた雨と血に濡れた煙草の箱を回収し、医院に戻ったのが四時間と三十分前。彼が目を覚ます前に買い出しを頼んだ看護師もそろそろ帰ってくるだろう。

 裏通りに医院を構えてしばらく経つが、ジェビンでさえもあの路地を使うことはあまりない。一番人目につかず、逃げ込んでしまえばそうそう見つけられまい。

 ――難儀な子だ。

 じりじりと灰になっていく煙草の音を聞きながら、そんなことを思った。

 大人びた端正すぎる容姿は作り物めいていたが、長い前髪から覗く瞳はまっすぐに澄んでいて。ともすれば、そこらの人間やジェビンよりも生気に満ちていた。

 自らの傷の痛みすら感じていないような様子だったのに、生きていることには固執するかのような輝き。

 そして、ジェビンが右目に触れようとしたときのひどく怯えた表情を思い出して申し訳なくなった。

 右のまぶたに残った爪の傷を処置する際に見てしまった、目を縦断するように刻まれたあの痕は、確かに何かの手術を施された痕跡だった。縫合が粗雑だったのか、多くの人間が目を背けてしまいたくなる醜い傷跡。

 あの怯えようは、他人の手全般に言えるものだろう。

 全力で弾かれて、ひっかき傷の残っている手をさすった。

 ――訳アリなんだろうな。

「まあ、そんな患者ばっかりだけどね」

 集約した思考に自分自身で突っ込みを入れて自嘲気味に笑った。

 理由はあるが、それを尋ねてはいけない者たちを黙って手当てするジェビンのことを人は闇医者と呼ぶ。

九番目ノイン、か」

 数字のコードネームを使う闇の使者たちは数多いるが、果たして。

 ――じゃなければいいんだけど。

 頭をもたげた考えを苦い煙とともに飲みこんだ。

「先生!」

 少女の声にそう呼びかけられて顔をあげれば、医院の雑用から手術までをこなす看護師がこちらに駆けてきていた。

「ユン」

 ジェビンは彼女の名前を呼び、煙草を消した。

「頼まれていたもの、全部そろえてきました」

 清潔なシャツにキュロットスカートを合わせ、腕を目いっぱい使って紙袋を抱えた丸眼鏡の少女――ユンがかわいらしく笑った。華奢な肩の上で切り揃えた黒髪が揺れる。ユンはまだ十二歳の少女であるが看護師としての腕も良く、患者の世話もよく焼く。珍しいくらいにできた子である。

 医薬品やら食料やらが雑多に入れられた紙袋をひょいと少女から取り上げたジェビンの手を見咎め、ユンがまん丸に目を見開いた。

「せ、先生、その手の傷はどうしたんですか!?」

 さすがに見逃してくれないか、とジェビンは苦笑する。

「ちょっと警戒心の強い猫に引っかかれてね」

 冗談とも本音ともつかない言葉にはぐらかされ、少女は首をかしげるばかりだった。

 消毒液の匂いが漂う院内に戻ると、そのまま二階にあるキッチンに向かう。

「これでスープ作ろうか」

「はい、先生」

 ユンは詳しく尋ねることなく素直にうなずく。丸眼鏡の奥の青い瞳は何かしらの事情を察している様子だった。まったくもって聡い子である。

 そうしてふたりは並んでキッチンに立ち、二種類のスープを作った。

 ひとつは、ユンの主導で作ったコンソメを一粒だけ入れた琥珀色のオニオンスープ。

 そしてもうひとつは、それにコンソメとガーリックを少し多めに追加したもの。濃い飴色になったそれの味見をしたユンが顔をしかめていた。

 トレーに味の濃いほうのスープをそそいだ皿とスプーンを載せると「私が持ちます」と、ユンが手を伸ばした。

「じゃ、お願いするよ」

 献身的な看護師に微笑を浮かべて青年を休ませている部屋の扉を軽く叩いた。

「ノイン、入ってもいい?」

 返事はない。

 眠っているのかもしれない、とそうっと扉を開くと、青年はベッドから下りて白い床に片膝を立てて座り込んでいた。表情の抜け落ちた横顔は、ただじっと淡い日差しのその先を眺めている。

 ぽと、と点滴が落ちる音がした。

「寝るならちゃんとベッドで寝なきゃだめだろ」

「……こっちのほうが落ち着く」

 それに眠らなくても平気だ、と青年は窓の外に目を向けたまま答えた。手首に巻かれた包帯をさすっているのは無意識だろうか。

「睡眠が極端に少ないってのは医者として見過ごせないんだけど?」

 それには答えずに青年がぴくりと鼻を動かしてこちらに顔を向ける。そこでようやくジェビンの背後にいるユンの存在に気づいたらしいが、「煙草の匂いがする」とどこか物欲しげにつぶやいた。

「君には吸わせられないよ」

「なら、先生も禁煙してください」

 思わぬ追撃にうっと言葉に詰まる。

 大仰に肩をすくめてみせるジェビンの後ろからひょこりと顔を出した少女が微笑んだ。

「看護師のユン。仲良くしてやって」

 そう紹介するとユンは小さく頭をさげてノインに歩み寄る。トレーを彼の前に置いて自らもしゃがみ込んだ。

「これ、食べてみてください」

 身じろぎもせず、青年は感情の読めぬ表情のまま視線をユン、スープへと移して最後にジェビンを見た。その左目は警戒の色を浮かべている。

 さすがにすぐには手を出さないか、とジェビンは苦笑した。

「ただのスープだから安心して」

 ――少し確認したいだけだからね。

 言いながら、雨と血に汚れた煙草の箱を思い出していた。

 しばらく水滴の落ちる音と窓の外の鳥の声しか聞こえなかった。

 その沈黙に耐えかねたユンが不安そうにジェビンを振り返りかけたとき、青年はひどくゆっくりとした動作で銀のスプーンを手に取り、スープをひと口だけ含んだ。

「味はどうですか?」

 思わずといった様子で尋ねるユンに、ノインは静かに目を伏せた。

「……よく、わからない」

 ささやくように言ってスプーンを置く。

 え、とユンは声を漏らして、青年は無言のまま少しだけ視線をそらした。

「……あなたも先生と同じ、なんですか」

 その言葉は無意識にこぼれたらしい。うつむいて、きゅっと服の裾を握った。

「同じ?」

 泣きそうに揺れる少女の声にノインが首をかしげる。ジェビンはかすかに震える少女の肩に手を置いて微笑む。

「ありがとう、ユン。もう休んでいいよ」

 ――これで確定か。

 うつむいたまま小さくうなずいたユンはノインにぺこりと一礼して出ていった。罪悪感を抱きながらその背を見送る。

 青年に向き直ると前髪に隠された目が、どういうことだ、と訴えかけてきていた。

 ジェビンはその視線に気づかないふりをして片膝をつくと、濃い飴色のスープを食べる。

「実はこれね、かなり味が濃いんだよ。でも、俺は少ししょっぱいって感じるだけ」

 訝しげにノインが眉根を寄せる。

 そんな表情もできるんじゃないか、と内心で思いながら、ジェビンはスプーンをトレーに戻した。静かになった水面に笑みを張りつけた自分の顔が映っていた。

「君の煙草、普通のじゃないでしょ」

 青年の傍らに落ちていた煙草を、水気をふき取るついでに調べたところ、普通のそれには含まれていない神経や感覚機能に作用する成分が検出された。それも、とびきり濃度が高く副作用も強いもの。

 つまり、煙草の形をした薬物。見覚えがありすぎて苦笑さえ浮かぶ。

 それを常習的に吸っている――いや、吸わされていたならば、体の外だけでなくまでぼろぼろになっている可能性が高い。

「感覚――特に痛覚と、自我を制御する薬の副作用で味覚まで麻痺しているんだろ?」

「……なんでそれを」

「俺が作って被験者になったから」

 だから、ジェビンの感覚機能も大半が麻痺している。

 事もなくそう言えばノインが声もなく目を見開いた。

「けどまあ、だいぶ戻ってきたよ。五年くらいかかったけどね」

 ユンと出会ったころは「料理の味が濃すぎる」とよく怒られたものだ。今は幾分かましになったが料理担当は変わらず彼女である。

「自我の制御のほうはまだ研究すらされてなかったから、俺は俺のままでいられた」

 ――けれど、目の前の青年は。

 ノインはふと目を伏せた。長い前髪が影を落とし、表情が見えにくくなる。

 ジェビンは口元に笑みを張りつけて見せた。

「この五年で治療薬の研究は済んでるから、君はもっと早く感覚機能を取り戻せると思うよ」

 君の体の様子を見ながらだけど、と続けるジェビンに、それまで沈黙を貫いていたノインがふいに口を開いた。

「……その治療薬っていうのも、自分で実験したのか」

「うん」

 それがどうしたの、と首をかしげれば、青年がちらりとこちらに視線を向けた。そこに少しだけ呆れが混じっていたのは気のせいだろうか。

「あんた、自分に容赦がないな」

「だって嫌いだもん、自分のこと」

 ごく自然にジェビンはそう口にしていた。

 虚を突かれたようにひとつ瞬きをしたノインに眉尻をさげて頭をかいた。

「あ、今のユンには内緒ね」

 こんなことを思っているなど知られたら彼女に泣きながら怒られてしまう。

 しばらくこちらを眺めていたノインだったが、ふっと興味を失ったように窓の外へと視線を移して独り言のように言った。

「あの子も大変だな」

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