#1

 薄ぼんやりとした光で意識が戻る。

 まぶたが開くことにどこか落胆しながら、青年は純白のシーツがかかった簡素だが清潔なベッドに横たえられていた。

 赤と透明のパックがカーテンから差す淡い日を受けてつるりと照る。それらから青年の右腕に繋がる細い管に、一粒ずつ水滴が落ちていく。

 自分の体の傷と、両の手首と喉元に包帯が巻かれているのを知覚しながら、ふと物が少ないこの部屋に青年の赤い鞘の刀がないことに気がついた。

 右腕に力を入れて起き上がる。まだ動きの鈍い左手で二本の管を引き抜いた。

 相変わらず、左の太ももから先は思ったように動いてくれなかったがあえて無視をする。足に力を入れて立ち上がろうとするが、一瞬、自分の感覚と世界の認識がずれたように感じてベッドに手をつく。

 ――なんだ?

 数秒考えて右目に手をやると、そこには柔らかいガーゼと眼帯の形があった。

 隣に続く扉を開けると、いくつもベッドが並んだ部屋の片隅で白衣を着た男が机に向かっていた。

 おおよそ三十歳あたりだろうか。毛先に向かってだんだんと色の濃くなっていく髪は背中を覆うほどまで伸びていたが見苦しくはない。時折落ちてくる横髪を耳にかけ、何やらペンを動かしていた。

 ふと顔をあげた男が青年を見た途端、たれ目を丸くして勢いよく椅子から立ち上がった。がたっと椅子が大きな音を立てた。

「ちょっ、まだ動いていい状態じゃないでしょ!」

「……痛くはない」

「そういう問題じゃないよ!」

 青年の無機質な言葉に言いつのろうとした男の背後に、壁に立てかけられた赤い鞘が見えた。

「あれ、返して」

 青年の視線の先を追った男が即座に首を横に振る。

「じゃあ、煙草」

「もっとだめ。それに、君のは雨と血でしけちゃって吸えないよ」

 肩をすくめながら男は言うが、先ほどまで書き物をしていた机の隅にはタオルが敷かれ、そこに少し潰れて赤黒いしみがついた見慣れた煙草の箱が置かれていた。できる限り水気を拭きとる努力はしてくれたらしい。律儀というか真面目というか。

「ねえ君、歳は? さすがに二十歳はたちってことはないだろうけど、ちゃんと成人してる?」と尋ねてくる声を無視し、すん、と青年は鼻を動かした。

「……なら、あんたのをくれ」

 薬品の匂いに紛れてわかりにくいが、この男の白衣にも長い髪にも苦い煙の匂いが染みついている。幾度も焚き染めたように濃く深く。事実、白衣の右ポケットに四角い形が浮かんでいる。

 表情を一切動かさぬ青年に男は大仰にため息をついた。

「少なくとも重傷患者に吸わせるわけないし、院内は禁煙だよ」

 とにかく、と無精ひげが散った顎で青年が寝かされていた部屋を示す。

「出血もひどかったし、左腕と左脚も万全じゃないだろ」

 それに、と言葉を切り、男は白い眼帯で覆われた青年の右目を見やる。

「――その右目のことも聞かせてほしいな」


 大人のひとりやふたりくらいは素手でもどうにかできるように訓練を施されてきたし、青年はそれに見合った――いや、それ以上の身体能力を与えられた。それが体格的には劣っていても身長的に同じぐらいの相手であろうと。

 つまり、抵抗しようと思えば抵抗できたのだ。

 だが、おとなしくベッドに戻ろうと思えたのは、少なからず弱っていたからだと青年は自分に言い訳をしていた。

「……どのくらい寝てたの、オレ」

「ざっと四時間くらいかな」

 四時間。青年にしてはだいぶ眠れたほうだ。

「丸一日は目が覚めないと思ってたんだけど……たった四時間じゃ体力の回復もできてないだろうに」

 ただでさえ失血死の二歩手前だったんだよ君、という不満げな医者の、半ば小言のような言葉は聞き流すに限る。

「ああ、そうだ。俺の名前はジェビン。しがない町医者だよ」

 と、男――ジェビンがへらりと笑ってみせた。青年の左手を取り、華奢な手首に真っ白な包帯を丁寧に巻きながら「君は?」と首をかしげる。

 青年は少しだけ視線を逸らし、脳裏に浮かぶスーツたちが自分を呼ぶときに使っていた名称を口にする。

「ノイン」

「――九番目ノイン、ね」

 一瞬、ジェビンが目を細めたように思えたが、それはすぐに軽薄な笑みに戻った。

 そのままノインの右腕に点滴と輸血の管を固定し直したり、数多のすり傷に薬を塗ったりと、てきぱきと処置を進めていく。

 それが終わりかけたころ、ふいに筋張った大きめの手がノインの右目に近づく。

 その瞬間、いくつもの胡乱な笑みと冷たい輝きを持った切っ先が脳裏をかすめた。

「――ッ」

 ノインは反射的に顔を背け、近づいてきたものを払っていた。

 ばしっと鋭い音がする。

 直後、ジェビンの「いたっ」という声がした。

 その声に我に返ると長髪の医者が手を押さえて顔を歪めていた。

「ごめんね。不躾に手を伸ばしたりなんかして」

 自分の行動に言葉が出ないノインより先にジェビンが困り顔で謝る。さすっている手には数本の赤い筋が滲んでいた。

「あ……」

 頭が真っ白になり、息があがる。いつの間にか全身が震え出す。爪が食い込むほどに自分の腕を強くつかんだ。

 言うべきことがきっとある。なのに、喉がつまって声が出なかった。

 ――

 いくら許しを請うても、もうどうにもできない、と直感した。このあとに起こる一連の動作とそれに伴う痛みはノインの心と体に深く深く刻まれている。

 ジェビンの手が再び動く。

 ――殴られる。

 ノインは固く目を閉じて衝撃に備えた。

 だが、数秒が経っても予想していた衝撃も痛みも訪れなかった。

「……?」

 恐る恐る目を開ければ、無事なほうの手を中空に泳がせたまま、ジェビンが眉尻をさげて困ったように、悲しそうに笑っていた。

「何か嫌なことを思い出させちゃったみたいだね」

 ぐっと行き場を失った手を握るともう一度、ごめん、と謝罪し、シーツをかけなおしてくれる。

「落ち着いたころにまた様子を見に来るから、ゆっくり休んで」

 そう言って笑ったジェビンはもう触れてこなかった。

 揺れる毛先が扉の奥に消えてから、ノインは一睡もしなかった。

 たったひとりの部屋に水滴が交互に落ちる音だけが響く。

「……何も訊かないんだな、あいつ」

 そっと手首に巻かれた包帯に触れてつぶやいた。

 ノインの両手首と頸部には帯状の痕があった。まるで長い間、硬いものに締めつけられ、何度もすれて血を流し、黒々とした傷跡になったかのような。

 それから、右目を覆う眼帯に軽く爪を立てる。

 処置されているということは、あの医者は見たのだろう。この目を縦断する醜く引きつれた手術の痕を。

 に無理やりひらかれた体。無理やり入れられた目。

 人形ノイン人間ノインであるためのもの。

 窓の外で名も知らぬ鳥が鳴いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る