NoTitle

ソラ

Prologue

 細く荒い呼吸の音が雨にかき消される。

 水気を含んだ服と髪から滴が落ちて地面に点々とアカイロの跡を残す。

 壁に手をつき、片足を引きずるようにして青年は狭い路地を奥へ奥へと進む。

 雨粒とともにぽたぽたとアカイロを流す左の腕と脚にはすでに感覚はない。うまく動かない左脚がもどかしい。鉄の匂いだけが嫌に鼻をついた。

 顔に張りついた長い前髪の隙間から空を見上げた。

 塗りつぶされた灰色の空。そこから降りしきる水滴が頰をすべっていく。

「……ぁッ」

 ふいに青年が顔の右半分を覆い、くずおれた。腰にさげた刀の鞘と地面が立てた音さえも遠い。

 右目が、心臓の鼓動に合わせてずきずきと痛みだす。荒くなる呼吸を奥歯を食いしばって必死にかみ殺した。

 感覚なんて、痛覚なんてとっくに麻痺しているはずなのに、こんなときにだけ主張をしてくる。

しかし。

 ――オレはまだ、生きてるんだな。

 無意識のうちに右のまぶたに爪を食い込ませていたことにも気づかないまま、青年はそんなことを思っていた。

 痛みこそ、生きている証。

 自分のものかも相手のものかもわからないアカイロに濡れる度、刻まれた傷跡をひとつひとつ数える度。この右目が痛む度、幾度も。

 そうしなければ、自分は幽霊か――ただの人形にでもなった心地がして狂ってしまいそうだった。

 いや、と青年は内心で自嘲する。

 視界の端で懐から落ちた煙草の箱が雨に濡れ、アカイロを吸い込んでいくのがぼんやりと見えた。

 ――もうどうしようもなく壊れているのに、何を今さら。

 とりとめもない思考がかすみ始める。まぶたが重い。雨の冷たさも感じない。

 いっそ狂えてしまえたら。すべてを諦めてしまえたら、どれほど楽だったろう。

 ぎち、と右のまぶたに爪を立てたのを最後に意識が途切れた。


 行かなきゃ。

 ――どこに?

 どこか遠くへ。

 ――行けると思っている?

それでも、誰の手も届かないところへ。

 ――どこに行ったって、居場所なんてないのに?

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