幼少期編20

「あ、お母さん」。当時の私はさすがに母のことを名前で呼んだりしてはいない。彼女の特異性を感じ取り始めるのはもっと後の年頃になる。幸子さんは、いつからそこに居たのだろう。私は、手にしている雑誌をたたみ、普通に元の場所に戻した。背中に、レジ袋を重そうに持ちながら立っている母の視線を感じていた。いつも通り一つのレジ袋を私が持ち、帰ろうとすると「美奈子ちゃん、ジュース飲まんね」と幸子さんにはありえない言葉が彼女の口から出てきた。このケチの塊みたいな幸子さんが、「1円貯められない人間は100万円を貯めることができない」という名言を吐いた幸子さんが、一つ60円もするカップ入りのジュースを飲もうと言うのだ。私の人生は、ここで終わるのだ。その時私は本気でそう思っていた。なりそこないの私がさらに人の道から外れる行為をしているところの現場を押さえられたのだ。逃げようがないではないか。買ってもらったジュースの味も種類も覚えていない。その時赤いコカコーラのベンチに座って、まだ小さかった私の足が床に着かず、どこか不安定な感覚だったことだけ脳裏に浮かぶ。幸子さんが口火を切った「いつもあぎゃん本を読みよったとね」。こんな言葉に正直にはいそうですと答えるバカな子供がいたら、その子の顔を見に行きたいと思う。当然ながら「初めて…」と決まり悪い私はボソッと言った。幸子さんがその言葉を信用したかどうかは分からないが、それ以上追及されることはなかった。そして幸子の言葉は続いた「あーいうのから、不良になるとだけんね。気をつけんといかんよ」。分からなかった。なぜに不良になるのかも分からないし、幸子さんの脳の回路も分からない。ただ、私のSM本の経歴はここで終焉を迎えたことは確かだ。特に好きというわけではなく、私の知らない世界に陶酔していただけなので、特にまた見たいとも思わなかった。それよりも幸子さんの言葉の方が幼い私に人生の不思議な一面を感じさせた。あの手の本を読むと不良の始まりになる。不良とは一体何。幸子さんの言いたいことは、これ以上読むなということなんだろうけど、不良の始まりって一体どういうことなの? そんな考えが頭を渦巻いている時に幸子さんからもう一言出てきた。「おとうさんには、黙っとくから」おー、そうだそうだ。それはとても大切なことだ。ありがとう幸子さん。こんなこと父に知れたら、私は奈落の底からさらにマグマ地帯よりも深淵に落とされ地獄の業火を毎日浴びることになる。幸子さんに後光が差して見えた。


帰宅したのちの幸子さんは、特にいつもと変わらない様子だったが、私は恥の塊に自分のことを感じていた。時代が変わり現代となってはこうやってパソコンやスマホが流通し、情報は個人化することに特化しているように思う。ネット上にはあふれんばかりのその手の動画もあるらしい。今の私には特に見たいという欲求もない。あの頃の私にとってあの雑誌は秘密の花園だったからこそ、逃げ込む価値のある存在だった。たとえ咲いている花が毒花ばかりだったとしても。スーパーでの楽しみは、元来のものに戻った。何に使うか分からないものを手にとって想像を膨らませていた。一度熊手がミニマムになったような形でステンレス製の目の細かい櫛を見つけて、これは人形の髪の毛を梳くものなのだろうかなど考えつつ自分の髪の毛を梳かしてみた。地肌に触れると爽快な痛いとギリギリ言わないくらいの刺激が何とも心地よい。当時からお風呂嫌いだった私は、髪の毛も自分が耐えられる限界まで洗わなかったので、そんな刺激はとても気持ち良かった。これは素晴らしいものではないかと思い値段を見たら、かなり安い。これなら私のお小遣い(当時一日50円もらっていた)に毛が生えたくらいで買える。幸子さんに頼んで買ってもらおうと、顔を上げ、幸子さんを探した。


「これ買っていいかな?」私は普通のトーンで聞いた。幸子さんは、一瞬だけ買い物する主婦という顔をしていたが、すぐに何か別の動物みたいに変わってしまった。思い出すに、私は人が怒っている時の顔を見ないのか、見たくないのか、それとも覚えられないのか、覚えようとしたくないのか、何にしても記憶にない。人の顔が怒っている時の顔を後々思い出そうとすると、顔の真ん中にハテナのマークが大きく描いてある。幼い頃から怒られるということに対して許容しなければならない環境からそのような自分を作り出したのか、人間とはとても良くできた生物だと思うが、その時の幸子さんの顔にも今となっては、ハテナマークがついている。「なんば、持っととね! そぎゃんとは要らん!」幸子さんは、そのステンレスでできた熊手の小さいものを陳列棚に戻し、私の手を引いて帰途についた。日曜日の買い物の際、行きは二人とも自転車に乗るが、帰りは押しながらというのが日常だった。重いスーパーのビニール袋が前かごと後ろカゴに入った状態で自転車に乗るのは危なかった。それだけの理由。だけど、私には、その時間は大切なひと時だった。どんなに変な母でも私にとって一人しかいない母である。彼女を独り占めできる時間。約15分くらいなものか。別に会話がなくても構わなかった。時々私が車道にはみ出していないかなどを確認してくれる母の姿が嬉しかった。例のミニ熊手だが、あれはシラミを好き取るための櫛であった。ただでさえ風呂嫌いの頭が臭う私がシラミ取りの熊手を喜んで手に持ってたら、あまりにも簡単にストーリーが出来上がってしまう。幸子さんは、それが嫌だったようだ。

 私のスーパーでのエロ本蜜月は、終焉を迎えたのだが、隣の目がカメレオンみたいなおじさんが私のために小積んでくれていた刺激物質は、未だに我が家を出たすぐ目の前にあった。

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