幼少期編13
そうしなければ、父の体に酒が回ったら最後、私はその場に正座させられ、娑婆というものは一体どんなものなのかという話を延々2時間聞かされることになるのだ。その際、少しでも彼の気にくわない態度をとれば私は、「オナゴのくせに」などという言葉を投げられた。できるだけ彼の勘に触らないようにしていても、時には私もいい子ちゃんばかりでは居られなく、貧乏の極致であった我が家で唯一私が手をつけやすい金があった。元々ナッツが入っていたガンガンに10円玉や昔の硬貨がそこに入れてあった。私はこのくらいならわからないだろうという枚数をそこから抜き出して使った。一度やれば、それはタバコと同じで習慣化していく。いつしか、ガンガンの中には、旧硬貨しか無くなってしまった。
ある日、父がいつもよりももっと恐ろしい顔で「お前は、いつから泥棒になってしまったとか」と私を殴った。私は、子供ながらに嘘をついた。取ってません。そんなの誰にも通じない嘘なのは百も承知だが、取りましたなんて最初っからいう人間なんているのだろうか。その間、母幸子さんは、「確か、60枚くらい入れとったもんね」とガンガンの中に指を突っ込んで確認していた。
父は、「お前は、もう犯罪者とぞ。もう引き返せん。お前は人間のなりそこないた」。その日から私は人ではなくなり、この家からも必要とされない人間となり、「なりそこない」という存在になった。
そんな環境にあって、母が飲みに出かける日はことさら早く帰宅する父であるのだが、私に向かってしきりに早く寝ろという。初めは、なんで? と聞き返していたが、寝ろ寝ろの一点張りなので、これ以上立ち向かうとまた暴言の嵐が降ってくると思い、寝た。あくる朝、普通に起きてきた途端母が私をとっ捕まえて、話し始めた。ちょっとおかしかとよ。母幸子の話をそのまま書くと意味不明になるので、要約するとこうだ。22時半に帰ってきた母は、普通に家の鍵を開け、ノブを回して普通に引っ張ったら、ガクッと止まったという。みれば、チェーンがかけられている。母が遅く帰ってくるのは、誰もが知っていたことだ。何度かドアホンを鳴らしたが、社宅の廊下は響くので何度も鳴らせるものではない。ドアチェーンをいじってみたら、彼女の手が小さかったことが幸いして開いたというのだ。その朝、父は何もなかったように普通に過ごしていた。しかし、このことは、まだ終わらない。
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同じく母が飲み会に出かけていくと、会場になっている居酒屋の少し離れた席に、父が居たこともあった。会社の打ち上げで飲んでいる最中、母は父の視線を
背中に感じながら、なんとも居心地が悪い思いをしていた。飲み会というものには、2次回というものがつきもので母ももちろん誘われたが、後ろにいる父の存在がそれを阻んだ。どうして行かんとね? と聞かれても中々うまい言い訳は思い浮かばず、その場を濁したようにして帰途に着いた。家に帰ると父の嫌味が待っていた。「お前は、売女だろ? 今まで何ばしよったとや?」意味不明な彼の質問に母は、黙っていた。母は、父が何か言葉を発する時は、ほとんど口を挟むこともなかった。ただ、ただ、黙って残っている洗い物を片付けていた。沈黙の世界に茶碗が当たる音と水道の音だけが存在していた。
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でも、本当はそうではなかったのだろう。彼女の心の中にははち切れんばかりの父への言葉が詰まっていたのだ。それは、父がいない時間に私への愚痴として発散された。どこまでもダメオヤジでしかない父のことを悪く言う母に私は何度聞いたことだろう「お母さんは、どうして離婚しないの? あの人、絶対おかしいよ」。母からは、私と弟の存在があるから離婚という選択肢を選べないというものであった。母は、おそらく私と弟の存在がこの家族を成り立たせている正に鎹であるということを言いたかったのかもしれない。でも、当時の私には、母は私が生まれてきたから離婚を選ぶことができない。母から発せられる言葉は、私が存在することで母を不幸にしていると思わせるものであった。
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一度めの母の飲み会からの帰宅を阻むことが失敗した父は、また新たな手を考えてきた。とことんしつこい男だ。父の血が私の中にも流れていると思うと、今でこそ誇らしいが、血管をえぐり出して彼の因子を排出したい気持ちに駆られたものだ。彼は、また私たちを早々に寝かしつけたところで行動に移った。前回はチェーンの長さ分の間から母の手が入ったことから、彼はチェーンをビニール紐で内側に引っ張り、隙間をほとんどないものにした。流石に母の手がどんなに小さかろうとも、指も入らない。彼女は肩を落とし仕方なく駅前のビジネスホテルに泊まった。あまりにも恥ずかしすぎるのと、熊本駅は父の仕事場でもあり、そのホテルでも島添の名前は知れていたこともあり、偽名と適当な住所を書いた。朝、帰ってくると父の罵声が飛んだ。「お前は、どこに行っとったとや! 何しよったと? 誰と一緒だったと?」当時中学生だった私からしても、もう馬鹿以外の何者でもない。
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その言葉にも母は黙っていた。ネチネチと続く父の道理を超えたイジメは母を苛んでいく。そして、それは私にも及んだ。「お前もこいつの血が流れとる。女の血は汚なか。臭か」。そういう父の吐く息は歯周病とタバコの匂いが強かった。この父親の血が私のなかに流れていると思うとゾッとするのを通り越して、自分の存在が忌まわしいものに思えた。私は、父が言うようになりそこなってしまって、しかもこんな父の血を引いた忌まわしい存在。しかも、そんな邪悪な存在が母の選択肢を狭めていることを思うと、自分を亡き者にしたいという欲求が高まっていった。
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当時の父は生活費を10万円入れていた。給与明細は、退職する3ヶ月前まで母は見せてもらえなかった。彼が毎月の遊び代が30万を超えているなんて、想像もしたことがなかった。私の着替えは、相変わらず上下2枚であり、母は擦り切れた下着を着ていた。ただ、本を買いたいという私の欲求だけは、満たしてくれた。私は、熊本に引っ越してきてから、近所に住む西山ジイちゃんと呼ばれている老人と仲良くなった。当時の私には老人に感じていたが、多分その頃60そこそこ位の歳だったんだろう。私が上京した後の事件を思うとおそらくそのくらいの年齢だ。西山ジイちゃんとは、4歳から小学校2年生の頃までほぼ毎日遊んだ。ジイちゃんと直接遊ばなくても、ジイちゃんの家の目の前の道路が付近の子供達の遊び場であったから、必ずジイちゃんと絡むことになった。西山ジイちゃんは、もともと小学校の教員だったが、辞職して、どうやって生計を立ててたのかは、私は知らないが、熊本では屈指の共産党員であった。
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ジイちゃん家沿いの道路左右50メートルに渡って朱墨で書かれたプロパガンダの文言が壁画のようにその街道を埋め尽くしていた。たまに読んでみるが4歳の私には何を言いたいのかさっぱり理解できなかったが、文句言いたいことだけは感じられた。ジイちゃんの日課は、その文章を書くだけではなかった。ジイちゃんは、朝9時から17時まで町中聞こえるくらいの大音量でクラシック音楽を流した。一度ジイちゃんに「どうして、こんなに大きな音で音楽を流すの?」と尋ねた。西山ジイちゃんの応えた言葉は、今の私にも大きな影響を与え続けるものとなった。「美奈子ちゃん、音楽は人を変えるんだ。そうしたら、世界は変わるんだよ」。
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音楽が世界を変える? 当時小学一年生だった私にはその意味がよくわからなかったが、魔術を極めてきた今ならその意見に対して十二分に西山ジイちゃんと話せる自信がある。
その西山ジイちゃんから教わったことは、今の私の中に大きく存在している。まず、西山ジイちゃんの家には当時かなり珍しい人種の人たちが集まってきていた。ジイちゃんは、変人かもしれなかったけど、描く絵は素晴らしかったせいか画学生のお兄ちゃんが一時期居候していた。お兄ちゃんは女性のヌードを書いていて、私が「お兄ちゃんエッチな絵描いてる!」と言ったら、お兄ちゃんはただ、私の顔を見てごく普通に笑った。ジイちゃんが強烈な共産党員だったものだから、パトカーが来るのはいつもの光景だったけど、一番私にとって目新しい人種は、やはりすね毛がパンストの中で渦巻いている人だろう。彼? 彼女? がなぜ西山ジイちゃんのところに来ていたのかは知らないが、とにかくパンストの中のすね毛は渦巻いていた。そして出で立ちはグレタガルボを彷彿とさせる、憂いを満ちたものであった。その人にも私は尋ねた「どうしてすね毛が生えてるの?」グレタガルボは、微笑みをたたえながら「生えてくるからよ」と答えてくれた。その答えに私は妙に納得した。
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ジイちゃんから教わったのは、何も見ずに絵を描くことかな。他は勝手にじいちゃんの家にあるもので遊んでいた。ただ、ジイちゃんの家のトイレは、昔の列車にある銀色のトイレだったので、用を足すときだけは、家に帰った。2階には初版本ののらくろが置いてあって、カタカナ混じりの不思議な日本語と格闘しながらもそれに向き合った。だから、私の漫画本でビューはのらくろである。
じいちゃんから教わったものは、まだまだたくさんある。幼稚園の頃仲が良かった金岡貴子ちゃんと一緒にジイちゃんの家に遊びに行った時、じいちゃんは砂地に「自分の国旗を描きなさい」と言って私たちそれぞれに棒切れでその図を描かせた。私は日の丸、かーこちゃんは北朝鮮の国旗を描いた。じいちゃんんは話してくれた。「二人は仲がいい友達同士だ。だけど、国は違うんだよ」。そのかーこちゃんは小学校3年になる頃いつの間にか福岡の朝鮮学校に通うために引っ越して行った。
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かーこちゃんの家に行くとお父さんは病弱らしく、いつも寝ていた。確かお姉さんがいて、私の家では買えないウナ(かゆみ止めジェル)なんかを持ってたりして、うちよりも金持ちなんだと勝手に思ってた。でも、やっぱりかーこちゃんは北朝鮮の環境で生まれ育っているのがと心底感じたのは、家にトイレがなく、裏庭の適当なところで用を足すということである。かーこちゃんの家からもらった樽いっぱいの朝鮮漬けは、一度洗っても食べられないほど辛かった。他のお友達はかーこちゃんと遊ぶのを止められてたみたいだけど、うちにはそういうのはなかった。
かーこちゃんとは、それっきりでもう別れるのだと勝手に思っていて、突然の再会の日がやってくるなんて思ってもいなかった。本当に突然すぎて、私の対応はとてもまずいものになり、どうしようもなく私の感情をいつでも冷たくさせるワンシーンとなる。中学校3年生の時、私は受験勉強をしていた。弟はどこかに遊びに行っていて、両親ともに不在だったので私がドアのチャイムに出た。そこに、かーこちゃんが居た。「久しぶり」美人になったかーこちゃんが言った。私は、頭の中が何かショートしたような感覚になって、「うん、久しぶり」と言ってドアを閉めた。…。なぜなんだろう。どうしてあの時私は彼女を家に招き入れることができなかったのだろう。その想いは、今でも私を針の筵に座らせる。
あの時住所だけでも聞いておけば、そんなこと今更当時には戻れないのだから、悔やんでも悔やみきれない苦い思い出のまま私の中に存在し続けている。
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