幼少期編11
こんな感じで私は3歳の頃から電車での一人旅をすることがほぼ習慣化していた。なんとなく電車に一人で乗りたいと思うようになったのはこのことも一つの要因としてあるのだろう。現実逃避しながらもその先に待つ家庭で辛いことが待ちかまえていようとも、私にとって祖父母宅は安全圏であったことに変わりない。この習慣は元夫と同棲していた頃も続き、当時彼は私が浮気をしていると思っていたと後々裁判所で語ることになる。家を出してくれる時は、笑顔で行ってらっしゃいと送り出してくれていたのに、心の奥底にそんなものを抱えていたと思うとやりきれない気分になる。
話を私の子供の頃に戻そう。私は幼稚園の頃からいわゆる出来る子であった。ただ、父の転勤が続いたこともあり、彼の勤務駅が熊本駅に落ち着くまで私にしっかりとした友人ができることはなかった。にしても4歳で熊本に渡ったのでそれから先の友人たちとは、未だに仲良くさせてもらってるし、本当に友達には恵まれ、助けられてきた。私の宝であり、誇り以外の何物でもない。40年以上続く関係はこれから先も年数を重ねながらも途切れることはないであろう。私たちの関係は、心の奥深くから繋がっている。どんなに音信不通になろうとも数年の年月を重ねようとも、私たちの絆、絆と呼ぶのが軽く感じられるほどの友情は、永遠なのだ。熊本に引っ越してきて、父の転勤は落ち着き、熊本駅で彼は、管理局部門に配属された。ちょうど引っ越す前にいた土地で母は懐妊し私には弟ができた。
私が生まれた時、父は諸手を挙げて喜んでくれたが、弟が産まれるとことは変わってきた。
父は、男子である弟が生まれたということは、女である私は不要な人間だと5歳の私に毎日のように言い始めた。「お前は、もう要らん子。健一(弟の仮名)が島添の名前を継いでいくから、お前はいつでも居らんくなって良かとぞ」。そして当時国鉄は民営化の波にもまれており、父はちょうどその企業側と労働者の板挟み状態の位置にいた。どの人間を辞めさせるか、最終的に通告するのが彼の仕事であった。今となって考えれば、彼のストレスが相当なものであったということは想像を超えるものであっただろう。ただ、当時の私には、私は不要な人間であり、常に必要とされていない人間なのだという意識が芽生えるようになった。
父の非道な言動は、留まるところを知らないのか、日に日にエスカレートしていったように感じる。もしかすると、それは私の感覚がだんだんと成長していったことによるものかもしれない。彼は、私のことを名前で呼ばなかった。なんと呼ばれていたかと言えば夏は「黒豚」冬は「白豚」である。時々名前らしきもので呼ばれる時は「ナミコちゃーん」と酒臭い声で呼んだ。私はその呼びかけに答えたことは、記憶の中では一度もない。憎い父がつけてくれたものであっても私にとってこの「美奈子」という名前は、私自身を表すものであり、他の何者でもないという意識が私を頑なにさせていた。
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