幼少期編8

私が生まれた時、すでに貧乏の嵐は我が家を局地的に襲っていた。その嵐は、光栄なことに、この場所が居心地良いのか随分と長居してくれた。父は、酒飲みである。そして勘なしである。そしてチンピラである。方や母は、世間知らずである。自分に悪いことが起こるなんて思いもしない。嫌なことからは目を背けるという処世術で世の中を渡ってきた。そんな二人の間に私は望んで望まれて生まれてきた。父も母も私の誕生を喜んでくれたし、父方の祖母は身体中毛だらけの私を見て「あー、毛蟹んごたる。うちの孫孫」とニコニコしながら帰って行った。私は、父母の初めての子供として祝福されていた。ただ、そこに貧乏という嵐が渦巻いていただけなのだ。人間は、自らが置かれた環境を普通の物だと思うものだ。比較対象が現れるまでそれは続くのだ。今あなたが思っている普通も外の国では、非常識なことになるのかもしれない。何にしても特別であって普通のことである。天は地であり、生は死である。多少なんて誰にもわからない尺度であるように。果たして私の普通の生活は幕をあけることになる。ごく一般的な普通の生活だ。どの一瞬を思い返すのも恐ろしい普通すぎる生活。それが私を作り上げてくれた。貧乏話は、一生話しても話し尽くせないのであるが、そのために私はどこから話していいのか分からない。私は、普通の環境で育ったのだから。私の普通の生活において、当時は紙オムツというものは存在していないので布オムツである。生後2ヶ月まで1日当たりのおむつ替えの平均回数は約20回と言われている。その替えのオムツがあっただけで私は幸せ者なのだ。果報者である。私にちょっとだけ足りなかったのは、オムツカバーだ。でもこれにしても、一枚は持っていた。だが、替えのカバーがないために、私は1日のほとんどの時間をオムツカバー無しで、布オムツを引きずりながら生活していた。


幼いというのは、疑うことを知らない。

私は、自分の家庭環境をごく当たり前のものだと思って成長していった。熊本市内に引っ越す4歳まで通っていた幼稚園で催された会において、原稿用紙2枚を暗唱し大人たちの称賛を浴びたりもしていたが、それも記憶野遠いかすかな風景としてうっすらと見えているのみだ。私の記憶にあまりにも鮮烈に残っているというより、継続して刷り込まれたが故の3つの要素がある。

金、嘘、命。

この3つが私の人生哲学を支え続けることになる。

赤裸々に書いていくので途中気分が悪くなる人も少なからずいることと思う。そんな時は、無理に読み進めないでほしい。つまみ食いしながらでも島添美奈子という人間を知ってもらえれば本望だ。

金についてのエピソード、ここまで書いて私の中で終わるのだろうかという不安がよぎるが、どうせ全てを書きつくすことなどできないのだから、思い出せるがまま書くだけ書いてみるわ。

私の家には、生活費というものが存在しなかった。正確に言えば、私が小学校に上がるくらいまでの期間、父が家に入れていたお金はゼロであった。小学校の頃は、確か5万円だったと思う。人間とは悲しい生き物で金がなければ、人としての生活が成り立たないようになっている。つまり、当時赤子という無力の巨人であった私は、人間としての危機にさらされていた。オムツカバーがないのなら、もちろん着替えもほとんどない。ただ、洋裁が得意な母方のお姉様方が作ってくれていたようだ。だから、私はオムツには事欠かない。でも、特殊素材のオムツカバーは一枚しかなかった。生まれてしばらく私は、乳しか飲めない存在であったので、母の母乳を嫌という程飲んで育っていった。だが、まだ脳が発達していない私にどんな離乳食が与えられていたのかは、母の言うところにしか詳細を知る者がいないので、この世で一番信用ならない言葉を発する生き物である母に聞いたところ、おかゆからご飯を味噌汁の中に入れたものであった。ということである。まぁ、そんなにズレてもいなさそうなので、良しとしよう。しばらくすると、私にも歯が生えてきたりお腹が空いたという意識を言葉で示すようになる。3歳からの私のメインのおやつはお椀にそんなに多くなく盛られたマヨネーズであった。2歳半の頃くらいから母は、また仕事に出かけた。私は近所に子供が住んでいなかったこともあり、一人棒っ切れで地面に絵を描いて遊んでいた。世の中にクレヨンというものが存在するのを知ったのは、幼稚園に入ってからのことである。母は、私がおとなしく聞き分けが良かった子供であったので、仕事を2つ掛け持ちしていた。それと別に内職の仕事を3つ抱えていた。母が仕事をしなくなったのは、ここ5年くらいの話である。今は、私の娘の乳母役としてしっかりお世話になりっぱなしなので、今の仕事はそれにあたるのかもしれない。私のお気に入りのおもちゃは、母の丸い刺繍枠だった。それを輪投げのようにしたり、頭にかぶったりしていた。当時の写真にさも嬉しそうな私の姿があるので、見たいときには見れる。その度に、刺繍枠をかぶって喜んでいる私を発見する。当時の我が家には風呂がなかった。タワシを買うお金もなかった。そして、その生活を甘んじて受け入れている母と、当然のごとく提供している父がいた。


私が記憶している母の姿は、仕事に出かけている。足踏みミシンで内職のショーツにレースをつけている。ご飯を作っている。他にも様々あるが時間としてはこの3つで彼女の生活の時間がほぼ埋まってしまうことには変わらない。一度だけ母が私にワンピースを縫ってくれたことがあった。黄色い小さなアヒルの総柄でへちゃむくれな私には似合わなかったかもしれないが、私は好んでそのワンピースを着た。ほつれては縫い直してもらい、成長し頭が入らなくなる限界まで着用していた。彼女の愛情がその服には詰まっていた。それを着るたび、私は自分が陥っている蟻地獄から救われるような気がしていた。擦り切れようともそのワンピースの魔法が衰えることはなかった。ただ、私の体は着実に成長し、ワンピースを着ることはできなくなった。私が必要とする母の愛情が枯渇していることを示してくれているかのように。生活費がどうしてそこまで困窮していたのか。答えは簡単である。父が飲んでしまうのだ。父の給料は全て自分が外で飲むために使われ、さらに金が無くなると家に同僚や後輩たちを呼んで酒盛りをした。酒を飲まない父は、口数が多くはないが、酒が入って、来客が思いがけず先に帰った時は、地獄絵図が繰り広げられる。パーティはこれからなのだ。彼のストレスの矛先は、母と私に向かった。

社会性の強い父は、家の中で君臨することで自分自身の精神の安定を図っていた。ただ、器が小さい父はいざとなると役に立たない。急にオドオドし、体が硬直するようで、何もできなくなる。急変した現実に対応できないと言った方が正しいかな。理知的に考えた末での判断は、そんなに変なものでもなかったし。今でこそ飲酒運転は厳しく取り締まられているが、父がまだ30から50歳代の頃までは、そうでもなかったこともあり、彼は平気で飲酒運転をしていた。飲酒運転に至っては、二つほどとんでもないセンテンスがあるのだが、これは省きたい。彼の社会人生を終わらせることもできる破壊力を持った記憶だ。もしこれが私の思い違いであるならば、さらにとんでもないことになるので割愛する。人命に関わること、とだけ記しておこう。察しの良い方は分かってくださるだろう。彼の運転技術は、とても上手とは言えなく下手の極致のちょっと手前くらいだ。でも、自分の運転は上手いと思っている。上手いと思っている輩が一番タチが悪いのはいつものことであるのだが、彼の場合、そこにとんでもない性格の荒さが加わる。そして、酒の力だ。酒が彼のミジンコみたいな肝をカニくらいまでは大きくしていた。決まって、呑んだくれて運転して帰ってくる時、何もなければそれでいい。神様ありがとうお休みなさいだ。だが、彼も公道を走っている時は少しばかり丁寧に走っているらしく、そこまで無理な運転はしなかったようだ。つまり、家の車庫や私道に入ってくるとその緊張の糸は彼のズボンのポケットにでもしまわれるのか、すっかり姿を見せなくなる。父の車庫入れの音がする。帰ってきたんだと、私の口からいつものため息が出る。身体中がめんどくさいという臭気を私は放っていただろう。それ以上に酒臭いあの男がズカズカと上がってくる。上がってこない。まだ車庫入れに手間取っているのだ。エンジンをふかす音が聞こえる。何回目か彼がアクセルを踏んだだろうその次の瞬間ガシャッ! となんとも威勢のいい音が聞こえた。私は本を読みながら、「あぁあ、やっちゃった」と思いつつなんとなく嬉しかった。でもことはそれで終わらない。私の父だ。終わるわけないではないか!

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