幼少期編6

父が母と出会うまで一体どんな生活をしていたのか、やはり私は詳しくは知らない。たまに彼の口から出てくる小さなピースを組み立てていくと多分このような時間を過ごしていたのではないかと思う。ただ、こうやって書こうとすると彼の時間のピースがあまりにも断片的であることに気づかされる。

 長兄と10歳はなれて生まれてきた父は、ほぼ丁稚状態と同じだったようだ。祖父が毎日飲む酒を買い出しに行くのも彼の日課であったし、先述した飯炊きにしてもそうだ。このことは、常に毎日のことであるからして、父の日々のスケジュールは島添家に縛られていたと言っても過言ではないだろう。本当に芯から貧乏生活だったのを私が感じるのは、彼の変な草への知識だ。この草は毎日食べていたとか、この植物は花に毒があるとか、どうもその辺の草が毎日のおかずに上がっていたようだ。そして、その草の種類を嗅ぎ分ける父が野草採りも担当していたのだろう。父が葉物の野菜をことごとく嫌うのは、そんなところに理由があるのかもしれない。面白いほどに野菜を食べない父が便秘になるのは当たり前で、その解消法としてセンナを常飲するのは私は馬鹿としか思えない。彼の特技は、水泳だった。まともに水泳を習ったこともないのにインターハイの選手として出場するのもすごいと思うが、さらに彼は当時の大会新記録まで叩き出しているのだ。その泳ぎっぷりは、島添の勘無し泳法と呼ばれていたのだが、どうも息継ぎをしないらしいのだ。もしかすると、息継ぎをすることができなかったのかもしれない。地元で通うにはまあ問題のない高校を卒業し、彼は進学など考える余地もなく職を探すことになるのであるが、当時その辺りでは国鉄に入社するのが一番の出世街道であったこともあり、彼も望んで行った。島添家は祖父、長兄、父、長兄の息子、他にも居たと思うが、国鉄一家である。そんな父であったがすんなり国鉄に入社できたわけではない。待機期間というものがあったようで、入社するまで彼は食い口を探さねばならなかった。私が知っているのは、醤油屋だけだが、他にも2つ3つ仕事を転々としていたらしい。ここの年月彼が何をしていたのか本当に私は知らない。まだ、父がボケないうちに聞いておいた方が良さそうだ。そして、2年の待機期間を経て彼はようやく念願の国鉄に入社することとなった。


現在のJRとなる国鉄は、正式名称日本国有鉄道というだけあって、いわゆる親方日の丸というお役所の現場仕事みたいなものだ。ただ、高度成長期の延長線上にある中で国営企業の給料はさほど良かったわけではない。我が家を除いた家庭での話であるが、それにしても生活に困るようなことはなかったろう。父が入社したての頃は、まだSLが走っており彼は一番有名どころのデゴイチと呼ばれるD51(貨物系、最も強いのだ)ではなく、C系列の人を運ぶ車輌区に配属となる。当時の写真が手元にあるが、果たして見れた姿ではない。我が実の父ながら、この姿で仕事をしてもいいのかどうか私でもかなり不安になる出で立ちである。どうでもいいことであるが、もし私が同じ年頃であったら、絶対に好きにならないタイプの男性のカテゴリーに所属している。とにかくどう説明していいものか、私の表現力のなさに歯がゆさを覚えるばかりであるが、常識を超えていることは確かだ。拙いながらも、その父と呼ぶにはあまりにも恥ずかしい姿を記述してみようと思う。

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