幼少期編4

長兄以外は全て女という女傑の家庭に生まれた母であるが、母がおそらく小学生くらいの頃に長兄は結婚し、同居を始めた。私の記憶にある祖父はとてもおとなしい人であったが、やはり闘鶏を買うほどの気質は本物で、かなりの癇癪持ちでもあった。ただ、それも彼がスモン病という当時村八分になるような病を持っていたからなのかもしれない。少なくとも私の記憶では、そこに居る人という存在であった。そうそう、ただ一つ祖父と私との共通点があったのだ。祖父は、無類の黒砂糖好きであったらしく、甕で黒砂糖を行商人から購入していた。そしてそれを誰にも見つからないようにどこかに隠していた。ただ、甘いのも好きというのは恐ろしいもので、いわゆる妙な勘が働くのだ。私は祖父が隠している黒砂糖のありかを一発でいつも見つけ、祖母に食べていいか? と一応お伺いを立てたのち、相当大ぶりな黒砂糖を縁側でガリガリ食べていた。

ジイちゃんもこの味が好きなんだなぁと思いつつ、味の濃い真っ黒で硬い岩に苔が生えたような物体にかじりついたり、舌の感覚がおかしくなるまで舐めていた。太陽は容赦なく田畑を照りつけていたが、縁側は涼やかな風が通り抜けていく。私は、口の周りを黒砂糖でベトベトにしたままそこで昼寝をした。

真夏の太陽は、どこにいるのかわからないセミの声と祖母が植えたひまわりをこよなく愛しているようで、私は夏に囲まれつつその空気に含まれた不純物の含まれない美しいシャンパングラスの中にいる細かな一筋の泡になった気分になれた。でも、口の周りは幸せなベトベトであることに変わりない。


そんな特殊事情も含みながらも、平和極まるような母方の祖母宅だったが、そのように思えたのは、私が母を含めその付近の方言が理解できなかったからなのかもしれない。一言で九州と言ってもその方言は多岐にわたり、私は母方の祖母宅では居候の外人だった。まあ、私の言いたいことは通じるので謎の多い地方に来た隣人と言った方が近いのかもしれない。とにかく彼らが喋っている内容を私に理解できたのは、10分の1くらいだったと思う。わからない方が多いので、もしかしたら、100分の1だったのかもしれない。特に長兄の言葉はわからなかった。方言も酷かったのだが吃音が酷くて聞き取れなかった。何度もなんども聞き返すのも悪くて、適当にニコニコしてやり過ごした。長兄は、寡黙な人だったこともあり、彼は何が楽しいのかはさっぱり私にはわからなかった。そんな彼が奥さんに毎日のようにDVを繰り広げていßたことなど幼い私の知る由もなかった。母方の裏の顔は、私が成長するとともに少しずつ玉ねぎの皮をむくように明らかになっていった。長兄の吃音も酷かったのだが、彼は自分の辛さとか痛みなどを表に出すことがとても苦手だったようで、高校生の頃の私は彼のこんな逸話を友人に笑いながら話した。彼は田んぼの時期は農家、休閑期の頃は製材所に仕事に行くという兼業農家だった。農協で催行された京都旅行に彼は出かけて行った。そして、4泊の予定だったのに2泊目の夜帰宅してきた。彼は脱腸であったにも関わらず、肛門から出てくる大腸をベルトで押さえつけてズボンを履き、そのまま観光に出かけたのだ。帰宅後すぐに入院となりことなきを得たのであるが、下手したら感染症から死に至ったかもしれない。そんなことを押してでも彼はベルトで大腸を押さえ込んで京都に出かけたのだ。私は、この話を腹を抱えながら友人たちに話して聞かせた。当時の友人たちがどれだけこの話を覚えているかはさておき、私は何回も話したのでしっかりと記憶している。ただ、

今になって考えてみると、彼はなぜにそこまでして観光に行きたかったのか。そんなに京都が好きだったのか? 私が知る限り彼は格闘技好きではあったが京都に反応したことは一度もなかった。そこまでして観光に出かける理由が彼にはあったのだ。


これは、数年前に母から私に明かされた事実である。彼女は、大事なことは子供や周囲に知られないようにするということを美徳に思っているのか、どうでもいいこと以外、実家のことについては話してくれていなかった。聞かなければ私も知らないので、そんなことがあったなんて想像も及ばなかった。母の長兄であるが、7人兄弟の長男になるのだが他に男兄弟は居ない。他の6人は全員女だ。母方の祖母は、身内には優しかった。他人には恐ろしく厳しかった。なので、祖母は私にも優しかった。一度納屋にある脱穀機を触ろうとした時に「指がちぎれる」と叱られたとき以外は、何も言われた記憶がない。そんな祖母は跡取りである長兄に対して時代もあるのだろうが一線を引いた付き合い方をしているように私には見えた。実際、他の家においても長男は特別な存在であって、他は呼び捨てでも長男だけはさん付けで呼ばれたし、おかずが一品多いなどはごく当たり前の頃である。そんな長男である叔父の吃音は、本当に酷くて何も聞き取れないほどなのだが、私たちが帰省している時は何かしら一生懸命話そうとしていた。彼は、とても楽しそうであった。


幼い頃から私は、幾度となく母に叔父の吃音が酷くて何言ってるかさっぱりわからないと愚痴のような質問のような言葉を投げかけていた。どうして他の家族が叔父の言葉を理解しているのか、私には到底想像がつかなかった。母からの答えは「生まれつきだけんね。仕方なか。可愛そかね」とかそんなものだったと記憶している。話が前後するが、祖父は父方の祖父と同じく77歳でこの世を後にした。祖母(私と誕生日が同じである)も父方の祖母と同じく92歳まで生きた。別に年齢に特化したいわけではないが、私の父はそんな両祖父の影響を受けてか、自分も77歳で死ぬと勝手に思い込んでいる。現在が確か71歳なので残すところ6年というわけだ。父のことは後ほど嫌という程詳しく書かなければ、私の気が済まないのでここでは書かない。とにかく、祖母は92歳にて翌朝目覚めてこなかったという極めて静かな死を迎えた。祖母が死んで3年ほど経った頃だろうか、極めてごく最近になって、母の口から出てきた言葉で私は愕然とすることになるなんて、思いもしなかった。母の実家には一体どれだけの秘密があるのか、まだ計り知れないものがある。祖母の通夜に駆けつけた時には、初めて2階が存在することを知った。それも結構な広さである。従兄弟に至っては、これもまた様々な逸話が付いて回る。私が成長するたび、私の人生の足かせが軽くなるごとに母は私に伝えてくれていた、とは到底思えない。彼女がそこまで人様の心の動きを感じ取りながら行動する動物でないことは、私が一番知っているはずだ。そんな彼女から、私は想像もしていなかった事実を明らかにされた。おみしゃん(仮名)は、ばあちゃんの本当の子供じゃなかけんね。

「はぁ????」


私の中で今まで思い込んでいた母方の家庭像が音を立てて壊れていく。

特別話したそうにもない母をとっ捕まえて、私は家庭相関図を母に尋ねた。母は、渋々ながらも私の性格から納得するまで聞いてくることをわかってか、渋々話し出した。

 元々祖父は、別の女性と結婚し一男、おみしゃんをもうけたが、妻は、体が弱かったこともあり、急逝する。その後添えとして据えられたのが祖母である。そして、その当時は珍しくもなかったことというのだが、祖母は先妻の妹になるという。その後、祖母は子供を6人産むがそのうちの2人は幼い頃に亡くなった。二人とも男子であった。つまり、おみしゃんだけが母方の男子として存在することとなった。祖父がまだ若い頃は人間としても機能していたし、家族の輪の中に入っていたから女5人の中に男2人。だが、祖父は徐々にスモン病に蝕まれほぼ寝たきり状態となる。祖母は、家を支えなければならないということもあり、田畑の管理から、家の改修闘鶏の鳥かごまで自分で作った。できることは、すべて自分でやる人だった。私の中には、そんな祖母の血が色濃く残っているのであろう。一人で家の采配を取る祖母と4人の妹に囲まれて、異分子であるおみしゃんは祖母に育てられた。育てられたという言葉はそぐっていないかもしれない。絶えず心身ともに鍛えられ続けながら、さらには肩身がせまい思いをしていたようである。そのストレスのはけ口が彼の妻になるのだ。おばさんは、これまた田舎ということもあり、実家のことは祖母宅に筒抜け状態で、身の置き所がなかったようだ。妹4人にどのように扱われていたのか、私が想像しうるところではない。ただ、妹4人と言っても、一番下の娘である私の母は、独特な感覚を持っていたというか、今でも計り知れない彼女の言動に振り回される私なのだが、姉たちとはある程度の距離感を持って自分の世界で生きていたこともあり、叔母は母にも私にも優しかった。優しかったが、執拗におみしゃんから今でいうDVを受けていた。だが、今はそのような行為もないに違いない。

彼の吃音は、祖母の死とともにすっかりと無くなってしまった。


おみしゃんに対して祖母がどのような言動で接していたのか、具体的に私は知らない。私が祖母宅にいる時は祖母もおみしゃんもニコニコしていた。ともに食卓についていたが、おみしゃんが祖母に対して萎縮している姿など思い出せない。にしても祖母が死んでからおみしゃんの吃音がなくなったということは、相当なストレスがなくなったのであろう。

それはそれでいい。そんな環境の中母は育っていった。

 母は7人兄弟の末っ子として、そしておみしゃんと年が離れていたので、おみしゃんの子供である姪と甥の姉のような立場で育っていく。




母の祖父であるが、前述したようにスモン病に侵されていた。私が知っている祖父の姿は、背中が反り返りながらも田畑に出て行くまでに回復しているものであったが、母がまだ女学生出会った頃はそうでなかった。

祖父は、当時スモン病自体が奇病とされていたこともあり、外に出ることはなかった。そして、その原因が判明するまで処置の方法も分からないということもあり、ただただ座敷に寝ているだけの生活であった。スモン病自体が一体どんなものであるかは、私はよく知らない。比較的好奇心が強い私ではあるが、そのことについては調べようと思ったこともない。目の前にそのものが存在すると、意外とそんなものなのか。その祖父がまだ闘病真っ只中の頃、彼はほんの少しの刺激にも激痛を覚えるという状態であった。それは、微細な振動でもあり音でもあった。母の実家は、人が住んでいるのかどうかもわからないほどにひっそりとした生活を余儀なくされていた。母曰く、廊下を歩く時はすり足でなくてはならない。話すときには、耳打ちするようなものでないといけない。ということである。まだ、女子高生であれば、いわゆる箸が転んでもバカ笑いする年頃である。そんな頃に鬱屈したそんな生活は彼女に一体どんな影響を与えたのか、私には想像がつかない。しかしながら、彼女は女子学生として卒業年を迎え、さらに進学するべく短大に推薦入学することになっていた。今の私からしたら、母の学習能力は、蟻にも及ばないように感じるのだが、そうでもなさそうだ。進学するはずであった母であるが、何を思ったのか、ある日「専門学校に入学することにしました」と担任に告げた。



当然彼女は校長室に呼び出され、推薦を回避するということは、学校自体の信用問題にも関わることなど云々を聞かされ、考えを改められるように促された。私もそれがごく普通のことであると思う。だが、母は違っていた。「なんとなく、このまま学校に進むよりも専門学校の方がいい気がするので、専門学校に行きます」。そう言って、彼女は専門学校に行くという道を選んだ。その後の彼女が通っていた、いわゆるお嬢様学校と呼ばれた女子校がどのような道を歩んだのかは、母も私も知らない。

母はおそらくそんな後ろめたさは一切感じず、専門学校をめでたく卒業し、当時稼ぎ頭と言われる和文タイピストになった。管理職のおっさん達よりも報酬が高い彼女達は、周囲からもチヤホヤされていた。そして、あのど田舎から彼女は毎日博多に出勤するというとても刺激的な毎日を過ごし、おかげでまつ毛はどんどん伸び、さらには伸びるだけに留まるところを知らず、つけまつげを2枚重ねるまでになる。「幸子(母の仮名)さんが瞬きすると台風が起きる」。そのくらいのまつ毛。でも、私は当時の彼女の写真は頭目に写っているものしか知らない。ぜひとも顔のアップを拝見したい。ただ、幼心に覚えているのは、彼女のアイライナーの使い方の神業のような素晴らしさであった。あれは、芸術的な動きだ。有名化粧品ブランドのコマーシャルにでも使えそうなほど彼女の手さばきは美しかった。ただ、私は、顔が美しかったとは、一言も言ってない。でも、彼女は、モテた。正確にはモテたらしい。まぁ、あの顔立ちで巨乳で小柄で天然ボケな彼女は確かに男性受けはいい方であろう。その母がなぜにあの野獣のような父と結婚したのか。私は、常に疑問を抱えていた。何度となく彼女に「なぜ父と結婚したのか」と聞いても答えてくれなかった。ただ、「お見合いは、そんなもんよ」というだけだった。私も知恵がついてくると、質問を本人にではなく他の人に尋ねるという技が使えるようになってきた。

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