幼少期編3

父は、長男の性格もよくわかっていたし、祖母の面倒を見てもらっているということもあって、何も言わずに書類にサインをした。

ただ、帰宅してからは、私と弟がいる部屋で酒を飲みながらその話を何度も繰り返す。何度も何度も繰り返す。

酒の力を借りて自分の体の中から溢れる父の金に対する思い、長兄に対する不信感や他の何かを垂れ流していた。

川の上流にいる者は、下流にいる人間の気持ちはわからないのであろう。

私は、確実に彼が垂れ流した長兄に対する彼の思いや私には想像もつかない父の感情を全身で受け止めていた。

ちなみに父方母方の両祖父ともには体が弱かったこともあってか戦争に行くことはなかったそうである。

 母の育ちというのは、おしゃべり好きな親戚に囲まれた父の家族と違い、酒は正月と盆に口をつける程度の家であったこともあってか、母の生い立ちというのを知ったのは、ここ数年である。

 母は、7人兄妹の一番末っ子として生まれた。祖父は米を作って生計を立てていたが、庭に闘鶏を飼っていることからもどこか攻撃性を持った性格だったのであろうと推測する。どうして私が母方の祖父について性格などが直接わかりえなかったかというと、彼の病気に由来するところが大きいと思われる。父方の祖父は、笑いこそしなかったがコタツの中にいたし、風呂が居間を抜けていかなければならないという家の構造もあって、彼の褌姿を目の当たりにすることも毎日のことであった。言葉は少なかったが、私が中学1年生(祖父享年77歳)何かしら喋っていたことはうっすらとではあるが覚えている。母方の祖父は父方と同じ77歳で死ぬのだが母が末っ子ということもあり、私が小学3年生の頃に死んだ。確かそのくらいだったと思う。母は、末っ子であるからして俗に同じような状況で育ったと聞いていた。いわゆる甘えさせられながら育ったという状況だ。兄妹の一番上である長男とは15歳近く歳が離れているはずだ。その母の親である祖父は、私の記憶している頃にはすでにスモン病という現在で言うところの薬害エイズに侵されていた。

 幼い頃の私は意味がわからないにしても、母方の祖父の体が悪いというかおかしいというのを認識していた。おそらく誰が見ても健康体でないことは明らかだった。彼の後ろに反り曲がりいつも胸を張りすぎているような姿勢は、それを隠すことを許さなかった。私が生まれた頃はすでにスモン病も全国的に認知され、家の中に隠れて暮らすこともなかったので、体調がいい日には田んぼに出ていた。父方の家も相当な田舎であるが、母方の家はもっと閉鎖的な小さな村で隣村の話もその日のうちに届くような刺激のない土地である。何年か前に世界的なピアノ奏者になる女の子を描いた漫画がドラマ化されていたが、彼女の出身は明らかに此処である。放映されるただの堤防も私にとっては、特定できる見慣れた風景であった。


そんなど田舎で母は特別裕福とも貧乏とも言えない普通の農家において末っ子として甘やかされお嬢さんがそのまま大人になったのだと、数年前まで私は思い込んでいた。人生とは面白いというか何もない道を用意されることがないものだ。ただ、人生は彼女を特別扱いした。少しだけ違ったのは、あらゆる意味でスペシャルなフルコースな特別料理を母は毎日普段の食事だと思い込んできたことだ。母の性格が遺伝からのものなのか、環境因子が強いのかは、その筋の専門家でない私には分かり得ないことであるし、ここではどっちだって構わない話だ。

 先にも書いたように母の父である人は、スモン病というものに侵されていた。そのことは幼い頃から私の知るところでもある。背骨の異常からか祖父の食事をする場所は昔の家の土間からの小上がりになったところであったし、真夏にも分厚いラクダの毛の靴下を欠かさなかった。子供ながらに病人の発する特有の臭いを私は感じていた。幼い頃からの記憶において母方の実家で、もう一つ少しばかり変わっていることがあった。それは、母の一番近い姉がちょっと変わった人であるということだ。彼女の本格的な精神錯乱は、ちょうど母の結婚式の朝であった。彼女は、その日の朝発狂し病院に運ばれていった。その日から彼女はキチガイと呼ばれるようになった。仮に彼女の名前をまる子姉さんと呼ぶことにすれば、まる子姉さんは仕事もしていなかったので、私が母方の祖父母宅に口減らしに疎開される時もいつでも家に居た。日頃から刺激のない静かな漁港と田んぼが広がる土地において、私のような小さな者が現れるのも彼女にとっては、嬉しい出来事であったようだ。そのまる子姉さんは、私が祖父母宅に滞在中幾度となく尋ねた。「お父さんとお母さんとどっちが好きね?」私は、その時々で適当に答えるのであるが、まる子姉さんの質問は私が真実を語るまで終わることはなく、いつも最後には「両方嫌い」という言葉を私に吐露させた。私が幼い頃から抱いていた父母への憎しみや悲しみをまる子姉さんが感じ取っていたのかは、まる子姉さんが施設に収容され死んでしまった今となっては確認することもできない。まあ、当時確認できたとしてもまともな答えが返ってきたとは思えないが。


ただ、まる子姉さんについて思い起こしてみると集落の人たちはまる子姉さんのことをキチガイだと言って彼女の言う言葉に耳を貸さないか、笑いのタネにするくらいだったが、優しい人だった。ただ、まる子姉さんは自分が思ったことを相手がどう思うとか所謂気を使うことがなく、自分の世界の中を自由に生きていただけなのだ。だからと言って、彼女の人生が毎日バラ色なわけではない。自分が感じ得て行動していることを周囲に理解されない、共感を得ることができないという痛烈な痛みは常にまる子姉さんを襲っていたに違いない。だからか、まる子姉さんは子供であった頃の私や10代後半の擦り切れた心を持って母方の祖母宅を訪ねた時にも私の行動に対して質問をすることはなかった。ふらっと出て行く時も「ご飯どきには帰ってこやんよ」と言うだけだった。書きながら思い出したことだが、彼女がリフレインさせる質問項目にどんな仕事に就きたいのか? というものがあった。今考えると、定職にも就いていなく家業を手伝うでもなかった彼女にとって仕事というのは特別なことだったのかもしれない。そんなまる子姉さんが私の顔を見ながら言った「美奈子ちゃんは、お金持ちになる顔をしてるよ」。幼い頃の私にはよく分からなかったが、ド貧乏の極致を味わっていると思い込んでいた私としては、その言葉にちょっとした光を見出していた。これから先お金に苦しむことになるよ、なんて言われてた日には私はその時以上のお金のことを考えることになると思うだけで、頭がパーチクリンになっていたかもしれない。そんな一種神がかっていたまる子姉さんは、おそらくキリスト教の一派に属していたようで、時々その系統の人たちが祖母宅を訪れた。なんか知らんが祝福というものを与えに来てくれてたのだろう。まる子姉さんの寝室の天井にはキリストを描いたポスターが貼られていた。

 まる子姉さんの話もこの辺で終わろうと思う。つい数年前、生活保護を受ける際に我が家に彼女への資金援助ができないという証明記入書が送られ、それから2年後にまる子姉さんは亡くなった。つい先日、一周忌を迎えたばかりの話だ。

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