①
クリスマスの朝だった。
午前十一時になる手前。
食事の仕度を終えたタスクはダイニングキッチンを抜け、寝室のある二階へ向かう。
養い親に一日の始まりを告げるのが、彼の日課のひとつだった。
寝室のドアを引く。
ベッドもクローゼットも本棚も、ふたつずつのさっぱりした部屋。
カーテンの取り払われた室内は淡い光で満ちている。
微かな寝息が耳に届く。
窓際のベッドで眠りの底に沈みながら、マナが静かに泣いていた。
こぼれる雫が頬を伝い、シーツの色を深くする。
きっとまた哀しくて、幸福な夢でも見てるのだろう。
遠いところに逝ってしまった大事な大事な片割れの夢。
思いの外手のかかる、駄目な大人のおもりを始めたのが、ちょうど十年前になる。
タスクはまだ十かそこらで、マナは二十歳になろうとしていた。
ルカを亡くして間もない時期で、まともな精神状態でなかったとはいえ、よくこの人間嫌いが得体の知れない赤の他人を拾う気になったものだと今でも思う。
やっぱり要らないと手のひらを返すことぐらい簡単だったはずなのに、マナはそれをしなかった。
とはいえ特段世話を焼かれたわけでもない。
安全な寝床と温かな食事。
そうしたものを与えるだけ与えておいて、マナはタスクになんら興味を示さなかった。
一日二日のことならいい。
けれど一週間が過ぎる頃には、平穏なだけの時間が耐えがたくなっていた。
親切に不慣れなタスクが不信を抱き、なにひとつとして奪われないことに焦れたのも無理はなかった。
目論みは明け透けな方が安心するし、どうせ搾取されるなら、早いに越したことはない。
いつなにを求められるとも知れない曖昧な状況は、ほとんど恐怖といってもよかった。
だから寄越せと奪われるまで待てなくて、数日ぶりに隣のベッドに横たわった薄い身体を組み敷いた。
月の明るい晩だった。煌々と白い光の差す中で、いったいなにが欲しいのと、滑稽な問答をした。
『あんた俺を買う気ない?』
尋ねれば、おまえそういうのだったのと、いまさらなことを逆に問われた。
『こんなガキが、他にどうやって生きてこれたと思うわけ』
持ち物も、自由になるのも身体ひとつで、それを売る以外になにがある。
仕事はするよと細い喉に舌を這わせ、けれどその薄い皮膚にそうした意味で触れたのは、後にも先にもこの一度きりだった。
離してくれる? と、熱の気配など欠片もない、億劫がる声音が告げて、タスクは伏せた身を起こした。
『そーゆーの、要らないから』
むしろ気持ち悪いから。気安く触らないでくれると、ベッドからも追いやられ、タスクは本当に追い詰められた。
だったらなんで拾ったの、俺はなにをすればいいのと、駄々をこねるみたいに尋ねたのは、ただそこにいるなんて在り方が、許されるとは思ってみもしなかったせいだ。
きつく睨みつけた先、青白い月の光に消えそうな相手の顔がある。
たぶんマナは本当に、なにも欲しくなかったのだ。
他人がなにかをくれるだなんて欠片も信じていないのは、マナもタスクも同じだった。
『……なら、見張ってて』
『え?』
『俺がうっかり死なないように、見張ってくれればそれでいいから』
どういう意味と尋ねても、そのまんまだよと逃げられた。
そんな、その場しのぎみたいに吐かれた文句が、冗談でもなんでもないとわかるまで、さして時間はかからなかった。
ルカが嫌がるという理由で、酒にも薬にも逃げられないマナは、意識のある間中、あるいは意識をなくしても、延々と彫金机の前にいた。
ひたすらに銀をいじって、気絶するように眠りにつき、覚めるとまた続きを始める。
思い出したようにクラッカーとコーヒーを口に運び、これまた思い出したようにベッドに入る。
生きていくのに必要な最低限の手順を、形だけなぞっている。
それは到底まともな人間の在り方ではなかった。
『死にたいの?』
『そうね』
つい零した問いかけに、肯定はあっさり降ってきた。
死にたいよと、簡単そうにマナが言う。
『死なないの?』
『まぁね』
『どうして?』
『ルカが許してくれないからね』
マナにとってはそれだけが、生きるよすがらしかった。
あれから十年経った今でも、タスクはやっかいな大人の世話を焼いている。
当時に比べ、いくらかましになったとはいえ、マナは冬が苦手なままだ。
神さまの子どものバースディは、彼にとっては大事な片割れの命日で、街のにぎわいと比例して、その調子は落ちていく。
だから今日はほとんど仕事にならないだろう。
毎年のことだから、とっくに慣れてしまったけれど。
白い横顔に手を伸ばし、目尻に指の背で触れる。
元来眠りの浅い男はそれで瞼を震わせた。
潤んで滲むアイスブルーが探すのは、きっと自分などではない。
生きることをさして望まない相手にいちいち朝を手渡すのは、なかなかに残酷な所業に思われた。
「おはよ、マナ」
夢うつつの緩慢なまばたき。
マナがゆらりと身を起こす。
視界が曇ることに気付いたらしく、雑な仕草で目元を擦る。
「朝飯できたよ」
「そう」
掠れたテノールが静かに応じる。
白い手が毛布にかかるのを見届けて、タスクは一足先に寝室をあとにした。
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