一夜目 『単純な場所と複雑な彼女』

「これって、どんなお話?」ワタシの仕事場にある小さな本棚を指さし彼女が言う。


やれやれ。また来たか・・・少しだけ辟易としながらワタシは応える。


「ハードボイルド小説」


このやり取りは、一体何回目なのだろう。彼女が来ると必ずする質問だ。そのとき覚えても、一度消えると記憶はリセットされてしまうらしい。


「ふーん」何度もきいた感嘆。

「アル中の元テロリストが、事件に巻き込まれて真犯人探しをする話」何度もした説明。


「ふーん。でも〈テロリストのパラソル〉ってなんだか素敵なタイトルだね」そして彼女はにっこりと笑う。


この笑顔。昔と全く変わらない。そりゃそうだ、彼女は30年前から歳をとっていないのだから。


今から30数年前、彼女は或る不幸な事故で命を落とした。

彼女とワタシは高校時代に恋人同士ではあったが、何故今になってこうして現れるのかは解らない。


「あ、このタイトルも素敵。〈ブロードウェイの戦車〉だって」


そういえばお前、ブロードウェイでミュージカル観たいって言ってたよな。


「それもハードボイルド小説。仇討ちの話だ」

「ふーん・・・でも、なんだかハードボイルド小説って、素敵なタイトルが多いんだね。」

小首を傾げながら笑う癖、まだ治ってないんだな。


「相変わらずだな、お前」少しだけ可笑しくなってワタシも笑った。


「ねえ」急に真顔になった彼女はワタシの眼を見つめながら言う。

「好きな人、できたでしょ?」


なるほど。死人には全てがお見通し、って訳か。


「うん」ワタシは少しだけ困惑しながら答える。


「応援してるよ。草葉の陰から、ね」

「洒落にならないな」可笑しくなって、ふたりで笑った。


「なあ」ワタシの本棚を楽しそうに眺め続ける彼女にワタシは言う。


「ブロードウェイ、行くか?」

「そうねえ。いいかも。今なら旅費もかからないし、ね」


馬鹿いうなよ。哀しくなるような冗談はやめてくれ。


「行きたかったな。ブロードウェイ」

「でも、あなたが連れていく相手は、私じゃないよ」


そうだな。確かにお前じゃない。


「じゃあね」


去りゆく彼女に私は言った。「この間は、ご褒美ありがとな」


小首を傾げた亡霊は、にっこり笑って消えていった。


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