彼女

北見 恵一

序 『不条理とキス』

電話が鳴った。

とある大手都市銀行からだ。


「今月付けで、全てが終わります」

「・・・・。」

「長い間、本当にお疲れ様でした」

「・・・・。」


思えば今から7年と少し前。

14年勤めた広告代理店を辞め、独立したばかりのワタシは、先行きの不安をうち消すために、回ってくる仕事全てを引き受けていた。


そんな中、一本の仕事の依頼が入る。

闇雲に仕事をこなしていた当時のワタシには、その仕事を発注する「A」というプロダクションの不透明さと危険度を判断する余裕がなかった。


クライアントは、某大手化粧品会社。予算も破格。

提示された制作予算に舞い上がり、二つ返事で受注した。


それから2ヶ月。仕事も8割方完了したところで、クライアントの部長から電話が来た。


「例のこと、聞いた?」

「何のことでしょうか?」

「Aさんトコ、消えちゃったよ」


どうやら、クライアントが渡した前途金、約1800万を持ったまま夜逃げしたらしい。目の前が真っ暗になった。


部長は、少し申し訳なさそうな声で続ける。

「ウチとしても大きな損害出してるし、仕事も納まっていないから、できれば最後まで仕上げて欲しい。頼む」

普段は厳しいことで有名な部長が、電話口で頭を下げているように感じた。


「・・・わかりました。責任持ってやり遂げます」

正直、自信はなかった。でも、この部長の為に仕事を完遂する決心をした。自分の為ではない。この部長の為に。


この件に関して、スタッフや外注先には一切口外しなかった。


延べ8人のスタッフのギャラと、3箇所の外注先への支払いをしなくてはならない。当時持っていたなけなしの貯金をはたき、足りない分は、銀行やノンバンクから借りた。なんとか他人には迷惑掛けたくない。その一念で、あらゆるトコロから借金をした。


借入総額、約1200万。

毎月の返済をこなすため、ワタシはまた、がむしゃらに働いた。


その状況を見かねた学生時代の友人が助けを出してくれた。

「ウチの銀行で、債務一本化すればいい」

優しい友人が上司に交渉してくれたおかげか、「特例」として承認が通った。実際のところ、相当無茶な条件だった。今じゃ絶対に審査が通らないだろう。


ワタシは幸運だった。

        

「今月末の分で完済しますので、来月頭に書類を郵送します」

「本当に、お疲れ様でした」

電話の向こうで、銀行の担当者が一礼しているような気がした。


「ありがとうございました。色々とご迷惑をお掛けしました」

そう言い、ワタシは電話を切った。


暫く呆然とした。

借金を完済したという安堵感はあったが、クライアントの金を持ち逃げした人間に対する憎悪は無かった。無かったと言うより、忘れてしまったという方が正しいだろう。



ヨノナカ、ずるい人間はたくさんいる。


ワタシは真面目に、地道に生きるのが「王道」だと思っている。

でも、その陰で、楽して成功しようとしてる人間が多すぎる。


毎日を正直に頑張るコトは大切だけれど、それで埋められない矛盾もある。不条理もある。


でも。


それでも、頑張らなくちゃいけない。

騙されて、はめられて、それで不貞腐れちゃったら、自分も「向こう側の人間」の仲間いり。


だからワタシは頑張る。

ヤセ我慢をしながら。カラ笑いしながら。



その時、30数年前に亡くなったヒトが、現れて、こう言った。


「おめでとう。良かったね」

そう言って、ワタシの頬にキスをした。



涙が、出た。

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