第4話

  部屋から出て、リビングまで行く。ここまで来たのは何か月ぶりだろうか。


  私は無理やり前を向く。うつむきがちな顔を上げ、心を奮い立たせるように。


 「お……お母さん」


 久しぶりに出した声はうまく響かなかった。だが、お母さんはその掠れた声にすぐ反応してくれた。


 こちらを振り向いて、優しくそして強く抱きしめてくれた。


 お母さんの顔はよく見えない、だけど、私は見ようとはしなかった。見ようと思ったら、お母さんに私の泣き顔を見せることになってしまう。たまらなく恥ずかしかった。今だけは、お母さんの肩で泣かせてほしい。


 

 ゆっくりとその時間は過ぎていき、私とお母さんは体を離した。そして、気付く、私の肩はわずかだが湿っていた。


 お母さんは私の目をしっかりと見つめ、口を開いた。


 「……元気になった?」


 お母さんは若干だが言葉を詰まらせながら、私に問いかけた。お母さんなりに言葉を選んだんだろう。私を傷つけないように慎重に、せっかくの機会を逃がさないように。


 だけど、大丈夫、私はもう大丈夫。ちょっとだけ前を向いたんだ。


 「……あのね。私、病院に行きたいの」


 相変わらず、私の言葉は掠れていた。だけど、思いは伝えた。


 「分かった。行きましょう」


 お母さんは目を見開いて、色々な表情を適当に張り付けたようなぎこちない笑みを浮かべながら、そう言った。


 私が引きこもるようになってからお母さんは毎日を笑って過ごせてはいなかったんだ。そのことに私は気付いた。そんなことすら気付くこともできなかった私が本当に馬鹿だったこともついでに気付いた。


 「ほら、立ってないで、着替えましょう。私が髪を梳いてあげるから」


 一瞬目を瞑ってから、しっかりとした笑顔を作って、そう言った。空元気にも見えたが、それは違うとすぐ気づいた。正真正銘の笑顔だった。私にはそれが分かった。


 「……うん」


 私が見慣れていたようなお母さんがもどってきたように感じた。


 私は素直に髪を梳いてもらいたいと思った。



 「髪、ちょっと長すぎるわね」


 髪を梳きながら、お母さんは私にそんなことを言った。


 「そうかも。伸ばしっぱなしだったから……」


 私は腰元までとはいかないが、それに近いくらい伸びた髪の毛を触る。


 「ちょっとだけ切ってあげようか」


 「……え。お母さん不器用でしょ。怖い」


 「大丈夫。ちょっと短くするだけならできるわ」


 どうしよう。やる気満々だ。今まで私と話していなかった分、私に対して色々とやりたくなっているんだろうなとは思う。断るのも、どこか気が引ける。


 「注意して、切って。注意してね」


 大事なことなので、二回言った。


 「任せて」


 この任せてに関しては全然信用できないような気がした。




 私はいつの間にか、ショートヘアになっていた。


 素人が切ったのだから、それはそれはいびつなショートヘアだ。


 「お母さん」


 私はその一言にすべてを込めて放った。


 「ごめんなさい」


 お母さんは笑いながら謝った。もしかして、最初から、ショートカットにする気満々だったのではないだろうか。


 髪を切っている最中、もうちょっとくらい切っても良いんじゃないという言葉を、何回も聞いた。私自身も髪の毛自体、うざったいと思ってはいたので、もう少しくらい切ってもいいかもしれないと、何度かゴーサインを出してしまった。


 でも途中から、ゴーサインなしで、お母さんは髪を切り進めていたような気がする。


 その結果、こんな風になってしまった。


 「私も気付くのが遅すぎた。すっきりしたし別にもういいよ。いったんシャワー浴びてきて、もっとすっきりしてくる。昨日、体洗ってなかったはずだし」


 「ええ、待ってるわ」

 

 待たせてばかりで本当に申し訳ない。


 

 バスルームに入り、シャワーの水が温かくなるまで少し待つ。


 いい具合になった瞬間に、シャワーを頭から浴びて、バシャバシャとよく銭湯にいるような親父がやるように髪を洗う。


 短いから、簡単に髪を洗うことができた。楽って素晴らしい。髪が長いと本当に色々めんどくさかった。


 いつもよりもこのシャワーは気持ちが良かった。このまま何もかも洗い流してくれるのではないかと思うくらい良かった。


 

 バスルームから出て、体をタオルで拭く。


 そして、ドライヤーで髪を乾かしながら、鏡に今の自分の姿を映した。


 顔色はまだ良くない。たくさん寝ているはずなのに目に隈もある。幸の薄そうな顔だ。


 その中で、いびつなショートカットに目がいった。


 自分の顔色と、そのショートカットのイカレ具合がマッチしなさすぎて、ちょっとだけおかしかった。


 だが、鏡に映る私の笑顔はひどく不気味だったので、すぐ目を逸らしてしまった。


 少しでけ前を向くようになったとは言っても、やはりまだ私は引きこもりのままらしい。

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