第3話 月は空の端に

「昔はさ」


 当たり障りのない、子供の頃の話でもしようかと思ってそう切り出すと、彼は首をかしげた。


「どのくらい昔の話だ? まだ俺達がまともだった頃か?」


 その言葉に曖昧に頷いてはみたものの、俺達に「まとも」だった頃などあっただろうか。少なくとも、俺にはない。

 生まれた時からずっと、育った場所も、周りの大人も、そして勿論俺も、みんな揃って清々しいほどのクズだったからだ。


 だからおそらく、彼の言う「まとも」というのは、俺達を含んでいるようで含んでいない「世間」が、まだ「奴ら」の存在を認識していなかった頃、という意味だろう。俺は話題を変えることにして、「まとも」な頃を思い出した。


「あの頃、夜ってのは酒を飲んで寝るだけだったよ」

「あの頃の大人はみんなそうだろ」


 まあ、それはそうなのだが。

 過去の泥沼に沈まないような話題を探す。


「星空なんか見る事もなくて……」

「星自体よく見えなかったからな」


 そう。見なかった。

 彼の言う通り、人工の光や大気汚染で星自体が見えなかったし、ずっと俯いて生きていたから。


 言葉を切り、二人で空を見上げる。

 空は、こんなにも輝きに満ちていたのか。


 ★★


 その時、空の彼方に白い光の筋がすうっと走った。


「お、流れ星」


 あれが宇宙船や「奴ら」の攻撃でない事は明らかだった。

 罪を抱えた魂を持たない流れ星の光は、果てしなく清らかだ。


「何か願ったか?」


 俺を見て、そんな事を言う。俺は少し笑い、彼の前髪を掻き上げた。


「今更何も望まねーよ。隣にお前がいれば十分」

「そいつはどうも」


 不機嫌そうな声でそれだけ言い、視線を外す。

 照れているのだろう。だがそんな事を指摘したら、どれだけ面倒臭い反論が返って来るか分かったものではない。俺は彼の髪をくしゃりとした後、話題を変えた。


「この星空を見ているとさ、永遠に続きそうな気がするよな」

「宇宙全体で言えば明日も明後日も続いていくんだよ」

「逆に言えば、毎日どこかで星が終わっているのかもな」


 多分今も地球総攻撃に向けて、着々と準備をしている「奴ら」だが、「奴ら」が宇宙最強と言うわけではないのだろう。だからいずれ「奴ら」の星だって、誰かに破壊されるのかもしれない。

 そう考えると、「奴ら」も含めた生命は、なんと脆く儚い存在なのだろうと思う。


「破壊と創造かぁ……神の声でも聞こえねぇかなぁ」


 生命全体の世界を考え出したら、そんなことを思ってしまった。

 俺の言葉に、彼は静かに答えた。


「聞こえてたらここにはいねぇさ」


 ★★


 いつの間にか、月は空の端に身を沈めようとしていた。

 いずれ星々も消えていき、夜が明ける。


 だが、陽の光を浴びることは叶わないだろう。「奴ら」の攻撃は、この国の夜明け前に始まるらしい。


「もうカウントダウンは始まってんのかな」


 言わなくてもいい事を言ってしまった。彼は僅かに眉をひそめた。


「知りたいのか? 俺はやだね」

「俺だってそうだよ。けど……」


 口ごもる俺を見て、彼は体を起こし、手を伸ばしてきた。

 白く冷たい手が、俺の頬に触れる。

 視界に彼の腕が入る。そこに滲んだ点滴の痕を見て、心が苦しくなる。


 あの時は、よかれと思ってやっていた。

 病院なんか行けないから、俺が彼の腕に点滴の針を刺した。だが地球がこんなことになるのだったら、あんなことなど、しなかったのに。


「まぁその気持ちも分かる。だから見上げてんだろ?」


 ひたひたとしみ込むようなその声に、心の中が少しほぐれる。頷き、月の最後の姿を眺める。


「今日世界が終わっても、世界は有り続けるんだ。不思議だなぁ」

「不思議でも何でもないけどな」


 相変わらずな答えを返され、俺は肩をすくめた。


 ★★


「眠れたらさ、知らない内に終わってたのかな」


 また、意識が朦朧としてきたのだろうか。彼は僅かに舌がもつれていた。


「いや俺ら眠れないだろ」


 正確には「ぐっすりと眠れない」だが。


 彼はここ暫く、一日のうちに何度も覚醒と微睡まどろみを繰り返していた。そんな「眠り」でしかないから、もし「奴ら」が来たら、彼はすぐに気付く事だろう。

 そして彼の前では図太い態度を通してきた俺も、もう、何日もまともに寝ていない。


「だからだよ」


 呂律が回っていない。長い睫毛が、ゆったりと目の上を覆い始めている。彼は言葉を続けた。


「きっと罰なんだろうな」

「生きている罰か? それは捉え方次第じゃないか?」

「そうか?」


 頷く。彼の冷たい手を温めるようにそっと握る。


「ああ、少なくとも俺は不幸を感じちゃいない。これは奇跡なんじゃないかとすら思う」


 微睡に移る間際、彼は俺を見て微笑み、呟いた。


「確かに、ある意味奇跡だよな」


 ★★


 すう、という息をたてて、彼は目を閉じた。

 その横に寝ころび、横顔を眺める。


 ありがとう。俺と出逢ってくれて。

 終わりの日に、俺の隣にいてくれて。


 お前がいてくれたから、俺は夜空の美しさを胸に抱いて、終わりの時を迎えられる。

 宇宙船なんか、乗れなくっていい。どうしようもない人生だったけれど、お前と育ったこの星が、俺は案外嫌いではない。


 でもさ、もうちょっと、一緒にこの夜空を見ていたかったな。

 ほら、気付いていたか。月が、もうすぐ消える。

 もう二度と見ることのない、月がさ。


 なあ、見てみろよ、お前。


 月が、綺麗だな。


 ★★


 やがて、東の空に日が上るよりも早く、「奴ら」がやって来た。

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