第5章『目覚めるモノたち』⑤

「──なっ!? なに? この感じ!?」

「鬼や! 鬼の気配やよ!」

 あらぶる鬼神の瘴気は、八キロ以上も離れた場所にいる蛍と千花をも震えあがらせた。

 簀巻すまき状態で転がっている伶人も、慄然わなわなとする彼女たちの様子で事態を悟る。

「鬼の気? じゃあ、瑠姫は? 小春は? まさか──!?」

「大丈夫よ、伶くん。その束縛が解けていないということは、瑠姫が無事だって証明あかしだから」

 蛍はつとめて冷静に言った。

 だが、あくまでも〝まだ〟であることを、蛍のけわしい表情は物語っている。

(くそ……! なにやってんだ、俺は。なにもできないのか? なにも……)

 伶人は、ただ待つことしかできない自分に苛立ち、焦燥あせりに駆られた。

 もちろん自分ごときがせ参じたところで、何の役にも立ちはしないだろう。

 それどころか、かえって足手まといになるだけかもしれない。

 そんなことは解っている。

 解ってはいるけれど、少年マンガや特撮ヒーローから〝男気〟というものを刷りこまれて育った男子の矜持きょうじは、とにかくつことを渇望する。

 そこに思惑おもわくは無い。

 倫理観や正義感、あるいは使命感のようなものもあるにはあろうが、それらはきたつ情動おもい源泉もとではない。

 ただ、行きたいのだ。

 今まさに窮地きゅうちに立たされているに違いない少女たちのもとへ。

 そうして、その衝動で意識が飽和したとき──

 伶人のなかで何かが芽吹いた。

 胸の芯に火がともり、熱を帯びた血液が全身に広がってゆくような感覚。

 それが脈打つ〝波動〟となって、鬼の瘴気よりも強く、熱く、千花と蛍の霊感を揺さぶる。

「──んきゅ? 別の気配? 今度は、なんなん?」

「これは……神気かみけ? 伶くんの神気かみけなの? なんてはげしい……でも、暖かい……!」

神気かみけ? この感覚──これが神気かみけ?)

 そうと知り、伶人は意志の限りをこめて自身おのれに命じる。

(だったら……俺に霊験ちからがあるんなら、を解いてくれ! 行きたいんだ、俺は!)

 そのねがいが湧き出る神気かみけ収斂しゅうれんし、練りあげ、確かな〝ちから〟へと変換してゆく。

 そして、

「だから……解けろぉーっ!」

 我知われしらず叫ぶや、伶人は式索しきさくの戒めを引き千切り、敢然すっくと立ち上がった。

「伶くん!?」

「術が解けた!? いや、解いたん? すごい、すごい!」

 蛍は驚いて伶人を見上げ、千花は興奮して跳ね回った。

「解いた? 俺が、瑠姫の術を」

 しばし呆然と自分の手を見つめる伶人だったが、やがて我に返り、千花をと捕まえる。

「教えてくれ、千花。お前には分かるんだろ? 瑠姫たちのいる場所が」

「──うん」

 魅了の方術でもかけられたかのように、千花はこくりとうなずいた。


   ◆   ◆   ◆


「サテ、女狐ヨ。ドンナ死ニザマヲさらシタイ? 選バセテヤランデモナイゾ?」

 皇雅おうがは口角をねじあげて瑠姫を見下ろし、積年の恨みを晴らす喜びにうち震えた。

「ドウシタ? アノ巫女モドキノ姿ニ化ケンノカ? 貴様ノ死装束しにしょうぞくニハ相応ふさわシカロウニ」

「ほざくな、鬼が。お前に指図される筋合いは無い」

「ソウカ。ナラバ、ソノママ野垂のたレ死ネ」

 減らず口を叩いてみせた瑠姫に、皇雅は夜空よりも黒い炎のかたまりを投げつけた。

 その火炎弾を、士郎が咄嗟にり出した二体の烏頭女うずめが受けとめる。

 土塊つちくれでできた烏頭女うずめは火に強く、おかげでどうにか原型をとどめてはいたものの──そのまま力尽き、崩壊した。

「慈悲ヲラシ、見逃シテヤッタトイウニ……死ニ急グカ、小僧」

 邪魔をされたにも関わらず、何故なにゆえか皇雅は楽しげだった。

 あがく人間をいたぶるのも一興、とでも思っているのだろうか。

「誰も殺させはしない。僕の失態あやまちで誰かを死なせるわけにはいかない!」

「……サレバ、ナントスル?」

おん 伽羅臨懲からりんちょう 伽羅臨からりん 莎訶そわか!」

 士郎は身構えもしない皇雅の三白眼さんぱくがんを見据えたまま、五枚の霊符を地面に放った。

 それらを介して大地に注がれた神気かみけが、隆起する土砂を五匹の〝狼〟へと作り替えてゆく。

 御巫慶太郎の手解てほどきによって会得した、亡き父が駆使していたものと同じ護法の使徒しもべ──『計都けいと』だ。

 その熊ほどもある勇猛な狼たちが、皇雅に牙を剥いてうなる。

「ソレガ返答こたえカ。イイダロウ、遊ンデヤル。なまッタ体ヲ慣ラスニハ、チョウドヨイ座興ヨ」

「いけ、計都!」

 命を受けた計都たちは皇雅を取り囲み、巧みに連携をとりながら波状攻撃を仕掛けた。

 その隙に、士郎は瑠姫に駆け寄る。

「──すまない。僕は浅はかだった」

「いまさら気付いても遅いわ」

「始末はつける、と言いたいけど、僕には時間稼ぎぐらいしか出来そうにない。出来るだけ奴を足止めするから、君は朔夜を連れて逃げてくれ」

「何を言うか。さっさと、このしゅを解け。わらわが皇雅を討つ。差し違えてでもな!」

「だめだ。その呪は僕には解けない。朔夜が目を覚ますまで、どこかに身を隠すんだ」

「じゃが、娘たちを──小春を見捨てるわけにはいかん」

「大丈夫。女の子たちは、僕が土遁どとんかくまうから。皇雅も、わざわざまで殺そうとはしないだろう。あいつの狙いは、あくまでも──」

「──わらわ、か」

「ああ。だから今は逃げて。頼む!」

「……ここは、お前の言う通りにするしかなさそうじゃな」

 しぶしぶ了解した瑠姫は、託された朔夜を抱え、「死ぬでないぞ」と言いおいて駆けだした。

 すぐさま士郎が土遁の隠形術おんぎょうじゅつをほどこすと、周囲の地面がユラユラと波打ち、依代よりしろの少女らが土の中に沈んでゆく……

 その僅かな時間のうちに皇雅は三体の計都を破壊し、四体目にを手にかけようとしていた。

 士郎は新たな計都を召喚して数を補い、更なる増援のための霊符を手にする。

 より戦闘力の高い烏頭女うずめではなく、あえて計都を使うのは、少しでも長く時間を稼ぐため。敏捷性なら計都のほうが優れているし、連続して召喚できる数も多いのだ。

 とはいえ、際限なく生み出せるわけではない。

 続けて召喚できるのは、おそらく十数体が限度だろう。

 試したことはないが、自分の限界は想像がつく。

 そして、その限界は、士郎が考えていた以上に早くやってくるのだった。

 十分もかからずに、皇雅は十二体の計都を破壊してしまったのである。

「……くっ! ここまで……なのか」

 かろうじて十三体目の計都を放ったところで、とうとう士郎の両腕は動かなくなった。

 その肘から先は血行障害チアノーゼを起こし、青黒く変色しかけている。

 極限まで神気かみけを消耗したため、〝ぬえの爪〟を使った副作用による瘴気の侵食を抑えられなくなったのだ。

しまイカ? ソノ様子デハ、長クハモツマイナ。瘴気ニ呑マレテ、クタバルカ、ハタマタ鬼ニ化ケルカ……見物みものダナ」

 皇雅は最後の計都をへし折り、精魂尽き果てた士郎を冷ややかに見下ろした。



 そのころ、瑠姫は中島の岸辺で立ち往生していた。

「ちっ……どうやって動かすのじゃ、この機械からくりは」

 ゴムボートを見つけたのはいいが、船外機の使い方が分からない。

 ならばと両手をオールにしてぎ出たたところで、皇雅から逃げられるはずもないだろう。相手は空を飛べるのだ。

「三十六計、逃げるにしかず、とは言うが、それに賭けるにはが悪すぎるな」

 瑠姫は中島からの脱出を諦め、抱えている朔夜を見た。

 せめて彼女が意識を取り戻してくれれば──一緒ともに闘うのは無理でも、術を封じているしゅを解いてさえくれれば、相打ち覚悟で皇雅に挑むこともできるのだが、

「おい、朔夜とやら。おい」

「う……士郎……」

 耳元で呼びかけても、軽く揺すっても、なかば昏睡状態の朔夜はうなされるばかりで、目を覚ましてくれそうになかった。

 当然だろう。あの皇雅の邪気そのものともいえる炎を浴び、人型ひとがたを保てなくなるほど衰弱しきっているのである。

 幸い、命に別状は無さそうだが、ともすれば数日は眠り続けるのではないか。

「……だめか」

 もとより期待はしていなかったが、瑠姫は溜息をつき、周囲を見回した。

 とりあえず、そのへんの茂みにでも隠れるしかない。

 手当たり次第に林を焼き払われたら逃げきれるものではないが、ここで突っ立っているよりはマシだろう。

 そう覚悟はらを決め、岸に背を向けて歩き出そうとした、そのとき──


 ……きぃー……!


 かすかに、聞き慣れた声が。

「伶……?」

 まさかと思いながらも湖上の闇に目をこらすと、小さな光が揺れているのが見えた。

 まもなく、それが白い小型艇プレジャーボートであることがわかる。

「──瑠姫! 無事だったか。よかった!」

 桟橋に叩きつけるように接岸したプレジャーボートから飛び降りてきたのは、やはり伶人であった。

「お前、どうして……どうやって式索を解いたのじゃ?」

「さぁ。なんか、解けろって念じたら、解けた」

「念じたら解けた?」

 要領をえない説明に、瑠姫は眉をしかめる。

 その腕に抱かれている黒い狐をみて、伶人も同じ表情になった。

「そいつは?」

「朔夜じゃ。昨日、会ったろ」

「あの女性ひとなのか? 士郎の仲間が、どうしてここに? いったい、なにがあったんだ?」

「話はあとじゃ。わらわは術を封じられ、変化へんげできん。ひとまず退散ぞ」

「わ、わかった。乗れよ」

 伶人は、まず朔夜を受け取ってボートに乗せた。

 続いて瑠姫を乗せてやろうと、後ろから腋を掴む。

 そうして持ち上げようとした刹那、妙に生温なまぬるい風が吹いてきた。

 焦臭きなくささに顔をしかめ、ふと風上の雑木林を見た伶人の目に飛び込んできたのは、

「──!?」

 一目で〝鬼〟とわかる、恐ろしげな大男の姿だった。

 その体から立ちのぼる陽炎のような瘴気が、一歩進むごとに周囲の木肌を焦がしている。

「皇雅め、もう来おったか!」

「あれが、皇雅……!」

 伶人は瑠姫の腋をつかんだまま、立ちすくんだ。

 その手をふりほどいて、瑠姫は鬼の進路に立ちはだかる。

「待タセタナ、女狐。──ム?」

 皇雅は立ち止まると、伶人を一瞥し、わずかに目を見張った。

「ホウ! コノ神気かみけ……貴様、アノ紫苑しをんトカイウ巫女ノ血筋ダナ? コレハイイ! 怨敵ガ、ワザワザヤッテキテクレルトハ。マトメテ六道りくどうヲ巡ラセテヤル」

「伶! 逃げろ!」

 皇雅がゆっくりと拳を持ち上げるのを見て、瑠姫は叫んだ。が、伶人はそれを無視し、瑠姫の前に立つ。

「バカ! 死ぬ気か!?」

 瑠姫がシャツの背中を引っ張っても、伶人はがんとして動かなかった。

 知方珠しるべのたまの結界で瑠姫を守るのだ、と考えたわけではない。

 ほとんど無意識の行動だ。

「イイ覚悟ダ。二人仲良ク、黄泉路よみじで泣キまどエ!」

「──うわっ!?」

 突き出された皇雅の拳から、瘴気を含んだ黒い炎が放たれた。

 即座に知方珠しるべのたまの結界が発動し、炎を防ぐ。

 結界そのものは目に見えないが、遮られた炎の動きから、その形状が直径二メートルほどのドーム型であることがわかる。

「ホウ、結界カ。我ガ炎ヲしりぞケルトハ、面白イ」

 なぶり殺しにしようと、あえて威力を抑えていた皇雅は、さらに猛烈な火炎を放った。

 無色透明だった結界が黒くすすけ、あぶられたアクリル版のように歪んでゆく……

「伶! もういい! お前だけでも逃げてくれ! 頼む!」

 瑠姫はポロポロと涙を落としながら訴えた。

 やがて結界がドロリとけはじめ、隙間から吹き込む熱風が伶人の頬を焼く。

 誰も予想だにしないことが起こったのは、その直後であった。

「──ムッ!?」

 ついに結界が熔解した瞬間、反射的に突き出された伶人の両手から強烈な〝光〟がほとばしり、皇雅の炎をかき消したのだ!

「ナンノ光ダ!?」

「なんだ、これ!?」

「なんじゃと!?」

 鬼神と青年と狐仙は、ほぼ同時に、ほぼ同じようなことを口走った。

 見れば、皇雅と伶人たちとの間に、細長い菱形をした板状の結晶体めいたものがいくつも浮かんでいる。

 薄紫色の燐光きらめきを放つガラス板のようなそれらは、ざっと数えて三十枚はあるだろう。

「光の板? バリアー……なのか?」

「まさか……神気鱗しんきりん!?」

 瑠姫は涙と鼻水を拭うことも忘れ、結晶体の群れに目をこらす。

「しんきりん?」

「伶! そいつを皇雅にぶつけろ!」

「ぶつけろ?」

「──ヌオッ!?」

 直後、瑠姫が神気鱗と呼んだ結晶体が皇雅に叩きつけられ、その巨体を突き飛ばした。

 伶人は何もしていない。

 ただ、瑠姫に言われたことを無意識のうちにイメージしただけだ。

「こいつ、俺の思い通りに動くのか?」

「そうじゃ。神気鱗は、お前の神気かみけそのものじゃからな!」

 瑠姫は感動していた。

 伶人の霊験ちから覚醒めざめ──しかも八門神機の奥義中の奥義である『神気鱗』を使うとは!

 だが、今は感慨にふけっている場合ではない。

 まずは術を封じている呪をどうにかしなければ。

「伶、神気鱗をつるぎにするのじゃ」

「そんなこと言われても……お!?」

 戸惑う伶人が、剣という言葉から瑠姫の月華方剣げっかほうけんを想像すると、神気鱗が寄り集まり、その形状かたちをなした。

「……剣になった。自由に形を変えられるのか」

 生来の察しの良さのおかげか、あるいはさえも血に仕組まれた才なのか、伶人は早くも神気鱗の扱い方がわかってきた。

 いちいち理屈しくみ手順プロセスを考える必要はなく、ただ頭の中に〝起こしたい現象〟を思い描けばいいらしい。

「軽いな。というか、まるで重さを感じない」

 伶人は神気鱗の剣を掴み、構えてみた。

 その横で瑠姫はシャツワンピースのボタンをいくつか外し、胸元デコルテをあらわにする。

 白い三角ブラに包まれた、あどけない乳房ふくらみの間──ちょうど心臓のあたりに、直径五センチほどの赤黒い〝痣〟があった。

 よく見ると、電子回路にも似た緻密な文様が描かれている。

「おい……なんだよ、それ」

呪詛じゅそいんじゃ。伶、その剣でこれを貫け」

「貫けって、そんなことしたら──」

「案ずるな。神気鱗は、お前の神気かみけ。わらわを傷つけることはない。さぁ、はよう!」

「……わかった」

 状況も事情も飲みこめないが、問答している時間ひまは無い。

 伶人は瑠姫を信じ、神気鱗の剣を彼女の胸に突き刺した。

 なんの抵抗もなく、豆腐に箸を刺すよりもスムーズに、剣は瑠姫を貫く。

 瑠姫は「うっ」と息を詰まらせた。が、その顔に苦悶の色はなく、どこか官能的ですらある。

 だけども不安げに見つめる伶人の前で、神気鱗の剣がゆっくりと瑠姫の体内に

 それにつれて呪の印が薄れていき……消える。

 神気鱗の神気かみけが、呪の発動体であるはりを消し去ったのだ。

 さらにその神気かみけが瑠姫に溶け、馴染んでゆく。

「ああ……感じる……みなぎる……お前の神気かみけが、わらわに……! これなら、やれる! 解八門禁かいはちもんきん!」

 瑠姫は狐仙変化こせんへんげし、即座に天衝弓てんしょうきゅうを構えた。

「往生せい、皇雅! はぐれ式神の成れの果て! お前はるべきモノではないっ!」

「吠エルナ、女狐。世迷よまごと奈落ならく獄卒ごくそつニデモ言エ」

 皇雅は低くうなり、悠然のしのしと闊歩してくる。

「奈落に墜ちるのは、お前のほうじゃ。神機発動しんきはつどう! 天衝流星破てんしょうりゅうせいは

 瑠姫は神気かみけの矢を放った。

 余裕のていで防護の結界を展開し、瑠姫の矢を弾く皇雅だったが、

「ヌウッ!」

 予想以上の衝撃にされ、数歩後退させられる。

「ム……! 我ガ気圧けおサレルダト? アノ女狐ノドコニ、コンナ霊験ちからガ!?」

 皇雅はうろたえた。

 かつて、この狐仙と闘ったときには、これほどの力は無かったはず。

 なのに、なんなのだ。

 我をおびやかす、この力は。

 ……脅かす?

「アリエヌ!」

 おのれの動揺に、皇雅は憤慨した。

 その感情こころのざわめきは、五百年に及ぶ彼の生涯において初めて自覚した〝畏怖いふ〟であった。

 だが、鬼神のプライドは断じてそれを認めず、怒りをして塗り潰そうとする。

「ツクヅク目障リナ女狐メガ! 焼キ尽クシテクレル!」

 皇雅は背の翼を広げ、虚空を叩くように羽撃はばたかせた。

 巻き起こった突風に黒い炎がからみつき、地表を焦がしながら瑠姫に迫る。

「なんの!」

 瑠姫は瞬時に生成した月華方剣を振りおろし、炎の激流を斬り裂いた。

 左右に分断されて湖面に達した炎が水蒸気爆発を引き起こす。

 それほどの熱量だったにも関わらず、瑠姫はまったくの無傷だった。

 皇雅はその事実に舌打ちをし、次の一手を繰り出しにかかる。

「──南莫三曼駄なうまぐさんまんだ 縛日羅赧ばさらたん かん

 不動明王火焔法ふどうみょうおうかえんほう

 渾身こんしんの一撃を放つとき、皇雅はこの真言で精神をます。

 その威力を三百年前の闘いで痛感している瑠姫は、火除ひよけの結界を張ろうとした。

 が、それでは駄目だと思い直す。

 今の自分が使える最大限の結界なら、皇雅の火焔を一時いっときは凌げるだろう。

 しかし、それで自分の身は守れても、伶人までは守れない。

 皇雅の術を打ち返して、仕取めねば。

「伶、作れるだけの神気鱗を作って、わらわに注いでくれ!」

「わ、わかった! お前に打ちこめばいいんだな?」

 言われるまま、伶人は大量の神気鱗が瑠姫に打ちこまれるさまをイメージした。

 間髪入かんはついれず、空中に次々と神気鱗が生成され、瑠姫の背中に注がれてゆく。

「解八門禁!」

 呪文を唱え、瑠姫は月華方剣を天にかざした。

 刀身が白く輝き、はげしい神気かみけ輻射ふくしゃが物理的な威力となって装束の右袖みぎそでを千切り飛ばす。

 対する皇雅もまた、必殺の気迫をみなぎらせ、右拳に怨念と瘴気をし固めていた。

 そして、その全力をもって襲い来る!

一片いっぺんノ骨スラのこシテハヤランゾ、瑠姫ィ!」

「その言葉、熨斗のしを付けて返してやるわ、皇雅ぁ!」

 凄まじい皇雅の正拳を、瑠姫は月華方剣の逆薙さかなぎで受けとめた。

 黒い瘴気と白い神気かみけがせめぎ合い、ぜ、飛沫しぶきを散らす!

 互いの全身全霊をこめた、真っ向勝負だ。

「ヌウゥゥゥゥゥゥン!」

「くっ……! まだだ! 神機発動!」

 瑠姫はあらん限りの神気かみけを絞り出し、月華方剣に流しこんだ。

 それは彼女だけの霊験ではない。

 伶人から注がれた膨大な神気かみけもが溶けこんでいる。

「受けてみよ、が奥義! いざや、えませい!」

「ナニ!? コノ神気かみけハ、アノ忌マワシイ巫女ト同ジ──!? 貴様ガ何故! 何故ニ貴様ガッ!?」

けぇ! 真! 月華げっか! こう! じん! だんっ!」

「──グハッ!!」

 攻め勝ったのは、瑠姫であった。

 巨大な光の刃と化した月華方剣が皇雅の拳を断ち割り、分厚い胸板を真一文字に斬り裂く!

「グウオオオオオオアアアアアァァァーッ!!」

 皇雅は血の代わりに真っ黒な瘴気を噴き散らし、ぐらりとった。

「バ……カナ……コノ皇雅ガ狐仙きつねゴトキニ……ヤブレル……? 何故ダ……!?」

「──わかるまい。式神として生まれながら、人との絆を忘れて悪鬼にした貴様にはな」

「人トノ、絆? ……ソウカ……我ハ〝人〟ニヤブレタノカ……フッ……!」

 その胸裡きょうりにどんな感情がよぎったのか、皇雅は最期に鬼神おにらしからぬ微笑をにじませ──

「……是非ぜひモナイ」

 気化するように、消えていった。

 その残滓の黒いもやが一本の羽根となり、ゆらゆらと舞い落ちる。

「是非もない? 人に討たれるが宿命さだめと悟ったか? ならば成仏もできよう。さらばだ──〝紅蓮ぐれんの皇雅〟」

 瑠姫は黒い羽根を拾いあげ、指先から発した炎で荼毘だびに付してやった。



「……やったな」

「……ああ」

 瑠姫は歩み寄ってくる伶人に笑みをみせた。

 狐仙変化を解除し、髪をかきあげる。

「お前のおかげで、紫苑との約束を果たすことができた。礼を言う。ありがとう、伶人」

「ははっ。珍しく素直だな」

「たまにはな──」

 瑠姫は、あらためて微笑んだ。かと思いきや、

「──この、馬鹿が!」

 いきなり罵声を浴びせ、伶人に飛びつく。

「無茶をしおってからに。死んでしまうかと思ったではないか! この馬鹿め……大馬鹿者じゃ、お前は……」

「バカバカ言うなよ」

 伶人は瑠姫を抱きとめ、胸に涙を擦り付けてくる彼女の頭を撫でてやった。

 ややしばらく、その温もりに甘えて、瑠姫は抱擁を解く。

「しかし、驚いたわ。お前が神気鱗を使うとはな」

「俺だって驚いてるよ」

「せっかく術を使えるようになったのじゃから、その腕、鍛えねばな。お前なら立派な方士になれるじゃろう。──さて、小春たちを迎えにゆくか」

「そうだ、忘れてた。無事なんだな?」

「ああ。士郎が土遁の術で守ってくれたはずじゃ。奴も無事ならいいが──」

 言いながら、瑠姫は桟橋のプレジャーボートに向かって歩きだした。

 あの朔夜とかいう狐仙を連れて行くつもりらしい。

 そう察した伶人が追いつくと、瑠姫は不意に足を止め、クスクスと吹き出す。

「忘れてた、なんて台詞、小春が聞いたら嘆くじゃろうな」

「……言うなよ?」

「さぁ、どうしてくれようか」

「おいおい……頼むよ」

「ふふっ! いいじゃろう。内緒にしてやる。この貸し、高くつくぞ?」

 瑠姫は伶人の左腕にからみつき、初めて出逢ったときのように悪戯っぽく笑った。


 ふと空を見ると、月と星とを隠していた無粋な雲は、いつの間にやら消えていた。



【第5章・了】

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