第2章『神隠し』③
若い女が一人、子守山の雑木林を歩いていた。
七分袖のカットソーにガウチョパンツという格好で、ジャカード織りのポンチョをまとっている。
それらはほぼ黒づくめなのに、少しも重々しい印象を抱かせない、
「いい風……」
草木と土の匂いを運んでくる風に、女は目を細めた。
無機質な街に囲まれた小さな自然であっても、その瑞々しい精気は心を
けれど、ふとこぼれた笑みも束の間、女は憂いをおびた表情に戻ってしまう。
昨日から感じている、妙な胸騒ぎ。
その言い知れない焦燥に導かれるまま、この雑木林にやってきたのである。
「これは──!?」
やがて終着地についた女は、そこにある小さな
「──結界が、解けている」
社の風化を防ぐために施されていた結界は、もはや存在していなかった。
ならば無意味なことと知りつつ、女は社の扉に手をかける。
強固な封印術で施錠されていたはずの扉は、あっさりと開いてしまった。
見れば、社の中には小さな木箱があり、触れるとかすかな
「目覚めたのね、〝彼女〟が。──でも、どうして?」
女は木箱を社に戻し、扉を閉めた。
理由はどうあれ、ここに眠っていたモノが目覚めたとあらば一大事。
それを一刻も早く最愛の人に
この可憐な女の名は、
青年が一人、湖畔の散策路を歩いていた。
灰色のチノパンをはき、淡い青系のツートーンカラーのブルゾンを着ている。
「
青年は右手にたたずむ月乃宮湖を横目に、その名の由来とされる俳句をそらんじた。
しばらく歩いてゆくと、件の
青年は足を止め、記念碑を解説する看板を眺めた。
それによると、かつてこの地には『
ゆえに『月乃宮』というわけだ。
「
つぶやいて、青年は近くのベンチに座った。
さりげなく視線を上げると、ほぼ快晴の空に一羽の小鳥が。
(追っ手のお出まし、みたいだな)
その奇妙なツバメを見つめて薄笑う青年の名は、八嶋士郎。
◆ ◆ ◆
「──士郎!」
「やぁ、早かったね」
士郎は、約束の時間よりも早くあらわれた待ち人を笑顔で迎えた。
待ち人とは、朔夜である。
「走ってきたの? ……何か、あったみたいだね」
「はい。思わぬことになったようで──」
「ごめん。ちょっと待って。チャンスだ」
「チャンス?」
いきなり話を遮られたので、気が
近くに人がいないことを確かめて、士郎はやおら右手を空に差しのべる。
それにつられた朔夜が天を仰ぐのと同時に、士郎の指先から細い稲妻が放たれ、上空を旋回していた白い小鳥を貫いた。
狙撃された小鳥が、螺旋を描きながら墜ちてくる。
「──式神!?」
朔夜は驚きの声をあげ、士郎と同じように右手を掲げた。
その手から発せられた
小鳥をつかみ取るや、朔夜は事態を察した。
「いよいよ追っ手があらわれたようですね」
「ああ。たぶん『
「やはり、
「うん。少なくとも、誰かが〝神隠し〟の真相を探ってることだけは確かだね。けど、対抗手段は用意してあるし、こっちには地の利もある。焦ることはないさ」
不安げな朔夜とは対照的に、士郎は冷静だった。
「
「ですが、七星社が動き始めたとなると、見つかるのは時間の問題では?」
問いかけながら、朔夜は士郎の隣に座った。
「本当に七星社なのかな?」
「……どういう意味です?」
「やり方が素人っぽいと思わない? 仮にも七星社の
「……確かに。でも、七星社の手の者でないなら誰が……まさか」
「……?」
「この式を打ったのは、子守山の
「子守山の?」
「はい。社の封印が解かれていたのです。中には何もありませんでした。瑠姫が目覚めたとみて間違いないと思います」
「──! それは、たしかに思わぬことだね」
予想外の事態に、士郎は驚いた。
しかし動揺はみられず、どこか嬉しそうですらある。
「
「それをきっかけに目覚めるよう、仕組まれていたと?」
「あくまでも想像だけどね。ま、事情はともあれ、こっちとしては好都合さ。瑠姫を起こす方法が分からないという難題が、勝手に解決されたんだから。おかげで当初の計画に戻せる」
「……そうですね」
「もう一つの難題だった〝
士郎はブルゾンのポケットから黒い勾玉を取り出した。
それを見るなり、朔夜の表情が曇る。
「できるだけ、それを使わずに事をなすわけにはいきませんか? その『
「ああ。でも、いざというときに
「…………はい」
朔夜は、いくらか頬を赤らめた。
士郎の言った〝術〟とは、男女の
ひとつに繋がることで
そういう方術儀式なのである。
「もしかして、毎晩求められるのは迷惑?」
「……言わせる気ですか? そんなこと」
なお赤くなって、朔夜は肩をすくめた。
士郎は〝鵺の爪〟をポケットに戻し、空を見上げる。
「僕は
「気に病まないでください。私は、私の意志で、あなたのそばにいるのですから」
「ありがとう。どうすれば、それに報いることができるかな」
「もう充分に報いてくれていますよ。それこそ毎晩」
「はは! 珍しいね、君が下ネタを言うなんて」
「あなたの影響です」
朔夜は笑って、士郎にもたれかかった。
美男美女だけに、絵になる光景である。
けれど、交わされる会話はロマンチックとはほど遠い。
「これからは忙しくなりますね。瑠姫と御巫家に対する警戒も必要ですし」
「準備が整うまでは、烏頭女をぶつけて時間を稼ぐ。君の出番は、
そう言うと、士郎は朔夜に右手を差し出した。
朔夜は黙ってうなずき、白いツバメを手渡す。
「ちょっと可哀想だけど……」
士郎は白いツバメを軽く握ってから放り投げた。
白いツバメは燃えあがり──灰となって散った。
【つづく】
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