第261話 趣味に口を挟むは野暮というもの

 薄暗い沼地のフィールドを進んでいく。

 風は殆ど感じず、空気は淀んでいるかのようだ。沼の放つ腐った土の臭気が、余計にそう思わせる。

 虫の音や鳥の鳴き声もない。偶に落ちる枯葉の音がする。

 フィールドに来て戦闘もしたが、まだ日が暮れるまで時間がある。ただし、時間との兼ね合いで一時撤退も視野に入れていた。この場所で夜を過ごすのは危険であるし、何より気分が良くないのだから。

「こっちでいいのか」

「はい、そうなんです」

 いつもと変わらぬ様子でヤトノが歩いて行く。真っ白な素足であるが、沼地を歩いて少しも汚れない。何ものにも干渉されない存在であるが故に、気に入らないものは全く寄せ付けないのだろう。とは言え、ここは本体である厄神の実験場のような場所なのだが。

「なんだって、こんな風にしたんだ」

「もちろん本体の趣味なんです、趣味」

「趣味に口は挟みたくないが、これはない」

 片足を沼に突っ込んでしまったアヴェラの感想としては、至極妥当なものだろう。しかし、何度も沼に嵌まるノエルに比べれば遙かにマシなのだが。

「それは、わたくしも同感なんです」

 ヤトノはしみじみ呟いた。

「そういう気分だったとしか言えませんですけど」

「気分で世界を滅ぼしそうな気がする」

「大丈夫なんです、その度に太陽めが邪魔してましたから」

 それにノエルが耳を塞ぎ、ジルジオは大人の対応で聞こえてないフリだ。イクシマが小声で邪神と呟いたので、ヤトノはそちらをジロッとだけにらんだ。

「まったく、失礼なんです……ですけど、今は御兄様がいる間は大丈夫なんです。わたくしが、ぜーったいに反対しますんです」

 やはり太陽神は世界を見守る偉大な存在だった。そう思ってアヴェラは太陽神に感謝と尊敬の念を抱いた。ただし出てくる溜め息だけはどうしようもなかったのだが。

「それはそれとして泥も反対しておいてくれればよかったのに」

 前を行くジルジオが肩越しに振り向く。

「ほれほれ、アヴェラよ。ここは楽しく行くであるぞ。どうせ、やるこた変わらんのであるぞ。楽しまねば損であろうが」

「そりゃそうだけどね。この泥状態で楽しめる?」

「気の持ちようであろうが。こんな体験は二度としたくはなかろう? と言うことはな、これは二度と味わえぬ状況であろうが。そう思えば楽しくなってくるであろう!」

「凄い。なんてポジティブ思考なんだ……」

「人生、楽しまねば損である!」

 凄く元気で凄く逞しい。かつて毒殺されかけたとは到底思えないぐらいだ。逆に言えば、それぐらい慎重にせねば死なない存在だとも言える。


 イクシマはノシノシチョコマカ進み、足下の泥を撥ね除ける。背が低いため深みに嵌まれば命取りになりかねない。だが、全く気にした様子もなかった。そして実際そういった状況には陥っていなかった。

 死の加護で致命的場所が分かるのか、野生の勘で回避するのかは謎だ。

「たぶん野生の勘だな」

 アヴェラは呟いて辺りを見回した。

 何かの気配を感じている。気付けばジルジオも軽く肩を下げ身体の力を抜いているし、イクシマは戦鎚を構え直しノエルは転びそうになっている。

「っ!!」

 枯れ木の向こうから黒い突風が押し寄せた。そう思うほどの勢いで何ものかが迫り、腰間から煌めきが迸る。凄まじい勢いの剣撃だ。

 その一撃がイクシマを襲う。

 重い戦鎚では到底反応しきれず、イクシマはとっさに腕をかざした。腕一本と引き換えに、少しでも身を守ろうといった瞬間的選択だ。

 イクシマの腕が切り落とされ――なかった。

 激しい金属音と火花が散り、剣を弾き返したのだ。

「イクシマ!」

 アヴェラが突き進みヤスツナソードで薙ぎ払い、追撃からイクシマを庇った。そして相手と対峙し目を見張る。

 薄汚れた外套に身を包んだ相手は、誰あろうケイレブだったのだ。

「そんなっ!?」

 驚愕の声を上げたアヴェラだったが、しかし同時に容赦なく斬りつけている。

「待て待てーい、そやつはケイレブ教官殿じゃろうがぁ!!」

「だからだ。余裕なんてみせられる相手じゃないだろ!」

「じゃっどんなぁ!?」

「周りを見てから言え」

「んーっ? なんじゃとぉ!!」

 枯れ木の向こうから三人現れた。いずれも隙のない身のこなしをしており、相当な実力者だと分かる。

「ふーむ、上級冒険者の連中であるな。見覚えがあるぞ」

「そうすると調査か対応に来て、逆に寄生されたってことかな」

「であろうな。かーっ! 情けない連中であるなぁ」

「お陰で大ピンチかな」

「いや、そうでもなさそうであるぞ」

 ジルジオは油断なく斧槍を構えているが、口調は少し気楽そうなものだった。その理由は直ぐに分かる。ケイレブたちは一斉に飛び退いたかと思うと、後退していったのだ。


「退いた? どういうこと?」

 アヴェラの呟きにジルジオは楽しそうだ、それも凄く。肩に載せた斧槍の先を軽く回して笑っている。

「これまでの相手の動きを考えれば分かるであろう?」

「どういう……ああ、そういうことね」

 これまで相手はアヴェラの関係する先にちょっかいを出してきた。それは取りも直さず、アヴェラに対して強い対抗心があって意識しているということだ。ここで自分の操る戦力を誇示してみせ、さらには親しいケイレブを支配下に置いていると示したかったのだろう。

「焦らせたり、悔しがらせたいわけだ。それにしては、随分と稚拙なやり方だ」

「で、あるな。もし儂がやるなら――」

「そう? 確かにそれもいいけど、やるなら――」

「ふうむ、そういうのもあるか。なかなか分かっておるな。であれば――は?」

「確かに効果的だよ」

 ヤトノは感心しながら頷いて余計なことを学習しているが、祖父と孫の心温まる会話にノエルとイクシマは恐怖しているぐらいだ。

「二人とも、やめようよ。そういうのって、考えるだけでも良くないんだよ」

 一行の良心とも言えるノエルの訴えに、盛り上がっていたアヴェラとジルジオは我に返り、誤魔化すように咳払いをした。

「まあ嫌がらせみたいなものだね、相手にしないのが一番だ。でもまあ、恨みだか嫉妬だか知らないけど、何もしてないのにそういうの向けられるのか……」

「人生とは得てしてそういうものである」

 ジルジオは表情を引き締め、ようやく人生の先達たる祖父らしい顔をした。

「誰かがどれだけ努力し苦労しようとも、それを理解も想像すらせず、ただ相手の成果だけを見て嫉妬する奴はおる」

「そうだろうね」

「もちろん嫉妬することは良い。当然の気持ちである。だが、嫉妬だけで終わる奴は何も掴めず終わる。大事なのは嫉妬を糧に己が何かを掴むことであるな」

「爺様……」

 大公までやったジルジオだ、嫉妬どころか怨嗟の感情も多数向けられたに違いない。そして、そうした者の末路も多数見てきたのだろう。

「ま、そういう奴らの前で思いっきり見せびらかしてやるのは最高の気分であるがな! はーっはっはっはぁ!」

 辺りに響く高笑いが、皆の間に芽生えかけた尊敬の念を蹴散らした。

 アヴェラは溜め息一つの後で、側に居たイクシマを見やった。先程の奇襲で危うい目に遭っていたことを心配してだ。

「よく大丈夫だったな」

「うむ! 我も駄目かと思ったぐらいじゃ」

「でも上手く防いだ。と言うか、弾き返してたな」

「これじゃ」

 一部裂けた袖をまくり上げると、そこには金属製の腕輪があった。

 簡素な腕輪に見えるがしかし、よく見れば薄らと波打つ模様があり、さらには表面には微細な煌めきがまぶしたように存在していた。

 名品を見慣れたジルジオが感嘆するので、間違いなく素晴らしいものだ。

「シュタルの奴に貰っとったんじゃ」

「なるほど、シュタルさんの作なら当然か」

 ドワーフの名工鍛冶で、その制作品の凄さはアヴェラたちも理解している。今回もそれに救われたというわけだ。

 しかしイクシマは泥が散るのも構わず足を踏みならした。

「くっそー! ドワーフなんぞに借りが出来てしまったんじゃって。ええい、腹が立つ。今度、甘い物をいーっぱい届けてやる」

「ドワーフなら酒だろ。なのに甘い物とか、嫌がらせか?」

「いんや。あやつ、あれで甘いもん大好きなんじゃ」

「さいですか」

 何だかんだでイクシマとシュタルは仲良しらしい。

 陰鬱な地を進んで行くと、ようやく枯れた木々の向こうに開けた場所が見えてくる。もちろん、そこに並ぶ人影も確認出来た。

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