第222話 友達のために
貴族街にある大きめの通りは幅広で、馬車が余裕で二台三台も並んで走れるほどだ。歩道もあり、日除けの為の樹木もあって景色が良い。そうした道の舗装は丁寧で敷かれた石に凹凸も殆どなかった。
辺りは賑やかしくはないが閑散とはしておらず、散策中の貴婦人や子弟の姿がちらほらとあり、蹄の響きも規則正しい馬車が何台も通り過ぎていく。
そんな場所に集まっている人の姿がある。
ノエルやイクシマ、そして第三警備隊の者たちだ。先に第一警備隊詰め所から戻ったビーグス、ウェージから状況のあらましを聞いており、皆が皆、憤りと共にモサリの身を案じて待機していた。
「むっ戻って来よった」
やや向こうにある第一警備隊の詰め所を指さしイクシマが言った。真っ先に見つけたのは、いつアヴェラが戻るのかと、じっと見ていたからだ。駆けだして迎えようとするが、場所が場所だけにノエルに引き留められている。
まるで飼い主を待つ犬のように、そわそわするイクシマだったが、やって来たアヴェラを見てギョッとして目を見開く。
「ど、どしたん?」
何故なら全く予想外なことにアヴェラが涙を流していたからだ。ほぼ無表情な顔に涙だけを伝わせている。今まで見た事もない状態に、イクシマはあわあわとした。
「何かあったんか? いやいやどっか痛いんか? そうか、お腹が減っておるんじゃな。うむ、分かるぞ。我の持っておる甘いもんをやろうぞ」
「イクシマちゃん、ちょっと待って。多分それ違う」
「じゃ、じゃっどん。こやつが、こんな泣くなんておかしかろうが」
「そうだね、おかしいよね。つまり、そういうおかしい事があったんだよね」
「モサリに何かあったんか!?」
察しの悪すぎるイクシマはさておき、警備隊の皆も訝しげな顔で心配そうにアヴェラに近づく――しかしアヴェラは足を止めると、手を上げる仕草だけで皆の動きを制した。
何かを言いかけたノエルは小さく息を吐き肯いた。
「ごめん、イクシマちゃん。もっと道の端に行こう。あと警備隊の皆さんも、そうして下さい。うん、アヴェラ君の為に」
ノエルのそれは穏やかだが有無を言わせない口調だった。
そうした気遣いにも意識が向かないまま、アヴェラは通りの真ん中に行った。何台かの馬車がそれなりの速度で通っているが、そんなことは気にもしない。
「…………」
詰め所のある方を向き、軽く両足を広げ立つ。
両手をだらりと下げ身体の力を抜いた姿勢。どこか遠くを見つめるような顔は虚脱したようにも見えるかもしれない。だがそこには、静かだが得体の知れない迫力があった。
道行く人が思わず足を止め見ている。通りかかった馬車を引く馬が足を止め、しかし御者も気圧され動かない。もちろん第三警備隊の皆も、ノエルやイクシマでさえも。
間違いなく、これから何かが起きる予感が強く張りつめ――そして第一警備隊詰め所から大きな声や音が聞こえてきた。
「むっ!?」
真っ先に気付いたのは聴覚に優れるエルフのイクシマだった。
声や音は大きくなり、距離があってもはっきりと聞こえるようになる。複数の怒声や、金属が打ちつけられ木板が破砕される騒動の音だ。続いて、それらを圧倒するほどの咆吼が轟いた。
辺りの人々は驚き、何事かと詰め所の方に顔を向けた。しかしアヴェラは全く表情も姿勢も変えないまま、ただ立っている。
「なんなん……?」
「分かんないけど良くない予感だけするよ、うん。それに何だろう、私の加護の気配がする。ううん? そうじゃないよ、私の加護だけじゃない気がする」
「我もじゃって。我の加護の気配もなんでかしらん強いんじゃが、そう、それだけでないぞ。何か知らんが、何か知らんが。上から何か、何かを感じよる」
「うん、これってもしかして視線? 何で? 空から誰かがいっぱい見てる?」
「じゃっどん、空から視線ってなんぞ――」
意識を空に向けていたノエルとイクシマだったが、一際大きく轟いた音に驚き跳び上がった。
詰め所の外壁が内側から弾け飛んだ。破片を飛び散らせ、もうもうとした埃と共に巨体が飛びだした。距離はあるが、しかし直ぐに分かる。
「えっ? あれってモサリ君……?」
「なんちゅう力なんじゃって、いやしかし何でモサリがあんなことするん?」
路上に飛び出したモサリは勢い余ってか、ごろごろと数回転がってから立ち上がった。後を追って飛びだしてきた警備隊の者を気にもせず辺りを見回すと、両手を力強く掲げ、空に向かって大きく咆える。
舞い上がる埃が日射しに照らされて煌めき、その中に立ったモサリの巨躯は雄々しく逞しく見えた程だ。
モサリは漂う埃を押しのけながら向きを変えた。
その先に立つのがアヴェラであり、二人は距離をおいて対峙する。見つめ合うのは僅かな間で、モサリは再び両手を掲げ空に向け咆えた。
アヴェラは冷静だった。
心は落ち着いて感情の波もない。ただ、何も感じてないのではなく、無理矢理に抑えているだけだ。詰め所でモサリと話をした後から、ずっとそうしている。
その抑えきれない部分が涙として零れたのだ。しかし今はもう涙も止まって、頬を伝った跡が乾いてぱりぱりしている。
咆え終わったモサリが手を下げた。
横手から飛びだしたドッカーノ家の配下に槍で突かれているが、そちらなど少しも相手にしていない。
モサリは力強く石畳みを踏みしめ走りだした。
瞬く間に速度をあげ向かってくるが、オインクの血を引く巨躯だからというだけでなく、全身に行き渡った力による強い迫力があった。
その後ろを第一警備隊の者やドッカーノ家の配下が剣を手に追いかけ、辺りではようやく我に返った人々が悲鳴をあげ逃げ惑い叫んだり転んだりしている。
大騒動だ。
だが、アヴェラは平静だった。
僅かに視線をあげモサリと目を合わせ――そこに親しみと笑みを見つけて覚悟を決め、友達であるモサリの願いを叶える為だけに意識を向ける。
息を吸って吐いて吸って吐いて吸って止める。
心を極限にまで研ぎ澄ませ集中しきった瞬間、頭の中が冴え渡り世界の全てがゆっくりとした動きに変わった。
緩慢な世界の中で左手を鞘、右手を柄に。石畳みを蹴って前へと跳ぶ。そのまま駆け抜けモサリと擦れ違い、抜き身の剣を斜め前に突きだし足を止めた。いつそれを抜き、そして振ったのか誰にも分からなかっただろう。
アヴェラの背後でモサリが倒れ、願いの通り一切の苦痛もなく命を失った。
「…………」
アヴェラは静かにヤスツナソードを鞘に収める。第一警備隊の裏庭でモサリが告げた言葉が思い出されていた。
『な、アヴェラどんや。おら死ぬのは恐くねえんだ。でも痛いのは嫌なんだな。殴られんのは慣れてっけど、やっぱ痛いのは嫌なんだ』
モサリは人生を諦観していた。
それでもアヴェラと一緒に笑ったり楽しんだりしていたが、自分が何者にもなれず何も得られず、人並みの幸せも得られず都合良く利用され、搾取される存在だと気付いていたのだ。
ダチュラに呼び出され利用された時に気付いたのか、考えたくはないが、それともアヴェラと触れ合ったことで気付いたのかもしれない。
だが何によせ、その理不尽をバネに生きられるほどモサリは強くなかった。
『だもんでな、一撃で終わらせてくんねえか? アヴェラどんなら出来っだろ。なあ頼むよ。おら、おっかさんのとこに行きたいんだ』
アヴェラはモサリの心を理解出来ない事もなかった。なぜなら、前世の自分が似たような事を考えていたのだから。いろいろな事を諦め、しかし他人を羨むことにも疲れ。さりとて自分で終わる勇気もないまま、どうする事も出来ない袋小路のような日々を生きねる辛さ。
それが分かるだけに、アヴェラはモサリの願いを拒否できなかった。
「…………」
立ち尽くすアヴェラの横を通り過ぎ、ドッカーノ家配下の者たちが倒れているモサリに駆け寄った。
「くそっ! 死んでやがる」
「なんだこいつ、幸せそうな顔で死にやがって! どこまでもムカつく」
「そんな事より手がかりだ。これで手がかりが無くなってしまった」
「吊せ、柱に吊してダチュラの野郎への見せしめにするぞ」
モサリに手をかけようとした相手に、アヴェラはヤスツナソードを抜き放って突き出した。剣を向けられた相手は最初戸惑い、続いて怒りを見せたが、アヴェラの目を見て黙り込んだ。
「触るな」
アヴェラの声は静かな迫力に満ちている。
「触れる事は許さない」
「貴様は何を言って……」
「ちゃんとした場所に埋葬する」
「こいつは罪人だ。そんな事は許さん! 腐るまで吊して晒す!」
「…………」
アヴェラの目が細まった。
だがアヴェラが動く前に、第三警備隊だけでなく第一警備隊までもが、ドッカーノの配下を追いやりモサリの周りを囲んだ。
しばしの睨み合いの後、ドッカーノの配下は逃げるように去って行った。
「坊ちゃん、見て下さいよ。モサリの奴、良い顔してますよ」
モサリは詰め所の壁こそ壊したものの、誰にも怪我を負わせていなかった。
そして皆がアヴェラの事をよく知っている。どんな性格で、どんな考えで、どんな事をする人間なのかを。そして直前の状況も見ているため、大凡のことに気付いたのだろう。
「そうですよ。こんなに良い顔で死ねるなんて、羨ましすぎでしょう」
倒れたモサリの顔は腫れあがり血だらけだったが、同時に子供のように穏やかで嬉しそうなものがあった。警備隊全員が集まり、隊の者が命を落とした時の伝統に則り全員でその遺体を担ぎ上げた。
「後は任せて下さいよ、坊ちゃん」
「坊ちゃんは少し風に当たってくるといいですよ」
「そうそう、まだやるべき事があるでしょう」
「モサリは俺たちの仲間だ」
口々に言われる言葉に、アヴェラは唇を噛みしめた。そしてノエルとイクシマに付き添われながら歩きだす。カルミアとダチュラを駆け落ちさせるために。
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