第97話 安寧なる闇のひととき
圧倒的な情報――主に苦痛――によって、アヴェラの意識は圧せられていた。
それらがあまりにも強すぎるが故に他の情報が処理しきれず、五感で得られる情報さえも、遙か遠くの出来事のように上滑りするばかり。渦巻く意識は断片的となって、自己の認識ですら曖昧。まるで夢の中をもがくように蠢き浮き沈みをする。
時間の感覚さえ分からず、今が永遠にも一瞬にも思えてしまう。
と、そのとき――新たな情報が、そっと心そのものに触れてきた。
圧倒的で絶対的な存在感にアヴェラの意識は塗りつぶされていく。苦しくも痛くも寒くも熱くも苛酷でも辛くもなく、何か大いなる優しさに包み込まれるかのようだ。それができるのは、あらゆる苦を持たぬ存在か、もしくは逆にあらゆる苦を持つ存在のどちらかだけだろう。
その存在が何であるか認識した――そう思った瞬間に、意識が鮮明になった。
「っう……」
アヴェラは呻きをあげ身を起こした。片手で顔を押さえ、何度も荒い息を繰り返す。夢の内容を覚えていないように、自分が認識したと思った何かも霧散している。
目が覚めた世界は騒々しかった。
些細な風の音に燃える木や湿った土の匂い、口の中に感じる鉄っぽい血の味。通常感じられるそれだけではない。もっとあらゆるものを感じている。
血流や臓器の音に、伸び縮みする肌や肉の感覚。視覚は明瞭にあらゆる枝葉の一枚ずつまでが識別でき、明度も色調もが何段階にも細分化で見える。口に含んだ空気にも味があり、多種多様な土や水や木や火の匂いまでもを微細に感じている。
本来であれば重要度によって取捨選択され、除外されるべき事象さえも認識しているのだろう。どうやら再起動したばかりの意識は、知覚が一時的に初期化されているらしかった。
とはいえそれも、少しずつ最適化されていく。
騒々しい世界も静まり穏やかとなって、五感の全てが殆ど平常状態に戻った。
「気分はいかがですか?」
そのタイミングを見計らっていたように優しい声が投げかけられた。慣れ親しんだ声に感触に匂いはヤトノのものである。上から覗き込んでくる様子から、自分が膝枕をされ寝かされていると気付いた。
「残業続きでヘロヘロになった時に、無理矢理参加させられた忘年会でインフルエンザをうつされたあげく年末年始を潰された時のような気分だな」
「妙に具体的ですが、ヤトノには何が何だか分かりません。ですけど、辛いのは分かりました。さあ、もう少しお休みしましょうね」
「そうする……」
アヴェラはそのまま向きを変えヤトノの腹部に顔を押し付けた。
そこに変な意図は存在しない。ただ優しい匂いに強く感じ、暖かな心地よさを大きく味わいたいだけだ。自分が守られているという絶対の安心感が高まっていく。呼吸によって穏やかに動く感触に心が安らぎ癒され、そのまま蕩けてしまいそうだ。
ふと涙すらでてくる。
「御兄様、泣いているのですか。まだ辛いのです?」
「違う、そうじゃない。気にしないでくれ」
「分かりました、気にしません」
「しばらくこのままでいて欲しい」
「はい、喜んでいつまでも」
泣いたのは――嬉しかったから。
前世の自分はどこまでも孤独で、抱き締めてくれる相手は元より、抱き締める相手もいなかった。何にもなれず何も得られず、自分が不出来で劣って人として何かが欠けていて、だから誰からも相手にされないのだと思いながら生きて死んだ。
今は違う。
こうして守ってくれる存在がいて、愛してくれる家族がいて、頼れる仲間がいる。だから安心出来る温もりに包まれていると、心の奥底にへばりついた寂しさが和らいでいく。
アヴェラは微睡むように憩い、そしてふと思い出したのは覚醒前に認識した存在はヤトノによく似た気配であったという事だ。
◆◆◆
どれぐらい微睡んでいたのか。
大きな葉擦れや地面を踏みしめる音にアヴェラは反応した。気怠げに向きを変え目を開くと、闇夜にも目立つ金髪のイクシマの姿がある。ノエルも一緒だが、何故だか二人とも気まずげな顔をしているように見えた。
「なんじゃ起きたんかー。調子はどうなんじゃって」
「ああ、何とか。迷惑をかけた」
「気にせんでええって。うむうむ、お互い無事でよかったってもんじゃ」
「そうだな。ところで二人してどこか行ってきたのか?」
「にゅっ!?」
途端にイクシマは変な声を上げ、ノエルと一緒になって背筋を伸ばした。
「べ、別に大した用事なんかじゃないんだよ。うん」
「そ、そうじゃぞ。気にするでない! ちっと水辺に行っただけなんじゃって!」
「あっ、水辺って言ってもさ。本当に大した用事でないんだから」
「まったくもってその通りぞ。少し洗っただけなんじゃ」
「イクシマちゃん、少し黙ろっか」
「す、すまぬ」
イクシマはノエルにポコスカ叩かれ謝っている。
何か分からぬが何かの事情があることは、ヤトノの含み笑いを見るまでもなく分かった。とりあえずアヴェラは女性の行動を詮索しないことにした。下手に詮索すればセクハラとなるどころか、女の敵認定され抹殺されるのだ。
前世が孤独だっただけに些かこじらせた感想ではあるが、あながち間違っていない処が恐いところだろう。
「無事に、いや無事とはあまり言えぬが……とーにーかくー、無事に済んで良かったってもんじゃ、うむうむ」
「そうだな。朝までには本調子に戻ると思う」
「むっ、そうか。であれば、仕方がないのう。どれ我が世話してやるんじゃって」
調子よく差し出されたイクシマの手をペシッと払ったのはヤトノだ。威嚇するような目付きで睨み、アヴェラをしっかと抱え込んだ。
「御兄様のお世話は、このヤトノの役目なのです。小娘は引っ込みなさい」
「誰が小娘じゃあああっ! 我がこ奴の世話をしたっていいじゃろが」
「ダメです。わたくしは365日24時間御兄様のお世話をするのです。最期まで介護もしっかりして看取った後は、魂をお守りして未来永劫ともにあるのですから」
「なんか重おおおいっ!」
うっとり頬を染めるヤトノにイクシマは恐れおののいている。
「失礼な、どこが重いのですか。普通なんです普通!」
「どこがじゃあああっ!」
怒鳴り合う両者の間でアヴェラは揺さぶられ、もはや安らぐどころではない。まだ万全では無い体調がみるみる悪化し、顔から生気が失われ土気色となっていく。
瀕死にトドメを刺すような行為にノエルは両手を腰に当て鋭い目付きとなった。
「こらっ! 二人とも止めなさい! アヴェラ君が苦しんでいるでしょ」
それはまるで、子犬の取り合いをする妹たちを叱る姉のようであった。
やや回復したアヴェラはまだ蹌踉めきつつ立ち上がった。
それにノエルが手を貸すのだが、ヤトノとイクシマはシュンッとなって膝を抱え見ているだけだ。
「あんまりさ、無理しない方がいいって思うよ」
「すまない。迷惑をかける」
「とんでもないよ! 私なんて全く役に立ててなかったからさ、これぐらい当然」
「そんな事はない。あの死霊との戦いを乗り切れたのは、間違いなくノエルが援護して戦ってくれたからだ。だから役に立たなかったなんて言うもんじゃない」
「……うん。ありがと」
はにかむノエルの助けを借りつつ向かうのは、イクシマが描いた魔法陣の元だ。死霊の王の登場で有耶無耶になってしまったが、しかしそこに記された文字を確認したかった。
ヤトノは人には識字できない文字と言っていたが、やはり普通に読む事が出来た。
「…………」
改めて見ると知らない形状をした文字であると分かった。
だが、何故か読むことができる。人には識字出来ない文字と言うのであれば、逆に言えば人でなければ識字できるという事のような気もする。なんにせよ、知らない文字を読めるという奇妙な状況は、何とも得体の知れぬ気持ち悪さがあった。
もっと詳しく確認しようとアヴェラは膝をつき、魔法陣を覗き込む。そして手の触れた地面に何故か湿った感触がある事に気付いた。
前はそんなものはなかったはずだ。
「ん? なんだこれは」
「どうかしたの」
「何故か分からないが、この辺りの地面が妙に濡れていてな」
「えっ?」
横から覗き込んだノエルであったが、ふいに大きく目を見開いた。
「……あっ、あああっ!? そこっ?」
「ふぁあああああっ!」
ノエルとイクシマは気付いた。
そこがヤトノの放った厄神の気配に畏怖し、自分たちがへたり込むように座っていた場所という事に。だから、どうして濡れているのかといった理由も実によく知っている。
「なんだ?」
しかし何も知らぬアヴェラは訝しがり手を鼻元に近づけ――。
「駄目ええええっ!」
「止めんかあああっ!」
ノエルとイクシマが突進した。
両者の顔が焚き火の光に照らされているせいか、妙に真っ赤だ。そのまま両手を突き出しアヴェラを思いっきり突き飛ばした。
まだ体調が万全でないアヴェラは脆くも吹っ飛ばされ、顔面から地面に倒れ込んだ。体力の限界で気絶してしまうのだが、意識が途切れる前に、ヤトノが悲鳴のような声をあげている事だけは分かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます