第82話 一歩進み二歩戻る
大質量の水が流れ落ちる響きが遠くから聞こえる。
足元は吊り橋の板があるものの、そこから遙か下の水面までは何もない。前世の映画やアニメであれば、たとえ高所から落下しても盛大な水飛沫があがるだけ。落ちた人物は無事である。しかし実際は高所から落ちれば水面は固い岩と同じになる。
だからアヴェラも落ちていたら、まず助からなかっただろう。命冥加と思いつつノエルとイクシマに深く感謝した。
それから、ようやく気付いた様子で傍らへと視線を向けた。
「どうした?」
ヤトノは両手を板につき、前のめりとなってアヴェラを覗き込んでいる。その目は瞬き一つせず、ただただ見つめてくるばかりだ。そこには形容しがたい異様さが漂っている。
まるで何者かがヤトノの目を通し眺めている雰囲気がある。緋色の瞳を真正面から見つめ返せば、その奥に何者かの存在を感じ目が合った気がした。
だからアヴェラは微笑んだ。
「……はっ!? どうなされました御兄様、このヤトノに何か御用でしょうか」
我に返ったヤトノは戸惑った様子だ。今の状況がなんであったのか、ヤトノ越しに見ていた相手が誰かをアヴェラは察したが、それ以上は気にしない事にする。おそらく、それが一番いいに違いない。
「さっきは助かった、ありがとうな」
アヴェラは静かに礼を口にした。
「調子にのって足元をすくわれないようにしないとな」
「御兄様は注意深いようで、時々調子にのってしまいますから」
「耳が痛いな」
「わたくしは昔から見ておりましたから。御兄様が食べ過ぎて苦しんでしまったり、子犬を捕まえようとして親犬に追いかけられたり。あとそれから――」
「やめんか」
アヴェラはヤトノの口を強制的に黙らせた。
つまり抱え込んで、その口元を手で押さえたのだ。それでも話そうとするので、もごもごと動く口元がくすぐったい。温かく僅かに湿る吐息に、ほっとする。
そしてアヴェラは反省していた。
物事は順調に進み周囲からも評価され、優れた剣を手に入れ頼れる仲間たちも得て全てが順調に進んでいた。だから自分が創作物主人公のように成功が約束されていると勘違いし調子に乗っていたかもしれない。
現実はそんな事など少しもないというのに。
「でも、これから気を付けるよ。ヤトノと別れるなんて嫌だからな」
「…………」
アヴェラの言葉にヤトノは、ますます何かを言おうとしている。それも激しくで、目を見れば喜びに満ちて悶えているぐらいだ。
「うむ、何はともあれアヴェラが助かって良かった!」
イクシマが足場板にどっかりあぐらをかくと、戦槌を杖のように立てた。自らの長い金髪を束に掴み、ぱたぱたとおどけたように振ってみせる。それなりに場の雰囲気に配慮したらしい。
「じゃっどん、あの剣は落ちてしまったのう」
「確かにな。さすがに、このダガーみたいには戻って来ないか」
アヴェラは両刃のダガーを抜き放ち、指先で摘まんでブラブラとさせた。このスケサダダガーは、呪いの効果によって必ず所有者の手元に戻る特性がある。このフィールド到達時に水面へと落下させてみたが、実際にしっかりと戻って来た。
何か言いたそうなヤトノのため手を退けてやると、自信たっぷりに宣言している。
「大丈夫です、必ず戻って参りますので」
「ヤスツナソードの呪いには、そんな効果はなかったはずだろ」
「ありませんが、あれには本体の強い呪いがかかっております。そして御兄様とわたくしの間には強い絆があるのです。ですから、いずれ必ず御兄様の手元に戻って参るのは間違いありません」
「今すぐ戻ってくると嬉しいんだがな、主にお財布的に」
アヴェラが冗談めかし肩を竦めれば、ヤトノは白い袖で口元を押さえ笑った。
「すいません、わたくしと同じく奥ゆかしいので」
「ふんっ、小姑が何を言うておるか」
「誰が小姑ですか、この小娘。文句でもあるのですか」
「だから小娘言うなー! ちょっと言っただけではないかー! 無礼なんじゃぞ!」
「小娘小娘小娘小娘小娘小娘小娘小娘」
「こっ、この小姑がー。何度も言いおったな!」
「しゃー!」
「がぁー!」
両者は顔を突き合わせ、飽きもせずいつものやり取りをしている。仲が悪いと言うよりは、身内同士のじゃれ合いみたいなものだ。どちらも威嚇のポーズ以上の事は何もしていない。
そちらは気にせず、アヴェラは軽く身を乗り出すと湖面を見やった。
当然だが、落ちた剣の姿はどこにもない。水中には都市が存在するのだが、それは建物の大きさが指先ほどに見える高さと深さなのだ。落ちた場所を見ていればともかく、どこかに落ちた剣一本を探すのは不可能に近いだろう。
もっとも場所が分かっても回収できるかどうかは、また別の話なのだが。
アヴェラが目を凝らし見ていると、その身体が引き戻された。
「あのさ、落ちると危ないからダメだよ」
「もう大丈夫だって」
「ダメ、絶対にダメだから」
「……分かったよ」
ノエルの言葉は穏やかだが、なにか逆らえないものがある。だからアヴェラは肩を竦め素直に頷いた。
「足場がしっかりしておると良いのう」
不安定な吊り橋の上から移動し、ようやく木の幹周りの安定した足場へと移動。そこで改めて座り直すと、持って来た携帯食料を囓りだした。
「さて、これからどうするかな」
アヴェラは幹を背にすると、空中からの攻撃を警戒している。真上を見上げると、かなり上に吊り橋が確認でき、さらには青々とした樹形が確認できた。
目の前で胡座をかくイクシマが訝しそうに眉を寄せた。
「どうするって、どういう事なんじゃ? 今日はもう戻るしかあるまいて。お主も剣を失のうたわけじゃし、我らも戦える気分ではないぞ」
「それは当然。そうでなくて戻ってからの話で、剣をどうするかって事だ。いずれ戻ってくるらしいが、今は手元にないだろ。何か替えを用意しないとダメだから、困ったなってことだ」
肩を竦めアヴェラはぼやいた。
先程言ったようにお財布の問題もあるが、あれ程の名剣を使用した後となると並の剣では満足出来ないことは間違いない。
「なんじゃ、そういう事か。よし、そんなら我の金棒ちゃんを貸してやろう。じゃっどん、棒の扱いに慣れておらぬなら仕方ない。この我が親切丁寧に教えてやろうではないか。うむうむ、感謝は不要じゃぞ。パーテーの仲間を助けてやるってのは当然というものじゃからな」
かんらかんらと笑うイクシマにアヴェラは手をパタパタ横に振る。
「いや、それ止めておく」
「なんでじゃっ! 何が不満なんじゃっ!」
「あれ重いだろ。戦闘で武器として使えるかは分からんし、持ち運ぶのも疲れるだろうが。と言うかだな、なんであんなの振り回せるんだ? ちびっ子エルフのくせに」
「誰がちびっ子エルフじゃあああっ!」
イクシマは顔を真っ赤にして喚いたが、アヴェラはあっさりとスルー。顎に手をやり考え込めば、放置された金髪エルフは不満そうで少しだけ寂しげな様子だ。
「またコンラッドさんに頼るのもどうかと思うし。さてどうするか……」
「別に頼れば良いって、私は思っちゃうけどさ。どうして悩むの?」
「相手は大商人だろ。甘い汁を吸おうと擦り寄る連中は多いからな、あまり頼ると同類に思われかねない。そういうのって、何か嫌じゃないか」
「うーん、アヴェラ君に対してはそう思わないんじゃないかな」
ノエルは腕組みしながら軽く首を傾げ、何度か頷いたりなどする。その様子は普段通りに思えるが、ただ少しだけ距離感が近い気がした。
「ここは剣を諦め、マジックユーザーとして魔法主体で戦うというのも――」
たちまちノエルが反応した。それも、とても強く。
「ダメ! それ絶対にダメ!」
「だったら魔法剣士とか」
「アヴェラ君は魔法なんてダメなんだから!」
「なんだよ、そんなに強く否定しなくても……」
不満そうなアヴェラに、しかしノエルは厳しく否定する。
「本当の本当の緊急時以外は、アヴェラ君は魔法を使ったらダメだから。分かった? 私との約束だからね」
「それ、我の台詞……」
不満そうなイクシマに、しかしノエルは少しも気にしない。
「そうだよ、コンラッドさんに頼るのが嫌ならさ。ここはニーソちゃんに相談してみようよ。何か良い武器があるかもだし。分かった?」
「ああ、分かった……」
凄い勢いにアヴェラは渋々頷くしかなかった。
きっとノエルのファインプレーに神々もニッコリに違いない。なにせアヴェラが魔法を使えば、下手をすると世界の法則が乱されかねないのだから。
「我とも約束じゃぞ……」
イクシマが小さく呟いている。
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