第81話 油断大敵雨霰

「少し足場が広くなったか?」

 アヴェラは足元の板を踵で打ってみせた。

 下に降りてきたせいか木の幹は気持ち太さを増しており、表面にはごつごつした樹皮が現れている。さらに蔦や苔などが疎らに存在する。

 それらに触れるとヤトノが良い顔をしなかった。

「御兄様、あまり近づかないで下さいまし」

「毒でもあるのか?」

「いいえ、汚れますとお洗濯が大変です」

「あっそう」

 肩を落とすと、しかしヤトノは憤慨したように長い袖をパタパタ振ってみせた。

「お召し物が汚れるのは仕方ありませんが、わざわざ汚す必要はないのです。御兄様のお洗濯をする特権はヤトノのものですが、しかし常に身綺麗でいて頂きたいというこの相反する気持ち。お分かりになりませんか!?」

「知らん、分からん」

「なんて冷たい言葉……そんなところも素敵!」

 袂で口元を隠したヤトノは悶えているらしい。冷たい言葉に喜びを見いだしているようだが、これでもしアヴェラ以外から同じ言葉を投げかけられたとしたら、即座に相手を呪って後悔させるに違いない。

 じゃれ合いの横で、イクシマは辺りを見回した。

「あっさり下に来たんは良かったが、しかし不安になるのも事実よのう」

「そうだよね、うん。上手く行くと何か起きそうな気がするよね」

「いんや、我はモンスターが強くなりそうで不安なんじゃが」

「てっきり私の不運のことかと思ったけど、確かにそれもあるね」

 探索地点は不思議なもので、転送地点から離れるほど強力な個体が出現する。

 同じ種族のモンスターであったとしても、力強く素早く頑健になっていく、それがこれまでの経験によるものだ。だから、早く進めば進むほど、それらに対抗する事が難しくなり全滅の危険性が膨らむ。

 故に一般的なパーティは危険を感じた時点で先に進むのを止め、安全マージンを取って手頃な探索地点で実力に見合ったモンスターを相手に稼ぎだす。その見極めが出来ないパーティは分不相応な場所に突入し、やがて全滅し姿を消してしまうのだ。

 そうしてみると、さっさと進んできたアヴェラたちは異常とも言える。

「まあ、我らはこう見えて良いパーテーなんは確かじゃでな。力は我で速さはノエルが担当、そんでもってアヴェラもおる。そうそうは負けんってもんじゃ!」

「油断する気はないけどさ、確かにそうだよね」

「倒せば倒すほど稼ぎが良くなる。ノエルよ、お主の為にも稼ぐぞよ!」

「ありがとっ、でもだからって無理はしないんだよ」

「もちろんじゃって。邪魔するモンスターは我が全部打ち倒してくれよう!」

 威勢の良いイクシマの声を聞きつつ、アヴェラはヤスツナソードを抜き放った。切っ先を下に向け柄の先を軽く手首に当て、重さを分散しながら構えておく。抜き身を長時間持つのであれば、これが一番楽で即応性もある。

「御兄様、どうされました?」

「別に大した事はないけど。油断しないでおこうと思って」

「なるほど」

 その言葉にヤトノは含み笑いをした。

 イクシマたちの会話を聞いた上での反応だと見透かしたのだろう。そして見透かされてしまったアヴェラは軽く照れつつ吊り橋に足を踏みだした。


 どこからか唸るような低音が聞こえてきた。

「ん?」

 振り向いた瞬間、視界に何かの存在を確認した。だが、それは黒く大きな塊と分かる程度の一瞬でしかない。殆ど反射的に手にしていたヤスツナソードで払いのけた。斬ったという手応えがあると同時に、しかし目も眩むような重い衝撃を胸に受けてしまう。

「っ!」

 アヴェラの身体は大きく跳ね飛ばされた。

 吊り橋を支える太蔓に背中からぶつかると、手から弾き飛ばされたヤスツナソードがキラキラと光りを反射しながら下へと落ちていく。そしてアヴェラ自身も、それを追うように吊り橋の上から逸脱し――。

「絶対に駄目っ!」

 誰よりも早くノエルが飛びついた。

 落ちそうな身体を吊り橋の上へと繋ぎ止めるのだが、しかしそれで止めきれるものでもない。一緒に落ちていくが、それでも絶対に放そうとはしない。幸運にも――恐らくノエルの天運が発動したのだろうが――背嚢が太蔓に引っかかり、転倒が一瞬だけ止まった。

「うわあああああああ!! はーなーすーなーーーーー!!!」

 追いついたイクシマがノエルを掴む。パーティの力担当を自認するだけあるし、そして火事場の何とやらもあるのだろう。普段以上の力を発揮しノエルを引き寄せアヴェラにも手を伸ばし、二人を掴むと顔を真っ赤にしながら渾身の力でもって吊り橋の上へと引きあげた。

 三人まとめてもつれ合うようにして足場板の上に転がる。

 まさに九死に一生であった。


 そして――ヤトノが吊り橋の太蔓の上へと跳び上がっていた。

 表情の全てが消え失せ、全身から禍々しい気配を放射している。怒りの感情を浮かべることをすら忘れるほど激しい感情が渦巻いているのだ。

 その視線が向けられた先には十数体の飛翔モンスターの姿がある。

 昆虫の蜂に似た姿は、頭部が赤く胴体は黒と赤の縞。高速で羽ばたく翅は霞んで見えるほどだ。それがアヴェラに激突し墜落させかけたものの正体だ。

「……虫けらどもが。滅しろ、存在するな。魂の欠片すら消え失せろ、しゃぁぁぁあああああっ!!」

 純粋たる力の奔流が放たれ十数体のモンスターを包み込んだ。空間すら抉り取られた場所は無となって、事象の地平面の如く神以外の存在には観測すら出来ない。綻びた空間が周辺から少しずつ修復されていき元通りになるが、後には何も残らずヤトノの言葉通りにモンスターたちは欠片すら残さず消滅していた。

 厄神としての力を解放したのだ。

 今頃は本体に苦情やら警告が殺到しているのだろうが――恐らく何の意味も無いだろう。なにせ神々の中でも最強最悪な厄神なので、他の神の言葉など一蹴してしまうのだから。

「アヴェラくん、大丈夫?」

「うっ」

 ノエルが揺り動かすと、アヴェラは小さく呻いた。

「今のは……何が起きた……」

 アヴェラはまだ状況を把握できていなかった。

 確かにモンスターを倒したと思ったところで、そのまま一撃を貰って目が眩み、後は天地が上下になったあげく、ヤトノの余波を受けたのだ。表情から生気が失われ、虚脱したぐらいとなっている。

 立ち上がろうとして尻餅をつき咳き込むが、その原因は勿論ヤトノである。


「お主は襲いかかってきたモンスターを斬り捨てた。じゃっどん、二つになった胴体の方がそのまんまの勢いで激突したってわけじゃ」

「なる……ほど……」

「無理に喋らんでよい、少し休むとよい」

 頷いたアヴェラは座り込み、数度深呼吸しながら心と体を整える。

 そのゲッソリとした様子をノエルとイクシマが心配そうに見ていると、ヤトノが身軽に太蔓から飛び降りると小走りで駆け寄った。今はもう泣きそうな顔だ。

「御兄様御兄様、御兄様。ご無事で何よりです」

「すまない、心配をかけた」

 言ったアヴェラは辺りを見回した。ヤスツナソードが無い事に気付き探しているのだが、ややあって手から空中へと弾き飛ばされた姿を思い出す。遙か下の湖へと落ちていったのだ。

「ああ、あれは湖に落ちたか。誰かに拾われる事がないのは良かった」

 少し安堵した口調となるのは、ヤスツナソードには極めて強い呪いがかかっているからだ。もしアヴェラ以外の者が何の対策もなしに手にすれば、たちどころに呪われてしまい破滅してする。しかし水中に没したのであれば、もう誰にも害を及ぼす事はないだろう。

「少しもったいない気がするが仕方ない」

「いえ、何の問題もありません。わたくしどもと御兄様は運命で繋がっておりますから。たとえ離ればなれになろうとも、必ず巡り会う事ができます」

「つまり剣が戻ってくると」

「はい、いずれ必ず」

 頷くヤトノの姿を見ながらアヴェラは腰のダガーに軽く触れた。もちろんそれも呪いのダガーで、必ず持ち主の元に戻ってくるという微妙に厄介なものだ。同じように突然に現れるのかと周りを見回していると、ヤトノは白い袖で目元を拭って笑みをみせた。

「そのダガーのような、品のない押しかけはしません。わたくしどもと御兄様とは運命なのです。いずれ自然に巡り会うものです」

「なーにが品のない押しかけじゃって。いつも押しかけでないか」

「なんですって! この小娘!」

「小娘言うなー、この小姑め!」

「しゃー!」

「がぁーっ!」

 咆え合うイクシマとヤトノを見やりアヴェラは吊り橋の上に座り込みながら軽く笑った。震える手でポーションを飲もうとして上手くいかない。

「任せて、飲ませてあげるから」

 ノエルはアヴェラの手からポーションを取り上げると、まるで重病患者を介抱するように抱きしめ、そっと口元に運び飲ませてやる。その後は両手でしっかり抱きしめ頬を載せ目を閉じた。

「良かった……」

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