第68話 水を汲むのも楽じゃない

 昼と夜が入れ替わる時刻。

 来た道を振り返れば、そこには茜色としか言いようのない空がある。そこに白い丸穴が開いたような太陽が存在し、黒々とした大地へぶつかるように落ちていく。探索都市アルストルは真っ黒な影絵にしか見えず、大きな塔や建造物の屋根が複雑な凹凸を描き出していた。

 都市から随分と離れた距離まで来ている。

 ナニアの使用するテントと食糧を積んだ馬車を中心として、遠征隊は野営の最中だ。

 しかし気軽なキャンプではない。ここはモンスターや獰猛な野生生物の生息する世界であり、もちろん夜盗や盗賊といった危険な人間も存在するのだ。そのため野営地には幾つかの篝火や焚き火が設置され夜に備えている。

「お疲れ様」

 アヴェラは辺りを警戒する歩哨に軽く頭を下げた。そのまま野営地を離れようとすれば、当然だが呼び止められる。

「今から離れるのは危険です」

「分かってますけど、ほらこれですよ」

 金属の水差しを軽く掲げてみせた。

「ナニア様に新鮮な水をと、お付きの方に命じられましてね。この先にあった泉まで少し」

「ああ……ご苦労様です。誰か付けましょうか」

「大丈夫ですよ。場所も分かってますし、それなりに夜目も利きますから」

「お気を付けて」

 貴族の御令嬢のため、野営地を一人離れ危険な水汲みに行かねばならぬアヴェラに対し、歩哨たちは心底気の毒そうな声をあげた。とはいえ、アヴェラにとってはそれほど面倒な事ではない。

「もう出てもよろしいですね」

 襟元から顔を出したヤトノは、丘陵を回り込んだ付近で跳びだし少女形態に姿を変えた。今日はほとんど喋っていないため、嬉しそうに飛びついてくる。

 こうしてヤトノと話す時をつくるには、水汲みは最適な理由であった。


「おい、しがみつくなよ」

「そう仰らず、少しの間ですから」

「一日中引っ付いてただろ」

「確かに御兄様の温もりと匂いを堪能し続けるのも良いのですが、こうして手を繋ぐのも良いものです。人目のない場所で二人っきり……なんだか、どきどきしますよね」

「いや、ぜんぜん」

「御兄様のいけず……でも、そんなところが素敵」

 わき水のある岩場へと到着。

 水汲みはヤトノに任せ、水差しが満たされるまで景色を眺める。

 丘陵の向こう、地平線上の空は赤から黄に白み青から紺へと変化。闇が支配した大地に細かな明かりが見えるのがアルストルだ。

「御兄様を水汲みに使うとは、あの女は許しがたいです」

「でも、そのお陰でこうして話ができるのだろ」

「それとこれは別です」

 ヤトノは不満そうだ。

「そもそもですね、御兄様に従卒を命じるとは何様のつもりでしょうか」

「向こうは大公令嬢で、こっちはしがない騎士。ありがたい事だよ、一般的にはだけどな」

 アヴェラは令嬢であるナニアの従卒に任じられていた。

 つまりナニアに付き従い身の回りの世話をするというもので、これはとても名誉な事だった。

 とはいえ、アヴェラからするとありがた迷惑であった――何せ周囲のやっかみが激しい。年配騎士は言葉の端々に嫌味を覗かせる程度だが、鎧に着られたような若手騎士はもっと露骨だ。すれ違い様に舌打ちしたり睨んできたり、中には足を引っかけようとする者までいるぐらいなのだから。

「従卒に選ばれた程度で幼稚な連中だ……」

 アヴェラは呆れたように言うものの、騎士や貴族からすれば上級貴族との関わりは少しでも持ちたいところだ。それが自分たちを差し置き、身分の低い騎士の名代程度の若造が選ばれたのだから、妬みの度合いも大きいのだろう。

「馬鹿が馬鹿たる所以は馬鹿だからですよ」

「貴族との付き合いはないけど、そんなの多いらしいからな。でもまあいいさ、ノエルとイクシマがテントで寝られるだけで感謝しておくか」

「御兄様は中で寝られぬのですか!?」

 水を汲み終えたヤトノは不満そうな声をあげた。

「そりゃそうだろ。流石にマズいだろ」

「何がマズいのです?」

「あたり前じゃないか。相手は御領主の娘だろ、妙な噂話一つで大騒ぎだ」

「でも冒険者として活動したような人です。今更噂の一つぐらい増えても問題ないのでは?」

「向こうの評判より、こっちがマズい」

「御兄様のそんな自分本位なところ……素敵です」

 ヤトノはうっとりするのだが、少しも褒められた気がしない。


 なんにせよアヴェラは口の端を歪めた。

「テントに行けば、遠征に呼び出された理由を聞けるのだがな」

 二日前に参加要請が来るなど、いくら貴族の令嬢の指示とは言えど、普通に考えてありえない。警備隊長のトレストが参加できない事は当然で、そうなると必然的に代理としてアヴェラを名代にするしかなくなる。

 つまりナニアはアヴェラを引っ張り出したかったとしか考えられない。そこにどんな思惑があるかは不明で、場合によっては厄神の使徒として命を狙っているのかもしれないのだ。

「御兄様、そこの岩に腰掛けて下さい」

「うん?」

「一日歩いてお疲れでしょう、足でもお揉みしましょう」

「ありがとう。でも大丈夫だ」

 革製の袋状になった靴で、あのモンスターのメッケルンの毛が中に敷き詰めてある。それを革紐を使い、膝からふくらはぎにかけて縛っているといったものだ。

 しかしアヴェラは大股で進み岩に腰掛けると、その隣りを叩いてみせた。

「それより少し時間はある。ほら、隣りに座ったらどうだ」

「まあ、お優しい事」

 しずしずとヤトノは近寄り、水差しを足元に置くと両足を揃えちょこんと座った。そのまま傾きアヴェラに軽くもたれかかり、肩に頭を預けている。その白い袖で遙か前方を指し示した。

「御兄様、あちらをご覧になって下さい。綺麗ですよ」

「ああ確かに綺麗だ」

 それはアルストルのある方角と正反対。

 幾つかの低い丘陵が連なった先に黒々とした森が広がり、その向こうに黒い山脈が低い壁のように存在する。その後ろに重なった一際高い雪山は、星の現れた夜空を背景に今日の最後の日射しを浴びて黄金色に姿を変えている。

 やがてそれも薄れ、闇の中の灰色の塊へと姿を変えた。

「さあ、そろそろ参りませんとダメですよ」

 ヤトノは立ち上がって微笑んだ。

 辺りは、その表情が辛うじて分かる程度の暗さになっていた。

「遅くなっては文句もでますし、何より足元が危ないですから」

「いいのか?」

「お気遣いどうも。しかし御兄様のため我慢するのが良妹の務めなんです」

 両手を握って気合いを入れるヤトノに苦笑しつつ、アヴェラは立ち上がった。

 そのまま元来た道を戻り出すのだが――。


「気を付けてください、御兄様。この気配、何者かが来ます」

 声を潜めヤトノが言った。

 そして水差しを持つ少女の姿は闇の中に紛れて消えていく。白い上着姿は闇の中でも目立つはずだが、アヴェラでさえ注意し見なければ分からぬほど消えてしまう。それは、やはり厄神という存在の一部だからなのだろう。

 警告はするが何もしない。

 それはヤトノの役割が原因だ。アヴェラのする事を見届け厄神に伝える事が役割なのだから、時々思わずうっかり手を出してしまう事はあっても基本的に何もしない。この何者かの接近を告げた事とて、かなりグレーゾーンなのだろう。

 それでも伝えてくれた事に感謝しつつ数歩も行かぬうち、微かな物音と同時に黒い影が獣のように迫ってきた。きっと事前に教えられていなければ、気付かず不意を突かれたかもしれない。

 アヴェラは右肩の先辺りを中心として身体を翻らせる。間近を掠める風切り音を感じると同時、抜き放ったヤスツナソードの柄をその勢いのまま相手へと突き込んだ。ぐっと突き込む感触があって、相手の体重が軽いため弾き飛ばせる。

 だが、別の相手が襲って来た。

 暗闇の中で僅かに光が反射する。剣による薙ぎ払いだ。

「くっ!」

 それを剣身で受け、捻り叩き落とすように払いのけ斬り返す。

 浅い手応えと共にあがった短い悲鳴は人のものではない。どこか聞き覚えのあるもので――それがクィークだと気付く。

 しかしダメージを受けたクィークは即座に逃げだした。

「御兄様、お見事です!」

「こんな場所にクィークだって?」

「どこにでも出るモンスターですから、別に不思議ではありませんよ」

「都市と街道の傍なのに?」

 しかも、アヴェラは一人で行動していたとはいえ、近くには遠征隊がいる事は直ぐわかるはず。それを承知で襲って来たのであれば――かなりマズい気がする。

「急いで報告するか。しまったな、仕留めていれば死骸を持っていけたのに」

「その剣の傷を受けたのです。掠り傷であっても、もう死んでいるのでは」

「明るくなってから探すしかないか」

 呪われたヤスツナソードで斬られたならば、その呪いに蝕まれ死ぬ。そこらで倒れているだろうが、それを探すには辺りは暗すぎた。

「今夜は気が抜けないな」

 証拠のない報告をどれだけ信じて貰えるか果たして疑問だ。街道整備を発案したせいで、随分と面倒な事になってしまった。もしかすると、トラブルが飛び込んでくるのは厄神の加護がなせるものかもしれない。

 アヴェラは肩を竦め歩きだした。

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