第32話 死力を尽くし死に抗う

 何も見えない空間で上下の感覚すらない。

 そこは地下水脈の流れの中で、人間の存在など木の葉一枚と何ら変わりがなかった。アヴェラは為す術もなく、ただひたすらに流されていくだけだ。

――これは似ている。

 生を終えた際の死への道筋。

 前世の記憶があるのだから、当然だが死への過程も覚えている。

 死というものは大いなる流れである。抗いようのない絶対的な大いなる流れの中に何もかも剥ぎ取り、己の存在と認識すら剥ぎ取られ世界へと還元されるのだ。

 そこから拾い上げてくれた厄神が別の世界へと送り込んでくれた。

 厄神の存在を思い出すとアヴェラの心が奮い立った。

――まだだ、まだ終わらない!

 あの薄ら寒い死から救い出してくれた厄神の頼みに応えねばならない。何を探しているのか分からぬが、他でもないこの自分を選び期待してくれた存在に応えねばならない。

 暗黒の水流の中にアヴェラは力強く目を見開いた。そして掴んだイクシマの手を力強く握りしめる。この何も分からない状況下で唯一感じ取れる他の存在に縋りながら自己をしっかりと保ち続ける。

 息はもう限界に近い。

 頭の中がガンガンと響き、大きく口を開け吸い込みたい欲求が込み上げてくる。間違いなく水中といった状況にも関わらず、そうでないような気さえしてきた。吸い込めば終わりと分かっているが、呼吸をしろと本能が告げている。

 果てしない抗いを続ける最中――前方に薄明るさを見つけた。

 アヴェラは全身全霊を込め、そちらに向け足をばたつかせ進んだ。呼吸への欲求を押し殺し、あと少しあと少しと自分を騙しながら力を振り絞り濁流の中を泳ぐ。

 先程まで唯一の拠り所であった手の繋がり。

 今はそれを手放してしまえと誘惑が込み上げてきた。手を離し自分一人で泳げば確実に水面まで到達できるだろう。この激しい苦しみから解放され、一瞬でも早く息を吸い込むことが出来る。

 とんでもない誘惑のなか、アヴェラは最後まで手を離さなかった。

 水面に顔を出し息を吸い、水飛沫を少し吸い込みむせ返る。空は曇天どころか激しい雨で真っ暗だ。天候が急変したらしく雷光が閃き雷鳴が轟きさえしている。

「あと少し……」

 何度か水中に引き込まれながら岸辺に到達、そこを這うように水からあがった。


 両手を地面につき何度も大きく呼吸を繰り返すと、ようやく助かった事を実感した。そのまま引っ繰り返って休みたい気持ちを堪え、水中から連れてきた少女に這い寄る。

「おい、大丈夫か? おいっ……くそっ、息をしてない!」

 イクシマは何の反応もない。長い金髪が顔やら首に乱れて張り付き、雷光の中に浮かび上がる顔は、まるで不吉な状態であるかのようだ。

 その時のアヴェラは無我夢中であったが、それでも冷静であったに違いない。

「死ぬな! 死ぬんじゃないっ!」

 前世で数度習っただけの心肺蘇生を正確に思い出していた。胸骨圧迫を強く早く繰り返し途中で人工呼吸を施す。諦めずに何度も何度も繰り返すと、突然に呼吸が再開された。そのイクシマを横倒しにさせ水を吐かせると、ようやく辺りを見回す余裕が出た。

「これでよし……いや、まだマズいな」

 激しい降雨によって水嵩が増しつつあった。

 気が付けば足元まで水が迫っている。不思議なもので、その時になってようやく激しい濁流の音を認識したぐらいだ。

 このままでは、また水中に逆戻りは間違いない。

「仕方ない行くぞ」

 返事のないイクシマを力を振り絞り担ぎ上げ、少しでも高い位置を目ざし移動する。疲れ切った身体では、僅かな段差を上る事すら至難のこと。これも先程の水中の抗いにも匹敵する苦行であった。

 風雨は激しく足元は泥濘、辺りは灰色の薄闇。

 泥の中に倒れては苦労して起き上がり、イクシマを引きずり根気強く辛抱強く進むと、ようやく安全そうな木の根元に到達。御都合主義のように存在した洞を見つけると、そこに入り込んだ。

 けれど、まだ終わりではない。最後のひと仕事が残っている。

 水に濡れた服を脱がねばならない。

 このままでは体温が低下し、疲労しきった身体が力尽きかねないのだ。肌に張り付く服を苦労しながら全て脱ぎ捨て、今度はイクシマの服も全て剥ぎ取った。

 闇夜にも白い肌が露わになり、細い胴に似合わぬ巨乳が露わになる。

 だが、今はそれを目にしても何も感じない。

 今はとにかく疲れ切っていた。全身が休息を欲している。アヴェラは冷え切った少女の身体を抱き締めると、気絶するように眠りに落ちた。


◆◆◆


「っ……」

 何か暖かで柔らかなものを腕の中に感じた。

 朧気な意識の中でそれは何かを考え込む。一番近いのは少女の姿をとったヤトノが寝具に潜り込んだ時の感触だ。しかし、その時の感触よりもっと肌を触れ合わせているような感触に思え――。

「ん?」

 アヴェラは目を覚ました。

 視界の中にある色は金と白の存在が何か分からない。それが身じろぎをして分かるが、横から抱きつくように腕の中にいるのはイクシマだった。

 どうやら先程からアヴェラが撫でまわしているのは、その柔肌らしい。

 そのイクシマは健やかな寝息をたて、安心しきった顔で頬をよせていた。離そうとすると、温もりを求めくっつき足まで絡めてきた。

 朝で裸の女の子がいて密着している。

「…………」

 これでアヴェラの身体が反応しないはずがない。しかも血流の集中するそこは熱い位に温かいため、暖を求めるイクシマが無意識に移動し腿で挟んでしまう。いろいろヤバイ状況だ。

 押し退けようと両腿を押しながら身体をずらそうとするのだが、それはイクシマの両足を押し広げようとしているようなものだ。あげく、どこか何か敏感な部分に触れたらしくイクシマが痙攣するように反応し――目を覚ました。

 何度も瞬きをしている。

 焦点の曖昧であった金色の瞳がはっきりとしてくる様子が分かった。無言で下をみて自分の足の間に何が触れているか理解したらしく、下腹部から巨乳な胸に首から顔へと白い肌が朱を帯びる様子が見て取れる。

「は、は……」

「は?」

「破廉恥じゃあああああああっ!」

 アヴェラの上でイクシマは叫んだ。


「いやすまぬ、大声をあげてすまなんだ……」

 落ち着きを取り戻したイクシマは意外にも素直に頭を下げた。

 狭い洞の中に差し込んだ日射しが、その金色の髪を輝かせている。生乾きの服を着るのではなく巻いているが、一度肌を晒したせいかあまり大して隠す気はないらしい。

 そうなると、意外にロリ巨乳な身体を前にアヴェラの方が恥ずかしいぐらいだ。

「こっちこそ悪い。ただ言い訳するなら緊急事態で――」

「知っておる、我は全部を見ておった。信じて貰えぬかもしれぬが、あれは何とも奇妙な状態であったな。我は空中に浮かんでな、我自身とお主をずっと上から見おろしておったのじゃって。うむ、何とも不思議な体験じゃった」

「それは幽体離脱では……」

 しかしイクシマは分からなかったらしく、訝しげに眉を寄せている。

「まあいい、とにかくな。お主が濁流の中で我を絶対に放さなかった事も、苦労して陸に引き上げてくれた事も、必死になって我の息を戻してくれた事も、その後も懸命に我を運んでくれた事も見ておった。お主はものっそい奴じゃ……」

 呟くように言ったイクシマは上目遣いで見つめて来る。そこには、これまで存在しなかった親しみに類する何かがあった。

「何故に、そこまでして我を助けた?」

「さあ? 途中で投げ捨てたい気持ちはあったけど、なんだか出来なかったな」

「ふん、そこは乙女をときめかせる事を言うべきじゃって」

 イクシマは怒ったような顔をする。

「そう我は乙女じゃ乙女なんじゃぞ。それと肌を合わせ一夜を共にしたのだ、お主ちゃんと責任をとれよ」

「いや、その……お前の思ってる事と違うし緊急事態だったわけだし……なあ」

 とたんにイクシマは半泣きのような顔となった。

「馬鹿者おおぉっ! お主ー、そこは察しろよぉー。据え膳ぐらい掻っ食らいの気力はないんかー!」

「え……?」

「もうよい、この戯けが! とにかく、とーにーかーくー! 我の言った事と言うか、そういう気持ちと言うか。つまりそういうのがあるって事を忘れるでないぞ! よいなっ、我との約束じゃぞ。いいか忘れたら我は泣くぞ!」

「はあ……?」

 一気にまくし立てたイクシマは顔を染めつつそっぽを向いた。これにはアヴェラは戸惑うばかりだ。前世で他人から好意を向けられた経験がないがため、まず自分が好意を向けられる対象になるという認識が欠けているのだ。難聴系とか鈍感系以前の、無認識系なのだった。


 殆どの装備は濁流の中に失われている。武器は最後まで何故か離れなかった呪いのヤスツナソードのみ。後は濡れた衣服のみでポーション一つなかった。

「装備が……損害がでかいな」

「命があっただけでも充分なんじゃって」

「それもそうだな」

 最低限の布を身につけた状態は、なまじ裸よりいかがわしく見えてしまうのは気のせいだろうか。少なくともアヴェラにはそう思えてしまい、チラチラと布に抑え込まれたイクシマの胸など見てしまう。さすがに胡座をかいた下を見る勇気はなかった。

「ふむ、まず服を乾かさねばならんな。どれ我が火を点けてやろう」

「もしかして魔法か?」

「その通り。見ておれ、火神の加護ファイア」

 イクシマが手を差し向けた倒木に火が生じた。

 やはり火というものは偉大で、小さな火ひとつで身体が暖まってきた気がする。

 木の洞の中で火を燃やしているのだが、裸で外を彷徨くわけにもいかないので仕方が無かった。揃って火に服をかざし乾かしだす。

 もちろんイクシマの露出が増えて、アヴェラの目線は細かく彷徨うばかりだ。

「いいな、魔法が使えるとか羨ましいな」

「なんじゃ、お主は使えぬのか」

「魔法を教えてくれる私塾は高いんだ。魔法は、金持ちのステータスなんだ」

「そうか、では仕方がないのう。いずれ我が教えてしんぜよう」

「だったらノエルも一緒に頼もうか」

「うむ当然よの、パーテーの仲間じゃからな……と言うかノエルじゃー! そうじゃった、あやつドラゴンの前に残されとったではないかー! これはいかぬ、なんとかせねば」

 慌てたイクシマは足元をガンガン叩きだした。

「心配しないでも大丈夫だろ、なにせヤトノが一緒なんだから」

「そうなんか?」

「多分……きっと恐らく……」

「不安じゃーっ!」

 焦って衣服を乾かすと身支度を調え火を消すと、木の洞に感謝の言葉を述べた後に、アヴェラとイクシマは連れだって明るい日射しの中を歩きだした。

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