エピローグ

エピローグ「あなたに伝える――」



「――」


 桜並木の道をひた走る。手には鞄と円筒状の容器。胸につけたコサージュもそのままに、愛は息を切らして駆けていた。


『卒業式が終わったら公園に来てくれ、大事な話がある』


 登校し、いよいよ卒業式が始まるというところで、彼からそんなメールが届いたのだ。

 正直、在校生の送辞や卒業生の答辞など全く耳に入ってこなかった。早く、早く終わって欲しいと申し訳ないが思い続けていた。

 そして最後のLHRも終わり、記念撮影を終えた瞬間、愛は全力で走り始めた。公園で待つ彼の元へと。

 すごく胸がドキドキする。全力で走っているからというだけでない高揚感が身を包んでいる。

『大事な話』……愛には予想がついていた。というのも、実は彼は先日重大な過ちを犯してしまっていたのだ。

 数週間ほど前、愛が炬燵でうたた寝しているとき、優はこっそりと彼女の左手薬指のサイズを紐で測った。優はばれずにやりおおせたと思ったのだろうが、その時、実は愛は途中から起きていたのだ。


 あの日の夜はまったくと言っていいほど眠れなかった。


 愛は思った。詰めが甘いと。だからこの数週間は気が気ではなかった。いつその話をされるのだろうかとそわそわしっぱなしだった。

 だけど……ついに、ついに今日。私は――


「――!」


 見えた。桜の木の下のベンチ。そこにいつも通りスーツを着た男性の姿があった。

 愛は立ち止まり、乱れた髪と制服を直す。そして大きく深呼吸。何度しても鼓動は治まらなかった。

 そうして愛は、ちょっぴり顔が強張っている彼の元へ、ゆっくりと足を進めた。





「よう、姫さん」


 ゆっくりと近づいてくる彼女に声をかける。よし、声は震えていないな。

 心地よい温かさを孕んだ風が吹き抜け、彼女は髪をおさえた。桜の花弁が彼女を飾る。

 目を細めて愛の姿を見る。おそらく卒業式が終わってすぐに駆けつけてきたのだろう。まだ少し息が上がっている。

 あれから二年が経ち、彼女もぐっと大人っぽくなった。誰の影響か、セミロングだった髪は腰に届くほど伸ばしている。身長も俺の胸元まで届いてしまうくらいだ。

 友達もできて、社交性を身に付けた彼女は、もはや子どもとは言えないほどしっかりした子に育った。


「卒業、おめでとう」


 本題を後回しにし、祝福の言葉を述べる。愛は筒を両手に持ち、にこりと微笑んだ。無言で。

 そう、彼女はこの二年で本当に立派に成長した。しかし、まだ声を取り戻してはいなかった。二人でいろいろと試してみたものだが、どれも不発に終わってしまっていた。

 だが、彼女はそれをものともせずに見事高校を卒業した。そのことに、まず賛辞を送った。


「いろいろあったよなぁ……」


 よいしょ、とベンチから立ち上がりながら回想する。あれからこの二年間、楽しいことも悲しいことも全部共有してきた。

 数えきれないほどデートを重ね、幸せを分かち合った。彼女の友達作りに手を貸したり、逆にこっちの人助けを手伝ってもらったりもした。些細なことでケンカもしたし、交通事故に合いそうな子を助けて俺が怪我をしたときには本気で泣かれたっけ。


 昨日のことのように思い出せる。それくらい色濃く、そして世界は鮮やかに見えていた。それも全部、彼女のおかげだ。


――だから、俺は彼女に伝えたいことがある。


 彼女と正面から向き合う。愛は静かにこちらの瞳を見つめていた。


「姫さ……いや違うな」


 苦笑して頭をポリポリとかく。いつもの癖でつい呼んでしまった。彼女はもう、庇護すべき対象ではないというのに。


「橘愛さん」


 言い直す。彼女は一瞬目を見開いたものの、すぐに穏やかに目を細めて首を傾け先を促す。その瞳は既に潤んでいた。


「君と過ごす日々は、本当に忘れられないことばかりで……君は俺にとっての光だ」


 すぐに自分の喉がカラカラになっていくのがわかった。


「はじめは君の手を引いていたつもりが、いつの間にか手を引かれて一緒の道を歩み始めていた。それが、俺には本当に救いだったんだ」


 だから――

 上着の内ポケットから小箱を取り出す。


「どうか、これからも俺と一緒に歩き続けてほしい」


 小箱を開ける。そこには、日差しに煌めく指輪が収められていた。


「橘愛さん、君のことが好きだ。愛している。俺と……結婚してくれないか」

「――」


 初めて、彼女に対して自分から求愛の言葉を伝えた。いつもは彼女にねだられて伝える言葉を、自分から。

 付き合い始めた頃は、こういうことは彼女が成人になってからと考えていた。高校を卒業したからといって未成年であることに変わりはなく、保護者の同意も必要だ。

 だが……ある時、彼女が俺との年の差を儚んで泣くのを見て、決意を固めた。この日にしようと決めていた。

 たとえ周囲に何を言われようと、俺はこの子を絶対に幸せにすると、その時に改めて誓ったのだ。


「――」


 彼女がすっと歩みを寄せる。

 しっとりと涙を流しながら、彼女は指輪を手に取り……嵌めた。その指を胸に宝物のようにかき抱く。そして正面を向いた彼女の顔は――


 周囲に咲き誇る桜をも霞むような、優しい満開の笑みだった。


「愛」


 自然と、体が動いていた。


「――っ」


 手のひらで頬を包み、唇を合わせていた。


 五秒にも満たない時間。合わせていた唇が離れる。今までしてこなかった、唇同士のキス。ついに、一線を越えてしまった。


「――」


 愛は呆然とした後……ボロボロと泣き出した。

 俺は慌てた。


「す、すまん……やっぱ嫌だったか? いきなりだったもんな、怖かったよな……」


 そう言って彼女の肩に手を置いた瞬間――


「っ!!」


 愛が胸に飛び込んできて、今度は向こうからキスをしてきた。首に手を回し、離さないとばかりに密着する。

 深く深く、そして日溜まりのように暖かいキス。頭の中が真っ白になるほどの多幸感が二人を包んだ。

 十秒以上続いたキスが離れ、至近距離で見つめ合う。もはやその瞳にはお互いのことしか見えていない。時が止まったようだった。

 そして……愛がふと笑みを深め、俺の耳に唇を寄せた。


「――わ……、……ぃ……す」

「え……」


 強い風が吹き、春風が音をさらう。だけど……今、確かに……

 愛は手を離し、真正面から俺を見つめる。一歩も動けない俺を。彼女は涙を流しながら――





「――私も、あなたが好きです。愛しています。私を、あなたの家族にしてください」





 口を、動かした。声を、出した。


「あ、あ――」


 鈴を転がしたような音色が俺の耳に届く。久しぶりの発声だからかとても小さい声でぎこちないけれど、確かに……確かに俺の耳に彼女の声は届いた。


「……もう、どうして優さんが泣くんですか」

「え……?」


 気がつくと、涙が溢れていた。頬を伝って止まらない。止めよう止めようと思っても、流れ続けて止まらない。


「優さん」


 指笛でない音が俺を呼ぶ。いつか夢見ていた、彼女の声。

 お互い涙を流しながら、もう一度顔を寄せる。今度はどちらからだったか。手を繋ぎ合わせ、二人は口づけを交わした。

 万感の思いを込めて。


「っ」


 溶け合うような口づけ。お互いの唇から愛情を交換する。口の端から息が漏れ、少しくすぐったい。


「ん……はぁ……」


 息が苦しくなり、離れる。二人とも涙でぐちゃぐちゃだった。


「くく、ひでぇ顔だ」


 そう言うと彼女は怒ったようにしてスケッチブックに手を伸ばし……途中で手を下ろした。


「ふふ、人のこと言えませんよ?」


 悪戯っぽく彼女は笑って言った。

 また、涙が溢れてきた。


「あーくそ、止まらねぇじゃねぇか。ちょっとしばらく静かにしててくれ」

「ひどくないですか? 女心をわかってないです。ばーか。優さんのばーかばーか」

「バカって言った方がバカなんですー」

「――何度でも言ってあげますよ」


 くるりと回り、花びらと共に彼女は踊る。


「ばーか……大好き」




 んだとコラーと言って優は、きゃあきゃあ楽しそうに笑う愛を無理矢理お姫様抱っこして振り回す。


 桜舞う公園の中、二人の笑い声がいつまでも響いていた。

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あなた(29)と私(16)、背中合わせ~大切な気持ちの伝え方~ 黎明煌 @reimeikou

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