第12話「教室での私~電話編~」


 最近、橘の様子がおかしい。


 それは彼女が所属する1-Aにおいては共通認識であり、しかし最近では彼女の変化にも慣れてきた部分もある。

 思えば、怒るのも穏やかになるのも雑誌を読むのも、特段変わった行動ではない。少し騒ぎすぎたとクラスメイトたちは反省すらしていた。


 しかし、今日の彼女の行動はクラスメイトたちの度肝を抜いた。


「なぁ、俺は夢でも見ているのか?」

「……頬でもつねってやろうか?」

「頼む」

「ん……ちゅ」

「お前らそういう関係だったのか……」


 昼休みに入って少しした頃、クラスメイトたちは思い思いの日々を過ごしていた。友人とお喋りしたり、弁当を交換し合ったり、購買に急ぐ者たち。

 終業式も間近に迫って弛緩した空気が流れる学校。もっぱら冬休みは何をしようかと若者達は楽しく予定を立てるいつも通りの日常。

 そんな何でもない一日が今日もまた流れていくのだろうと、そう思っていた。


 橘の行動を見るまでは。


「あれ……電話してるよな」

「でも橘って喋れないんじゃ……」

「お前らそういう関係だったのか……」


 そう、何でもない日常を切り取った昼休みの一コマ。ふと橘の方を見ると、彼女はスマホを耳に当てていたのだ。明らかに何者かと通話している。


「い、いやよく見ろ。橘は何も話してないぞ」

「通話じゃないのか? いやでも頷いたりしてるな」

「お前らそういう関係だったのか……」


 クラスメイトたちは橘が喋れないことは知っていた。だからこそ、彼女がスマホを使って通話している姿は彼らの目を疑わせた。


「一体誰と通話してるんだろう……」

「でもすっげぇ穏やかな顔してんな」

「可愛い、いや尊い……ファンクラブ入ろ」


 クラスの男子たちは彼女の様子を見て多種多様のリアクションを見せる。通話の相手を想像する者、ファンクラブに入ろうとする者……枕(笑)ちゃんは「事務所からの連絡ね!」と騒いでいる。


 男子たちの関心事は主に、あの橘と通話を敢行している相手のことだ。話すことのできない少女と通話をする者。一体何者なのだ……?


 男子たちは教室の隅に集まり、彼女の様子をうかがっている。そんな彼らの背後から唐突に「ハレルヤ」と声をかける男子生徒がいた。


「刮目しなさい。あなたたちは今、奇跡に触れようとしているのです」

「お前は――」

「ザビエル君……」


 ザビエル君。ブレザーの制服に首から吊された銀の十字架。ボランティア部に所属し、休日には好んで教会の手伝いをしているという。


「あぁ、少し失礼」


 そう言ってザビエル君は懐から粉薬を取り出しそれを飲む。

 かわいそうに、彼は教会の懺悔室を担当しているのだが、ストレスを溜めやすく相談の度に胃を痛めている。そのせいで高校生という若さにもかかわらず頭のてっぺんは円形脱毛症でまばゆく光っている。ゆえにザビエル。


「ザビエル君、奇跡って?」

「――ご覧なさい、彼女のあの表情を」


 改めて橘の顔を見る。彼女はスマホを耳に当て、時折頷いたり、穏やかに微笑んだりしている。以前の彼女とは比べものにならないほど、いい表情をするようになった。そんな表情を浮かべる通話の相手とは?


「あれはですね――神とお話をされているのですよ」

「Oh…my god…」


 なるほど声を無くした少女と言葉を交わす者。それは決して只人ではない。それが可能となる者とは何か? 彼女をあのように穏やかな表情にさせることのできる者とは? 答えは決まっていた。


「先日は偉大なる方の聖誕祭でした。そのとき彼女はきっと何かを悟ったのでしょう……」

「なるほど……」


 なるほどではない。彼らはアホだった。

 しかし銀の十字架を手に持ち、頭頂部から輝きを放つ彼から言われれば謎の説得力があった。


「あ、通話が終わったみたいだぞ」


 通話を終え、スマホを耳から離す橘。

 少し乱れたセミロングの髪を掻き上げる。そして彼女は通話が終了したであろうスマホの画面を眺め――


 ほう……とこれ以上ないほど穏やかな微笑みをたたえた。


「っ!!」


 まるで一陣の春の風が吹いたようだった。

 男子生徒たちは胸を押さえる。ザビエル君ですらこの一瞬は教えを忘れた。それほどの破壊力だった。


 一瞬の間隙の後、ザビエル君は咳払いをして改めて彼女を讃え、男子たちを救いの道へと誘った。


「さあ、あなたたちも新たな祝福に身を委ねましょう」


聖母のような微笑みを垣間見た男子たちは口々に「やはり女神か……」「どこで入信する? 私も同行しよう」「修道院」とざわつく。


「父と子と精霊の御名において――」


 アーメンと男子たちは唱和した。

 橘愛の知らないところで、このクラスは今日も平和だった。






 まさか自分が神格化されているとは露知らず、愛はスマホの待ち受け画像を穏やかな瞳で眺める。

 そこに映されているのは、今朝こっそり撮った優の寝顔だった。自分ばかり恥ずかしい写真を撮られているような気がしたのでお返しに、と撮ったものだ。


 スマホを机に置く。先ほどまで通話をしていたのはもちろん優だ。彼は今日、お休みで家にいる。時間があるからとお弁当も作ってくれた。


 誰かが作ってくれたお弁当を食べるなんて久しぶりで、愛はとても嬉しかった。お母さんが遠足で作ってくれたとき以来だ。

 お弁当のラインナップは特別なものではなく、本当に一般的な家庭で出されるものだった。今朝、優が棚から七段あるお重を出したときは全力で止めたものだ。

 

 愛は改めてスマホを眺める。

 彼は電話口で他愛もない話題を話し続けた。こんな風に電話でお話するのも何年ぶりだろうか。その経験が愛には嬉しく、つい笑顔を浮かべてしまった。自分も何か反応を返すことができればよかったのだが……


「……」


 反応といえば、昨日から練習している指笛。あれもなかなかに難題だった。寝る前まで練習していたが、まだあまり音が鳴らないのだ。あともう少しという手応えではあるのだが。

 スマホで「指笛 コツ」と検索する。


 昼休みにはまだ時間がありますね……屋上で練習でもしましょうか。


 チラリと窓から空を見ると、微妙な曇り空をしていた。

 天気予報では降る様子ではなかったのですが……傘は持ってきてましたっけ。


 雨が降る前にと、愛は優を呼ぶ出す合図を練習すべく席を立った。

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