第5話
数日、ミドリとは会わなかった。学校のクラスで居合わせることを、私たちは「会う」と呼ばなかった。そうして、急に寒くなった夏の終わりの金曜日の放課後に、ミドリは私の席にやってきた。誕生日だから、と小さなケーキの箱をさげて。
その日は私の誕生日ではなかった。私は自分が冬生まれなのが嫌だったから、この日にしてって頼んだのだ。ほんとうの誕生日ではない、すてきな日を祝われる私は幸せだった。不良なのに、片手に小さくてかわいいケーキをさげるミドリがおかしくて笑うと、笑うなよ、と小突かれる。寒がりなミドリは、この季節には少し暑いんじゃないかと思うくらい、分厚くて場違いなセーターを着ていた。
二人で、誰もいない歩道を並んで歩いた。色づくには早い街路樹が、花道のように私たちの片側に並んで立っていた。葉が、たまに舞っていた。何度も立ち止まってはキスをして、手を繋ぐ。何度目かのキスの後、私はスマートフォンを取り出して、カメラを構えた。ファインダーに、ミドリを捉える。場違いなセーター、曇天、ぬるい風までを切り取るようにシャッターを切る。ミドリは照れたように笑いながら、少し首を傾げたり、横を向いたりしてポーズをとった。写真を撮りながら、私は苺のパンケーキのことを思い出していた。ミドリと私のこと。ミドリの好きと、私の好きのこと。
不意に、ミドリが何かに気づいたように、ポケットに手を滑らせた。地味なカバーのスマートフォンを取り出す。そうして、通知を確かめるしぐさをしながら、彼は頬をすこし緩めるようにした。
はっとした。背中になにか冷たいものを差し込まれたように、体が動かない。
私の好きな顔だ。景色がすべて遠のくように白んだ。自分の呼吸が、うるさい。そうしてそれは今、私に向けられていないのだ。
ミドリの手が画面に伸びる。そうして下半分を軽く叩くように、文字を打つように動くその指を、私は見ると同時に、無意識に払い落としていた。
ミドリのからだがびくりと強張る。一秒遅れて地面に落ちたスマートフォンの、画面が嫌でも目に入る。私ではない女の子が、メリーゴーランドに乗っている写真だ。半袖から細い腕が伸びている。頬にピースの指をくっつけた笑顔が、まぶしい。細められた大きな瞳や、ゆるくまとめられた茶髪。それがミドリの待受画面だとわかったとき、臓器が絞られるようにぎゅっとなって、私は耐えたくて息をつめた。
「さやか」
「…………今、目の前にいるのは私でしょう」
「……ごめん」
「……」
「……さやか。さやかは俺と居て、気持ちよくないの」
私は答えられないでいた。答えられないまま目の奥がつんとなって、あ、と思ったときには泣いていた。目の前がぼやけて、歯を食いしばっても止まらない。そんなことはない。そんなことはないはずだ。「さやか」また、名前を呼ばれる。名前、私の、私がそう呼んでって頼んだ名前を、ミドリは何回も口にしてくれる。そうすれば私が嬉しがるって思ってる。そうして、私はそれが、震えるほどうれしいのだ。
「さやか。おかしいよ」
う、と私の喉が鳴った。おかしいことくらい、もうわかっていた。おかしいのがミドリじゃなくて、私だってことも。
「俺が気持ちよくて、さやかは気持ちよくない。でも、さやかは俺のことがすきなの。それっておかしいんじゃねえの、それって、俺のせいとか、そういうのじゃないじゃん」なんで怒るんだよ、と言ったミドリの声が懇願するみたいに悲しそうで、顔を見られない。そうだ、その通りだ。それでも、ミドリのことを諦められない自分のことを考えて、みっともなく涙をぼろぼろ零したままでいた。口にすることだけは嫌だった。私とミドリの関係を支えていたものが、軋んでいるのだと分かった。顔を上げて見たミドリの瞳が、空洞のようで怖かった。
「……う」
「俺はさやかが好きだよ。だから、いつもみたいに、優しくしてくれよ」
「ミドリは」
もう耐えられなかった。遮るように私は、ミドリの名前を呼んだ。
「ミドリは、私のことなんて好きじゃないんでしょう」
「えっ?」
「ミドリには、好きな子ができたんでしょう、……もう少ししたら、私を捨てようと思ってるんだって、知ってるよ」
ミドリの顔色がさっと変わった。「すてるとか」
「私のこと……」
「さやか」
その、さやか、という響きでもうすべてが分かってしまったような気がした。
う、とひっくり返ったうめき声が出て、鼻がつんとして、意識しないままに頬に雫が伝った。喉が詰まったようになり、苦しくて声が震える。みっともなく私は両手をのばし、ミドリの服の胸元のあたりを掻きむしるように掴んだ。激しい動きをしたせいで眼鏡が外れ、乾いた音を立ててアスファルトに跳ねた。
「ミドリは、もう私のことなんて嫌いになるんだ、私、私は、あ、」
「な、な。落ち着けって、さやか。俺は横にいるだろ」
ミドリの右手が、焦ったように私の腕をつかむ。骨っぽくて少しかわいた、大きくて男っぽい手だ。私が好きになった手だ。そうしてミドリはこの手で、私じゃない女の子を、私より大事に抱いている。くりくりした丸くて茶色い瞳と、きゃしゃな手足のことを思った。
けもののように私は、ミドリにしがみついた。ミドリは、それを拒まなかった。さやか、と呼んでもらえる時、自分は確かに、世界で一番幸せな女の子になれたはずだった。私はミドリの季節外れのセーターに顔をうずめたままで、喉から絞り出すように言った。
「ミドリ。笑って」
さやか。と、やわらかい布のような声が降った。引きずられるように、こわごわと顔を上げると、ミドリの顔が見えた。私の、一番好きな笑顔だった。そのまま私は泣き崩れ、泣きながら意識を手放した。子どもをあやすように頭を撫でつける、ミドリの手のひらの感触だけが、いつまでも残った。
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