第36話 結婚なんて紙切れ上の物だけど

 海中ラボ内の倉庫に隠れたブー・シーとケルベロス・マスター。ちょうど二人分のダイビング用具があったため潜入に長けた二人が選ばれた。


「ご協力感謝する。マスター」

「礼には及ばないさ、海中を探すのは慣れている」

「理由を聞いても?」

「妻子が船の事故に遭ってね、息子の死体は見つかっていないんだ」

「それは供養してあげたいものですね」

「ああ。そうしないと、いつまでも期待してしまうから」


 マスターの寂しげな横顔に、話題を変えようと思ったブー・シーは、ダイビングスーツがきつかったと呟く。


「それは亡き妻のものだからね」


 最悪だ。勘の悪さに頭を抱えたブー・シーを見て、マスターは軽く笑った。気を遣われているのは分かっている。


「君はずいぶん身長がある。男性かと思ったよ」

「よく言われる」


 廊下から人の気配が無くならない。

 仕方なくヒソヒソ話を続けた。


「女であることに得を感じた事はなかったが、あの子に会ってからは良かったと思っている」

「理由を聞いても?」

「結婚ができるからな」


 およそ色気とは無縁の無機質な殺し屋から飛び出すには意外な言葉だった。ケルベロス・マスターはポカンと口を開けた。


「紙切れ一枚だが、正式な契約だ。もし別れる事になっても記録には残る。あの子の気持ちが我にあった証明だ」

「別れを前提にしているのかい」

「それはそうだ。十五も離れている。心変わりも十分にあり得る」

「心変わりを君は受け入れられるのかな」


 少し意地悪を言ってしまった。何故なのかは分からない。もしかしたら鉄仮面の崩れる様子が見たかったのかもしれない。


「相手次第だな。良い女なら仕方ない認めよう。悪い女ならば…次の朝日を見ることは無いだろう」


 ニヤリと笑う横顔の邪悪さに、本気を感じさせる。なるほど本心では手放す気はないようだ。

 その時、廊下から敵のうめき声と重い物が落ちる音が響き渡った。

 目の前の扉がゆっくり開かれ、二人は身構える。


「みーつけた」


 水色の柔らかそうな髪をした、大きなピンク色の目をした少年が覗いてきた。ブー・シーは飛び上がり、その頬を撫でる。


「ああ、ノン。怪我はないか。すまない遅くなって」

「来てくれてありがとう。会いたかった!」


 抱き合う二人を見ながら、ケルベロス・マスターは固まっていた。脳内を巡る数々の記憶。一人の日々、船の事故、息子の誕生、妻との結婚、どんどん戻っていく。


 草原で笑う子供の頃の妻、ノンの顔立ちは彼女に瓜二つだった。

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