第26話 堪忍袋は胃袋に敵わない

 隠れ家の個室でローズは一人、虚空を見上げる。

 公爵の仮初めの恋人になる。

 両親は喜んで受け入れるだろうし、変態伯爵も文句を言えないだろう。男色家だから手を出される事もない。

 いい案だと感じながらも、答えをすぐに出せなかった。


 ノックの音が響き、ナインが顔を出す。

 誘われるままに外出し、海辺を歩く。潮風が肌を撫でる。カモメの鳴き声が澄んだ青空にどこまでも響いていく。

 提案を受けてからずっと気になっている事がある。


 自分とナインの関係とは?


 憎からず思われている実感はあるが、交際を申し込まれてはいない。同情されているだけで、特別に思っているのは自分だけなのかもしれない。

 不安を払拭して欲しくて手を繋いだら、そっと外された。


「ボスの提案をお受けになるべきだと思います」


 ナインは本心では絶対に嫌であった。

 偽りとはいえ、ローズが目の前でボスの女として扱われる事が、必要とあらば体を寄せ合うであろう事が。

 だが感情を力づくで押し込め、彼女の未来を思っての結論だったのだが。


「うわ痛そ〜。湿布貼ってあげるね」


 まさか数時間も腫れが引かないレベルで顔面を殴られるとは夢にも思っていなかった。

 ノンの優しさが涙腺に響く。

 鍵をかけて部屋に閉じこもってしまったローズを案じながらも、かける言葉は見つけられなかった。


 泣き疲れたローズはベッドに沈み、窓の外が宵闇となった頃にノック音で目を覚ます。

 大きなピンクの瞳が待ち構えていた。食欲は無いがディナーに向かう事にする。


「ノン君は、どうして作戦に乗ってくれたの?」

「見たかったから、かな」

「何を?」

「いつも優しいブー・シーが、殺しのターゲットを見る時の目をさ。想像以上に良かった」

「本当に彼女の事が好きなのね」

「まあね、ボク欲張りなんだ。未来の奥さんの事は何でも知っていたい」


 息を飲む音と、階段を降りていく気配。

 どうやらノンはローズではなく、聞き耳を立てていた人物を照れさせる為に話していたようだ。


 ディナーが始まり、クラムチャウダーを飲んだ瞬間に、スプーンを持つ手が震えた。斜め前に座るナインを見ると、バチッと目が合った。

 アサリの香りを余す所なく生かし、舌触り優しく仕上げた後味甘やかなそれは、ナインの料理で間違いなかった。


 かつてボスに話した通りだ。

 期待外れの対応に泣かされても、許してしまえる。この味さえくれるならば。ローズは胸いっぱいに溢れる思いを言葉に乗せた。


「美味しい!」

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