11 奥田くんが童貞だからだよ

 日本のぼくの部屋に帰ってきた。旅装を解いて真っ先に、萌さんに電話した。前回と同じく横浜のみなとみらいで萌さんと合流した。はいったのは、オシャレな居酒屋だ。テーブルが個室みたいに区切られている。

 長旅で疲れているから、アルコールは控えることにした。これはお葬式だからと言って、萌さんはお酒を頼んだ。でも、ふたりとも料理はほとんど手がつかない。個室みたいなところで、ゆっくり話ができるから、どうでもよかった。

「萌さん、メールの件ですけど」

「うん」

「大丈夫ですか?」

「ダメ」

 本当にダメそうな力のない声だった。

「すみません、バカなこと聞いて。こういうときは、どうしたらいいでしょうね。いっぱい泣くとか」

「胸貸してくれますか」

「ぼくでよければ」

「こっちの席きてください」

「ここで?」

「うち来ます?」

「いえいえ」

 ぼくはどうしたらいいのかわからず、萌さんの言葉にしたがって、となりの席に移動した。萌さんは、頭をぼくの肩にもたせかけた。ぼくは、緊張のせいなのか、体をかたくして身じろぎひとつできない。萌さんの悲しみが、ぼくに伝わってくるような気がした。萌さんは、体をぼくのほうに向けて、二の腕にすがるようにして額を肩に乗せた。肩がしめってくるのがわかった。萌さんは、それほど青木さんのことが好きだったのだ。付きあっていて別れたわけでもないのに、人はこんなに人を好きになれるものなのか。ぼくは萌さんの肩に手をおいて、ポンポンと軽く叩いた。慰める意味で。本格的に泣いている萌さん。これは萌さんの家にいかないと済まないような気がして途方に暮れてしまう。居酒屋で泣いているのもバツが悪いだろう。

 やっぱり萌さんの家に行きましょうと言って、ぼくは店をでる支度をした。萌さんは、これで払ってといって、お金を渡してきた。お言葉に甘えて、萌さんのお金で会計をした。店をでるまでのあいだ、萌さんはぼくの腕につかまってずっと下を向いていた。泣いた顔を他人に見せたくなかったのだろう。

 萌さんの家は桜木町駅の反対側だという。地上を歩かなければならない。今日帰国したときには雨が降っていて、今も降りつづいていた。傘をさして、ふたりで並んで歩く。

 マンションは入口がオートロックで、セキュリティがしっかりしていそうだった。そのほかの部分で萌さんの家が贅沢ということはない。広いリビングがあるわけでもなく、部屋数が多いわけでもない。

 萌さんをベッドにすわらせて、ぼくはキッチンにおじゃました。冷蔵庫にミネラルウォーターがあった。グラスに注ぐ。萌さんに渡して、飲んでもらう。一口飲んだら、トイレといって立っていった。

 ぼくは、自分がもうクタクタだったことを思い出して、ベッドにすわった状態から体を倒して仰向けになる。腕で目を押える。思い出したように山口に会いたいという思いがこみ上げてきた。

 萌さんがもどってきた物音がして、起きあがる。萌さんがぼくを押し倒して、自分もベッドのうえに寝ころんだ。

「こっち向いてください」

 ぼくは足をベッドにあげて、ベッドの奥側に寝ている萌さんに体を向ける。萌さんが抱きついてきて、ぼくの胸に顔をうずめた。こういうことははじめてではない。人をなぐさめるというのは、こういうものなんだろうと思う。子供を寝かしつけるお母さんがするように、萌さんの背中をポンポンと叩いたり、さすったりする。萌さんは、体を震わせて泣いている。いっぱい泣いてスッキリできればいいけど。そんなにうまくいくものだろうか。萌さんが顔をあげる。

「そうそう、お化粧落としました。服についたらいけないと思って。恥ずかしいけど」

 萌さんは涙でかぶれたのか、目の端を赤くして、でも微笑んでいる。胸が締め付けられる。

 ぼくは、萌さんにキスしていた。

 あれ?なんで萌さんにキスしているんだ?萌さんはキスしたいなんて言ってなかった。とんでもないことをしてしまった。ぼくは心のどこかで、萌さんがセクシータレントだから、キスくらいしてもいいだろうと思っていたのかもしれない。

 萌さんの舌が、ぼくの口にはいってきた。ぼくは慌てて顔をはなし、萌さんの上にのしかかっていた体を起こす。萌さんも起きあがる。

「ごめんなさい」

「なぜ、謝るんです?」

「ぼく、そんなつもりじゃなかったのに、キス、してしまって」

「慰めてくれたのでしょう?」

「慰めるって、キスはちがうというか」

「ちがわない。わたしは、慰められてるって思ったから」

「キスが?」

「そう。キスはどうでもいい人としないでしょう?奥田くんは、わたしのことを大事に思ってくれてるんでしょ?」

「はあ、まあ」

「わたしのことを大事に思ってくれる人がいるとわかることは、慰めになる。ちがう?」

 でも、そうではない。ぼくは、萌さんを慰めたくてキスしたわけではない。自分の欲望のためだ。

「でも、やっぱりさっきのはちがうというか」

「だったら、あらためてキスしてくれればいいよ」

「ぼく、好きな人がいるんです。ちょっとちがうかな。まえ話した山口っていう子なんですけど。ぼくは山口が好きだってわかったんです」

「それでもいい。キスして。落ち着くの。奥田くんとキスすると、心が安らぐから。お願いします」

 ぼくは、心が痛んだ。こんなに傷ついている萌さんに、ぼくは慰めを与えることもできない。

「ご、ごめんなさい」

 ぼくはベッドの上に正座して、膝に手をついて頭をさげた。萌さんがぼくの両手をつかむ。そのまま自分の胸に押しつけた。

「萌さん?」

「触っていいよ?奥田くん、童貞なんでしょ?わたしでよければ。ね?だから、もう少しキスしよ?」

「ぼく、そんなつもりじゃ。ごめんなさい、萌さん。ぼく、できません」

「エーブイ女優だから?わたしが人前で簡単にセックスしちゃう女だから?汚れてるから?そうなんですか?」

 ぼくは、そんなつもりで言ったわけじゃなかった。でも、萌さんがこんなことをいうということは、自分の仕事にひっかかるものがあるのかもしれない。

「違います。汚れてるなんて、自分をそんな風に言わないでください。セックスしたって、汚れたりしません」

「それなら、わたしとできるでしょ?」

「できるけど、できません」

「それは、できるしか認めません」

 萌さんがぼくの首に抱きついて、ベッドに引き倒した。襲われる!と思った。非力な萌さんにそんなことができるわけないけど。あまり傷つけずに、うまくお断りするにはどうしたらいいんだろうか。萌さんが上半身下着だけになっていた。いつの間に。

「萌さん、脱がないでください」

「イヤ、襲うんだから」

「ダメです」

 ぼくは起きあがる。萌さんもつづいて起き上がる。萌さんのブラジャーがはらりと落ちる。萌さんがぼくの手をつかんで、おっぱいに押し当てる。二度目だ。しかも今度は生だった。破壊力がすさまじい。ああ、ダメだ。萌さんのペースに乗せられている。でも、さっきより元気そうだ。いや、あとでダメージがくるにちがいない。きっと自分自身に幻滅してしまう。ここは、ぼくがガンバらなければならない。萌さんのおっぱいは、あたたかくて、やわらかくて、すべすべで、ぼくの心を動かす力があった。ぼくは、萌さんを抱きしめた。

「萌さん、もうやめてください。こんなことをしたら、自分が嫌いになってしまいます」

「ううん。わたしはこういう女です」

「同情でもいいんですか?」

「同情を悪く言う人がいるけど、なにがいけないの?その人に感情移入して同じ気持ちになるってことでしょう?わたしに共感してくれる人を悪くいうなんてことは考えられない」

「でも、いまは萌さんに共感できません」

「それは、奥田くんが童貞だからだよ。だから、セックスが重大なことだと思えるだけ。セックスは普通のこと。もっと気軽に楽しんでいいことなんだよ?」

「でも、まだ童貞ですから」

「じゃあ、やっぱり、無理矢理でも、童貞を卒業させなくちゃ」

 萌さんもぼくに抱きついて、横に倒れた。ぼくに抱きしめられて自由の利かない手で、ぼくの股間をまさぐってきた。ああ、ダメになる。ぼくの意志が。

「黙っていれば、大丈夫。わたしも誰にも話しません。こんなに固くしてしまって、ガマンは体に悪いですよ」

 悪魔のささやきが、耳をくすぐる。なんということだ。こんなチャンスは一生に一度かもしれない。チャンス?山口の声がよみがえる。山口は、チャンスじゃない?と言った。あれは、萌さんと観覧車に乗ったときの報告を山口にしたときだったか。もう忘れたけど。山口のことを思うと、萌さんに甘い顔をしているわけにはいかない。ぼくは力づくで萌さんを自分から引きはがした。そのままベッドから降りる。萌さんは上半身裸でベッドに女の子ずわりして、キョトンとしている。ぼくがこんな強硬策をとると思っていなかったのかもしれない。

「萌さん、ごめんなさい。ぼく、これで帰ります。あの、慰めは、ハグと背中をなでるくらいで、今後お願いします。そういうことがないことを祈ります」

 股間がふくらんで歩きづらくて、手で押さえた。バッグを拾い上げて、萌さんの部屋を退出した。

 萌さんとキスしてしまった。山口以外の女性とキスするなんて、自分が憎かった。

 ぼくは萌さんに対して、人前で初対面の男とセックスができるような女なんだと偏見をもっていたんだ。だから萌さんの気持ちも考えずにキスしたんだ。ぼくも、青木さんと同じじゃないか。

 自分が嫌になる。くやしい。時間を巻き戻してやり直したい。

 雨が傘を叩く音が悲しい。

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