10-2 電車でとなりの席におばあさんがすわった。ヨーロッパの品のよいおばあさんだ。
ぼくは一週間の休みをとってスイスにきた。これから夏に向けて撮影が立てこむため、季節を先取りした夏休みをとったのだ。
ツェルマットという町からアプト式の電車に乗って、ゴルナーグラートへ来られる。高山病になる人もいるけど、ぼくは鈍いからか大丈夫だった。なってしまったら、標高の低いところまで降りるしかない。対策としては、水をいっぱい飲むこととよく言われる。
このゴルナーグラートからマッターホルンを撮影するために、ぼくはスイスまで来た。
写真で一歩踏み出すため賞に応募しようと思ってすぐ、マッターホルンを撮影しようと決めた。調べると、ゴルナーグラートから狙うのがよいとわかった。ホテルが一軒だけ建っていて、運よく予約できた。ヨーロッパは、どこのホテルもツインルームばかりなのか、シングルルームというのが見つからなかった。一人でも二人でもツインルームで、一人あたりの料金が少しちがう。
ホテルの部屋へ戻り、ノートパソコンとメモリカードにカメラの画像データをバックアップする。ホテルの無線回線を利用してインターネットに接続できる。パソコンでメールをチェックする。ケータイのメールもパソコンからチェックできるようにしてある。
萌さんからメールがきていた。躊躇せず本文をダウンロードして開く。萌さんが青木さんに告白して、断られたという内容だった。セクシータレントと付き合うつもりはないと言われたと書いてある。ホテルの受付でテレホンカードを買って、萌さんにかける。いま日本は夕方だ。公衆電話からの着信にでてくれるだろうか。二十回コールしても萌さんはでなかった。今日は日本へ帰る日だ。萌さんと話せるのは日本にもどってからになりそうだ。
それにしても、青木さんだ。断ることは考えられた。萌さんは青木さんと対等というより、守ってあげる対象という感じだ。青木さんの好みとちがうことはわかっていた。萌さんは、写真に興味をもとうとしたり、青木さんの行くバーで青木さんの好みを知ろうとしたり、青木さんの好みにちかづこうと努力していた。それなのに、セクシータレントだからということで断るなんて。萌さんは人柄もいい。セクシータレントという言葉から想像される私生活がだらしないとかいうこともない。青木さんはセクシータレントと身近に接して、ヘンな先入観にとらわれるような人ではないと思っていたのに。ぼくは裏切られた気分だった。
萌さんからのメールを見たあと、そんなことをグルグルと考えたり、すこしの間忘れたり、また思い出したりした。
帰りの飛行機は午後一時だ。朝食を食べずにホテルをチェックアウトし、ツェルマットへおりる。ツェルマットからチューリッヒまで、電車で一回乗り換えるだけで行ける。乗り換えの時間はあまりなくて、食料を調達して乗り込むと、すぐにドアが閉まった。あとは二時間くらい乗っていればチューリッヒにつく。空港でも余裕はない。出発一時間前くらいにつく予定だ。
電車でとなりの席におばあさんがすわった。ヨーロッパの品のよいおばあさんだ。ぼくに英語で話しかけてきた。
「日本から来たのですか?」
「そうです。これからチューリッヒに行って、飛行機に乗って帰ります」
「スイスを楽しめましたか?」
「いい写真が撮れたと思うから、よかったです」
「写真ですか。仕事で?」
「賞にだすための写真です」
「日本の人は、外国の風景が好きですね。あなたは、日本の風景をヨーロッパに紹介してください」
意表をつかれた。写真を外国の人向けに撮るという発想はなかった。当たり前のように、ぼくの撮った写真は日本人しか見ないものと考えていた。なるほど、日本の風景は外国の人には新鮮かもしれない。ぼくがヨーロッパの風景を新鮮に感じるのと同じことだ。写真に言葉は関係ないのだ。ぼくが撮った写真を外国の人に見てもらってもなにもおかしくない。ぼくはおばあさんに、いいことを教えてくれてありがとうと言った。英語が得意ではないから、シャベッたことが意図どおりに伝わったかはわからない。世界が急に広がったような気がして、この驚きと感謝を伝えたかったんだけど。
飛行機の中では、起きているのか寝ているのかわからない状態で、萌さんと青木さんのこと、山口のこと、写真のことを考えていた。ときどき食事の時間になって、夢うつつの状態で喉に通した。
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