10-1 風景のプロではありません。エッチなビデオのパッケージを撮っています
三脚を担いで歩く。カメラバッグも、もちろん肩にかけている。頭には一応ヘッドライトをつけている。今夜は満月。西の空でぼくの行く手を照らしてくれる。短い坂道をのぼって展望台についた。さすがにこの時間、ほかにカメラマンはいない。
標高が高いせいで、六月とは思えない寒さだ。ぼくは手をこすって解凍しながら、三脚とカメラをセットする。
作り物のような世界。足元は瓦礫。目の前には岩肌をあらわにした山頂。その向こうに夜空のスクリーン。動植物の気配はない。世界がすべて静止していて、ぼくだけが動いているような錯覚がする。月とぼくの二人だけ。月がぼくに話しかけてくる。そんなヘンな想像を加える。
西にある山頂と満月を画面におさめるように構図を決める。カメラをセットし、レリーズをつけて、ファインダーにキャップをつける。特徴的な尖った山頂を基準に露出を決めて撮る。次に、設定を変更して、満月を基準に露出を決めて撮る。これで画像を合成して、山頂と満月両方に狙いどおりの露出で撮った一枚の写真に仕上げることができる。
満月が沈む前に東の空で朝焼けがはじまる。山頂付近が朝日で赤く染まる。カメラの設定を変更する。ノンビリしていると日が昇ってくる。太陽の光が西の空まで回り込んで、空は色を黒から群青に変える。こういうときは、なんて速く自転するんだと地球に文句をいいたくなる。
現像ですこしは修正できるけど、つぶれたり飛んだりしたら救いようがない。山頂でも、朝日の当たらない部分が黒くつぶれないように、朝日の当たっているところと月が白く飛ばないように、さじ加減をする。山頂が染まっている赤をできるだけ濃く撮影したい。アンダー気味なんて贅沢かもしれない。うまくいくように念じてシャッターを切る。あとは運だ。
ぼくは運がよくない。懸賞にあたったこともない。どちらかというと不運にあたることが多いと思う。でも、今回の撮影はこれまでのところ運がよかった。今日のために運を貯金してきたようなものかもしれない。月にも山頂あたりにも雲がかかっていない。朝早くは雲が少ないことが多いんだけど、それでも、すこしは雲がかかっていたりするものだ。
太陽が昇ってくる。山頂を染める朝焼けの光が黄金に変わる。最後のシャッターチャンスを逃さない。月は沈んだ。あとは日が高くなってゆき、普通の写真になってしまう。ぼくは撮影を終えた。
いつの間にか、まわりにカメラの三脚がいくつも立っていた。満月と山頂は有名な被写体だから当然だ。一番乗りでいい場所を確保できてよかった。朝の山頂を見ようと撮影目的ではない人たちもやってくる。
背中にペラペラと早口で話しかけられた。なんですかという顔をつくって振り向く。
「日本人ですか?」
「はい。なんでわかりましたか」
ぼくは意外な気持ちで答える。日本人に人気の観光地だ。それに日本人にカメラ好きは多い。ぼくのことを日本人だと思うのは不思議じゃないけど、日本語で話しかけてきたのだ。
「中国人と、韓国人も多くなりました。でも、一人で写真を撮っている人は日本人です」
「たしかに、中国と韓国の人は団体行動が多いですね」
「それに、風景だけを撮るのも日本人です。中国人も韓国人も自分を撮ります。人を撮ります」
「ふーん、それは気づかなかった」
自分たちでは当たり前で比較の尺度をもっていないことがあるんだと、感心した。
「満月でしたね」
「はい。むづかしいけど、写真を撮りました」
「よく撮れましたか?」
いま撮影していたカメラを表示モードにして、自分でも確認しながら、ヨーロッパ人のオジサンに見せた。ガタイがよくて、口髭と顎髭をはやしている。衣装を着替えればサンタクロースという趣だ。
「ああ、いいですね。あなたプロですね?」
「風景のプロではありません。エッチなビデオのパッケージを撮っています」
パッケージでも裏側の写真だけど。
「本当ですか?なぜ風景を撮らないですか」
「カメラマンは仕事を選ぶことがむづかしいです。風景を撮る仕事はとてもむづかしいです」
このオジサン、流暢に日本語を話すけど、ところどころ日本語がわからないらしく、ぼくにわからない言葉がでてくる。英語でもないみたいだった。スイスではドイツ語とかフランス語がよく使われるらしいから、どちらかだったのだろう。日本で生活したことがあるらしかった。写真に関係する仕事をしていたのか、ただ写真が好きだったのか、いっていることがわからなかったけど、ぼくの写真に興味を示してくれた。ぼくはカメラバッグにメモ帳とペンを持ち歩いていたから、メールアドレスを交換した。ぼくの電話は海外での使用に対応していなくて、日本に置いてきていた。このオジサン、得体がよくわからなかったけど、日本にくるときは連絡してくれと言ってわかれた。
スイスでの最終日にいい写真が撮れたという手ごたえがあった。ぼくは、しばらく会っていない山口を思った。海外にきて、いろんなものを見たり、経験したりするたびに、山口にも見せてやりたいとか、山口と一緒に経験したいと思うことばかりだった。
ぼくは山口が好きなのだと、この一週間ではっきり自覚した。山口が好きだと認めるのが、気恥ずかしかっただけなのだ。専門学校の学食で、はじめて山口がとなりの席にすわって話しかけてきたとき、かわいいなと思った。あれが、もう一目惚れだったのだと、今なら素直に言える。あのとき以来、ぼくの気持ちはずっとかわらない。早く山口に会いたい。そして気持ちを伝えたい。
萌さんに言われたことがあったっけ。しばらく距離をおいたら、好きだ、会いたいと思うようになるって。本当にその通りだ。もっと早くこういう機会があれば、恋人としていろんな経験をしてこられただろうに。もったいないことをしたと思う。
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