ドライアイス・エンジン
本間 海鳴
ドライアイス・エンジン
永遠は、存在しないからこそ美しい。そして、終わりは何かの始まりである。何かが始まる瞬間は、永遠よりも美しい物である。
「瀬堂さん、撃たれたんすか?」
部下である長田くんが、私の顔を見るなり笑いながら言った。
「撃たれた?」
「ヤバいっすよ、胸ポケット」
はっとしてワイシャツの胸ポケットを見る。差した赤インクの油性ペン。インクが漏れだし、左胸を真っ赤に染め上げていた。
「しまった、なんだこりゃ」
「よかったっすね、スーツの上着てて。上着脱いで電車乗ってたら、笑い者でしたよ」
スーツの上は会社に着くまで脱がない。それを知っている長田くんは、涙を流しながら笑っている。急いでスーツの内側を確認したが、そこまでは染みていないようだ。
「参ったな。さすがにこれは洗濯じゃ取れないぞ」
意味が無いと知りながらも、赤い染みを爪でカリカリとかいた。ビクともしない赤い染みは、ぼんやりとあの日のことを思い出させる。
心臓の鼓動よりも下を通り抜けていく音。腹の底を震わせるのは、低いエンジン音と、それを操ることへの興奮である。
ハーレーダビッドソンは、男の浪漫だ。跨っている時だけは、まるで洋画の主人公にでもなったかのような気がする。ライダースジャケットは上半身に吸い付いて風を切る。ここにベレッタでもあれば、最高のヒーロー気分を味わえたことだろう。
日本の道路は、狭くて曲がりくねっている。信号も多い。この大きな怪物は、きっとこの道に満足していないはずだ。
「すまんな、相棒」
フルフェイスヘルメットを被っているのをいい事に、ヒーロー気取りの台詞を吐き散らかす。
「いつかちゃんと真っ直ぐな道を走らせてやるよ」
答えるかのような『唸り声』。
バイクは五月蝿い、などと誰かは言う。だがそれは間違いだ。正しくは、『安いバイクは五月蝿い』。その辺の原付の、屁に拡声器を付けたような音と一緒にされるのは心外である。本物は、隣に停車していても五月蝿くはない。体の内部を震わせ、血を沸騰させ、見るもの全てに感嘆の溜息を吐かせる。それが、本物だ。
しばらく道を走らせ、高速に乗る。休日の高速道路は、ライダー達の遊び場だ。現に、今も私の前に一台、ヤマハのドラッグスターが走っている。くすんだようなシルバーが、色気のない色のアスファルトを切り裂いて走って行く。
私の後ろからも、心地よい低音が聞こえている。そうだ。思わずにやりと笑みが零れる。これでこそ休日だ。フルフェイスヘルメットを被ると、気持ちが大きくなる。外から表情が見えていないことが、ヒーロー気取りを膨らませる。
パーキングエリアも、もう近場は回り尽くしてしまった。県内最後のパーキングエリアでソフトクリームを買いながらぼんやりと考える。来週はついに県外まで足を運ぶことになる。確か隣県のパーキングエリアには美味いラーメン屋が入っていたはずだ。いつもは昼過ぎに家を出るが、来週は昼前に出るとしよう。来週のランチはラーメンだ。
「うわ〜、ロードキングだ!」
ソフトクリームを舐めながら愛車にもたれかかっていると、後ろから声がした。
「赤のロードキング、カッコイイなぁ」
振り向くと、片手にヘルメットを持った女性がはしゃいだ声を上げている。二十五歳くらいかもしれない。そうすると自分よりも十歳ほど年下になるな。
「でも、味覚は可愛いんすね!」
薄い桃色をしたソフトクリームを指さされる。
「美味しいんだよ、ここの桃ソフト」
「えっ、そうなんですか!」
「うん、見た目ほど甘くないよ」
言いながら、女性の背後のバイクにちらりと目を向ける。
「フォーティーエイトか。カッコイイな」
真っ黒い重厚感のあるボディに、目立つ銀色のマフラー、ファットタイヤ。女の子が乗るには、些か『ゴツい』気もする。
「いいでしょこの子! ずっと憧れてたんです。けど今日はちょっと浮気しそう」
私の愛車、ハーレーダビッドソンのロードキングに釘付けの彼女は目を輝かせている。フォーティーエイトの排気量は1200ccに対し、ロードキングは1700cc。
少しレトロさを感じられるボディと、美しい音を奏でるためにカスタムしたブラスマフラー。
「あの子が泣くぞ」
「いや、あの子だってきっと分かってくれるはずです」
どういう理屈だ、と言いながら、私はソフトクリームを平らげた。
「……跨ってみるか?」
あまりの目の輝きに、ついそう口走った。
「良いんですか!?」
真っ直ぐな目が、今度は私に向けられた。
「あ、あぁ。いいよ」
たじろぎながら答えた。愛車をちらりと見る。よくこんな目に見つめられて、穴が開かなかったものだ。私の気が変わらないうちにと急いで我が愛車に跨る彼女のライダースジャケットのポケットからは、赤いマルボロが覗いていた。
喫煙所に入ると、見覚えのない先客がいた。長くこの会社に務めているため、喫煙所に入る人間は皆顔を覚えているつもりだったが。
見るからに煙草など吸わなさそうなあどけない顔の女性。
「失礼するよ」
声をかけると、彼女はハッと振り向いた。
「すみません、気付きませんでした!」
「考え事でも?」
「そんなとこです……」
ぺこぺこと頭を下げる彼女の首には、名札入れがかかっていた。中の名札の周りの縁取りは青色。
「あぁ、会計部の新人さんか」
二ヶ月ほど前、会計部門の社員が突然寿退社した。その代わりに新しい子を入れるという話は風の噂で聞いていたが、それがこの子だったようだ。
「はい。よろしくお願いします」
「喫煙所くらい肩の力は抜いておきな。私は気にしないよ」
「そんな訳には」
「真面目だねえ」
私は笑って、ポケットからウィンストンを取り出す。ZIPPOの火が、真昼間の明るい喫煙所に揺らめく。
「仕事の悩みならここで吐いていくといい。煙と一緒に」
彼女は慣れた手つきで灰皿に灰を落とし、はは、と乾いた笑顔を作った。
「優しいんですね」
「まさか。不真面目なだけだよ」
彼女は煙草の煙を宙に浮かべ、それが消えるのを見つめていた。
「君も不真面目なはずだ。煙草を吸う人間はみんな不真面目だよ」
「そういえばそうかもしれませんね」
火の光が二つ、ゆっくりと灯る。
「私、前の仕事場クビになっちゃったんです。それがトラウマで」
ぽつりぽつりと、まるで声が喫煙所の壁を通り抜けてしまうのを恐れているかのように彼女は呟く。
「ここでもなんかやらかしちゃったらどうしようって、ずっと考えてたら疲れちゃって」
続けて、ふふ、と呆れたような笑い声。
「考えてても、どうにもならないんですけどね。そんなことは分かってるんですけど、なんか」
長く伸びてしまった灰を、灰皿に落とす。人々には色んな事情があるものだ。悩みの種も、然り。
「君の言う通りだね。考えていても、どうにもならんさ」
彼女は煙草を咥えたまま頷く。
「でも、それ以上に何も考えない人は、どうしようもない人になってしまうよ」
しん、と喫煙所が静かになった。ふと彼女を見ると、ぽかんとしたような顔でこちらを見ている。さすがに台詞がクサすぎただろうか。微妙な居心地の悪さを感じて、私はゆっくり煙草に口を近付けた。
「……あんまり見ないでくれないか。吐き出してしまった台詞は飲み込めないんだよ」
苦笑しながら言うと、彼女はぶんぶんと首を左右に振った。文字通り、首が飛びそうな勢いで。
「すごく、元気出ました」
そうか、と私は答える。それならよかった。短くなったウィンストンを灰皿にねじ込む。
「ちなみに、前の職場で一体何をやらかしたんだ?」
冗談混じりにそう言うと、彼女は俯いて呟いた。
「……セクハラ上司を、ぶん殴りまして……」
思わず噴き出す。顔に似合わず、なかなか凄い子だ。
「いいじゃないか。君は正しいよ」
「でもさすがに……大人げなかったですかね……」
「いいんだよ。大人げない方が」
彼女はまた、へへ、と笑った。やはり、不真面目は最高だ。
隣の県のパーキングエリアも、残り一つとなった。フルフェイスヘルメットの中が暑苦しい。吐いた息が熱波となって押し寄せる。八月の信号待ちは、サウナだ。走っている最中は風を感じ、汗が冷めて寒いとまで感じる。だからこその長袖なのだが、風邪が無くなるとそれはただの拷問と化す。汗で蒸れた体が、水を欲している。
最後のパーキングエリアで、名物コロッケとアイスコーヒーを買う。愛車近くの縁石に腰を下ろし、コロッケに齧りつこうと口を開けた時だった。
「ロードキングのお兄さん!」
聞き覚えのある明るい声が背後から聞こえた。
「……フォーティーエイトの子だな」
「また会いましたね!」
ぶんぶんと手を振られ、私は形だけのため息をついた。
「随分と楽しそうじゃないか」
「えっ、お兄さん楽しくないんですか?」
「そういうことじゃない」
花が咲いたように笑った彼女は、またまじまじと私の愛車を眺めている。
「ツーリングかい? 浮気お嬢さん」
「やめてくださいよ! 私は一途です」
「あまり説得力が無いな」
私は名前も知らない彼女をぼんやりと眺めながら、コロッケを齧った。
「お兄さんもこの辺をツーリングですか?」
「まあね。ここのコロッケが美味いって聞いたから」
「コロッケ一個のためにバイクに乗れるなんて大人だなあ」
「趣味はお金がかかるもんさ」
言いながら、またコロッケを齧る。サクサクの衣が歯の間で崩れる。口の中に広がるのは、甘さの際立つじゃがいもと、牛肉の旨み。じゅわりと油の熱が後を追いかけ、鼻からは隠し味のカレー風味が抜けていく。
「ここのコロッケ美味いぞ。食べてみたらどうだ」
ロードキングの脇にしゃがみこんでマフラーを見つめている彼女に声をかけると、何故か苦々しげな表情の少女は振り向いた。
「すごいいい匂いはしてますよね……」
「美味いぞ。奢ってやろうか?」
食いついてくるだろうと思ったのだが、彼女はしかめっ面のままだ。私は首を傾げながら、片手に持ったアイスコーヒーを飲む。
「……ああ、もしかしてコロッケが嫌いか。だったら別のもんでも……」
「違いますよ! コロッケは大好きです」
「じゃあなんで食わないんだ」
彼女はしばらくアスファルトを睨みつけた後、声を絞り出すようにして言った。
「……ダイエット中なんです! 言わせないでくださいよ」
なるほど、と私はわざと彼女の近くに歩いていく。
「ほぉ、そりゃあ残念だ」
「なんでこっち来るんですか」
「ほらほら、この齧る音聴いてみろ。揚げたてだぞ。雄大な牧場で育った国産牛は品のある甘みで……」
「いいですいいです、実況しなくても大丈夫ですから!」
ぶんぶんと彼女は頭を振る。
「せっかく心に決めたのに、誘惑しないでください!」
「誘惑だなんてとんでもない。この素晴らしさを誰かと共有したいだけさ」
「だからぁ、お願いですからこっち来ないでください!」
彼女がコロッケの香りから逃げようと後ずさる。と、彼女の体がぐらりと揺らいだ。足元の縁石につまづいたようだ。
「わあ!」
咄嗟に片手を出して彼女を支えようとしたが、差し出した右手にしっかりとアイスコーヒーを握っていたことに気付かなかった。アイスコーヒーの蓋は外れて中身は弧を描き、それに驚いた私は思わず手を引っ込め、彼女はそのまま後ろに倒れた。弧を描いた限りなく黒に近い茶色の液体は、倒れた彼女の上に降り注ぐ。彼女の白いTシャツはたちまち斑点模様になり、私の手のプラカップの中身は半分になった。
「しまった、ごめんよ、大丈夫か?」
焦りのあまり、単語を羅列することしか出来ない情けない男がそんなことを言う。大丈夫なはずがない。カッコよくカップもコロッケも放り出して女性を助けてこそ、真のバイカーだろう。それを、たった何百円をケチったあまりに、目の前の彼女を助けることもできず、おまけに珈琲をぶちまけるという失態を犯してしまったのだ。こんなことでは、たとえ我が愛車と共にルート66を颯爽と走ろうとも、外面だけ飾り立てて中身は空っぽ。ダサさの極みだ。
慌ててカップとコロッケを道路に置き、尻餅をついている彼女に手を差し伸べる。
「本当に、本当にごめんよ」
何と声をかけて良いのか分からず、同じことをもう一度繰り返す。しかし、ぱっと顔を上げた彼女はこちらを見て笑った。
「お兄さん謝りすぎですよ! 私大丈夫ですよ、ほらほら」
私の手を握ることも無く軽やかに立ち上がった彼女は、その場でくるくると回った。
「ま、また転けたら大変だ」
「過保護ですねえ。女は強いんですよ、あんまり見くびっちゃダメです」
「いやでも」
私はもう一度彼女のTシャツに目を落とす。左肩から流れた珈琲が、かなり広範囲に水玉模様を作り出している。
「ああ、これも大丈夫ですよ」
「弁償しよう」
「いいですよ、安物ですから。三枚で百九十八円」
「安いな……」
「でしょ? セール品でしたし、同じのあと二枚持ってます」
彼女はそう言うと口を横に広げ、親指を立てた。
「しかもこれ多分、上着着たら見えませんよ」
彼女はそう言って、腰に巻いていたジャンパーを羽織った。シルバーの薄手のジャンパーに腕を通すと、意図されていたかのように染みは隠れた。
「確かに隠れはしたが……」
「いいんですいいんです! お兄さんは心配しないで」
「いや、でも……」
と言いながらふと彼女の手のひらを見る。手のひら、親指の下辺りがうっすらと赤い。
「もしかして、手のひら怪我したか?」
言うと、彼女は手をぱっと広げた。
「あれ、ほんとだ」
「大変申し訳ない……」
頭を深々と下げた。
「いや、転んだのは私が勝手に転んだんですよ」
「だが助けられなかったのはこちらの落ち度だ」
「大袈裟だなあ」
私はバイクまで走っていき、バッグから絆創膏を取り出した。バイクですっ転んだ時に、せめて応急処置くらいは自分で出来るようにいつも持ち歩いているものだ。そうは言いつつ、バイクに絶対に傷を付けたくない気持ちが勝って事故は起こしたことが無いのだが。
「使ってくれ」
「いいんですか?」
彼女は絆創膏を受け取り、手のひらに貼り付けた。絆創膏のガーゼ部分に、じわりと赤い血が滲んでいるのが見えた。
「本当にすまなかった、お詫びに何をしたらいいか……」
「お詫びなんていいですよ。本当にそんなに気にしないでください」
困ったように眉が下がる。ころころ変わる表情が、まるで幼稚園に入りたての子供のようだった。
「あ、そうだ」
彼女がぱんと手を叩いた。
「そしたら、コロッケ奢ってください」
「え、ダイエット中なんじゃ」
「気持ちが変わったんです。太ったらお兄さんのせいですからね」
なるほど、と私は思った。よく気がつく子だ。
「分かった。それで許してくれるんだな」
「許すかどうかは分かりませんよ」
いたずらっぽくそう言って踵を返した彼女のポケットに、マルボロの箱は入っていなかった。
「瀬堂さん、私禁煙しようと思うんですよ」
口から煙を撒き散らしながら、渕野さんは言った。
時々喫煙所で出会う会計部の新人は、渕野という名前だった。何度も会っているうちに、喫煙所でたわいの無い話をするのが日課になっていた。
「煙草を咥えながら言えることかい?」
「いえ、今度こそやめます」
彼女はそう言って、煙草を咥えて吸い込んだ。矛盾はいつも現実と隣り合わせだ。
「今度こそ、ってことは、もう何度か挑戦しているわけだ」
私も、ウィンストンの煙を吐き出す。小さい頃遊んだ、ドライアイスを思い出した。この小部屋の中は、ドライアイスを入れた流し台のような時間が流れている。
「はい。でも今度こそやめます」
決意は固いようで、渕野さんはもう一度そう繰り返した。
「だから瀬堂さんとここで会うのも、これで最後になるかもしれません」
まるで決め台詞を言うかのように、彼女はこちらを真っ直ぐに見据えてそう言った。
「そうかい」
「あ、今笑いましたね」
「そんな馬鹿な。決意を笑えるほど出来た大人じゃないさ」
渕野さんは膨れっ面で、それでも慣れた手付きで灰を落とす。
「元はと言えば母が悪いんですよ」
「ほう。お母様が吸ってたのか」
「そうです。影響受けちゃって」
私の煙草から細く出る煙と、彼女の煙が交差する。私は、ホープを吸う父親の背中を思い出す。
「影響、ねえ」
父親は、無口な仕事人間だった。それでも私は父親が好きだった。きっと母親は苦労したことだろう。だが、母親の苦労に気付いたのはつい最近になってからだ。父親のようになるために走ってきた私は、いつしかもう五十代にも終止符を打とうとしている。
「だがもし渕野さんが来なくなったら、寂しくなるな」
渕野さんがにやりと笑う。
「そうでしょう。瀬堂さん一人になっちゃいますもんね」
この時間に喫煙所に来るのは、いつの間にか私と渕野さんの二人だけになっていた。以前までこの時間の常連だった濱永君は先日転勤になり、たまに顔を見せていた藤原君も、この時間は会議になってしまった。つまり、渕野さんが来なくなれば、私はたった一人で毒煙に塗れることになる。
「一人でも構わんが、やはり華がないな」
「そうでしょう」
何故か得意気に彼女が胸を張る。
「まあ、『本当に禁煙出来れば』の話だがな」
「あ、なんですかその言い方」
「特に狙いは無いよ」
しばらく、二人とも無言で煙を吐き続けた。じりじりと煙草が短くなる。無機質で固い部屋の中で、何者にも説明し難い心地良さが流れる。
「……では、お先です」
渕野さんはいつも、私より早くここに来て、私より早くこの部屋を出る。
「お疲れさん。また会おう」
「会いませんよ!」
困ったように眉が下がった。思わず笑みが零れて、煙で目の前が曇った。
「そうだな。成功することを祈ってるよ」
「そうしてくださいね!」
彼女が喫煙所のドアを開けて出て行くのを見送りながら、私は二本目の煙草に手を伸ばした。
私の住む町から少し離れた所のバイクショップに、私がずっと探し求めていたカスタムパーツがあるらしい。その情報を耳にした私は、休日になるや否や一目散にその店にバイクを飛ばした。
愛車に乗って、一時間半。ようやく到着したものの、その情報は真実ではなかったようだ。カスタムパーツは手に入らなかったが、愛車に乗る時間が出来たのでさほど気には留めない。バイクショップの中をぶらぶらしていると、見覚えのあるバイクが目に止まった。
黒のフォーティーエイト。そしてその隣で店員と何やら話している、快活そうな白いTシャツの女性。
「……もしかして」
そこまで口にして、自分が彼女の名前も知らないことに気付いた。どうしたものかと思案していると、微かに出した声に彼女の方が反応した。
「あれ、ロードキングのお兄さん?」
そういえば、向こうもこちらの名前を知らないんだったな。苦笑しながら、彼女に近付いた。
「まさかパーキングエリア以外でも会うとは」
「ほんとですよ。しかもこんな日に会うなんて」
「どういう意味だ?」
私が問うと、彼女はあの時と同じように眉を下げた。
「実は、バイク売ることになっちゃって」
「え!?」
思ったよりも大きな声に、店員さんの肩が跳ね上がった。彼女は困ったように、ははは、と笑った。
あんなにバイクを愛していた彼女が、そんなに簡単に手放すはずがない。現に毎週出かけている私に二度も会うほど、彼女もバイクで出掛けていたのだ。見たところバイクの不調というわけでも無さそうである。
「何があったんだ?」
「だからあ、大袈裟なんですってお兄さん!」
彼女は店員さんが書類を取りに行くのを目で追いながら、ぽつりと呟いた。
「今度私、結婚するんです」
静かな教会の中で、ピアノを一回叩いたような、不思議な響きを感じる。
「……結婚?」
「ええ、結婚します」
寂しそうにフォーティーエイトのタンクに手を置いて、彼女は言った。
「結婚して、ちょっと遠くへ引っ越すんです。そんなに広い場所でも無いし、家賃も高いし、バイクの維持費払えそうになくて。だから、夫と相談して手放すことにしました」
へへ、と彼女は笑った。やはり園児のような顔だった。そんな彼女の口から飛び出す言葉が全て、『大人』を表していた。
「……そうなのか」
「この子とも、結構長く遊んでもらいましたしね! もう六年ほど一緒でしたし、バイク離れも悪くないかなって」
彼女はそう言って頭をかいた。私は何も言えないまま、書類を手にして戻ってきた店員の手を意味も無く眺めていた。そして、すぐ隣の彼女から、煙草の匂いがしないことに気付いた。きっと、それも手放したのだ。大切な誰かのために。
「……ん? 今六年ほど一緒だったって言ったか?」
「ええ、もう六年ほど一緒でしたよ」
私は首を捻る。彼女は二十五歳くらいだと思っていた。だが、そこから六年前となるとまだ十代だ。ハーレーは、十代から乗れるような代物ではない。
「……君は一体幾つなんだ?」
思わずそう問いかけた。
「ちょっと! 女性に年齢聞いちゃダメって習わなかったんですか?」
彼女は笑いながら私の肩を叩いた。
「私、もう三十五ですよ! もうそろそろ落ち着いてもいい頃でしょう?」
「え!?」
素っ頓狂な大声にまた驚いた店員が、サインを求めるべく持っていたボールペンを取り落とす。
「嘘だろ……同い歳だったのか……」
「え!?」
今度は彼女が大声を上げた。
「ごめんなさい、てっきりもっと上なのかと……」
彼女はそう言って噴き出した。
「お兄さんじゃなかったんですね!」
「老け顔なんだよ……」
不思議な会話をする二人を、不思議そうな目で店員が見ている。私も彼女の愛車であったフォーティーエイトのハンドルをそっと撫でた。
「……いい子だったな、お前」
フルフェイスヘルメットも被っていないのに、思わずそう呟いた。彼女は気付かなかったようで、店員と話をしていた。
きっと、彼女の大事な人よりも彼女をことを知っているであろうフォーティーエイトは、しばらくしてバイクショップのガレージへと連れられていった。彼女はタクシーを呼び、少しだけ私に手を振って帰っていった。
「……帰るか、相棒」
私はロードキングに跨り、フルフェイスヘルメットを被ってそう呟いた。相棒は答える代わりに、地を這うようなエンジン音を鳴らす。
家路に着きながらも、私は彼女の言葉が忘れられなかった。
『私、結婚するんです』
ゆったりとしたスピードで、ロードキングは国道を走る。
『バイク離れも悪くないかなって』
ゆらゆらと、広い背中が見える。細くてあどけなくて、子供のような顔をした彼女が、父親の姿と重なるのは何故だろう。タクシーの中から控えめに振られた手が、父親の手と重なるのは一体何故だろう。
ああそうか。ロードキングは唸り声を上げて、交差点の手前で止まる。
大人だ。あれが、大人なのだ。
昔の夢を見た。ロードキングで国道を走る夢。もう何年も、バイクには乗っていない。あの日から、仕事に精を出すことにした。昔、父親の背中を美しいと思っていた。ああなりたいと子供ながらに思っていた。大人になるとは、きっとそういう事だ。
そう言い聞かせていた。
「おいおい、どうしたんだよ」
喫煙所に行くと、見覚えのある顔が目に留まった。青い縁どりの名札。
「……また会いましたね」
居心地悪そうに隅に寄った渕野さんは、小さい声でそう言った。
「つまりはアレだ。失敗したわけだな」
私も喫煙所の隅に行き、ポケットからウィンストンを取り出した。ZIPPOの火が灯る。白い棒に、火が揺れる。
「……しょうがないですよ。家に帰ったら母親が吸ってるし、父親も吸ってるし、それに煙草好きだし」
もごもごと聞き取りにくい声で、渕野さんは言う。
「結局私は不真面目ですよ。ええ、不真面目です!」
やけくそのように、彼女は煙を吐いた。私は思わず噴き出した。
「いいんじゃないのか? 不真面目で」
「……いいんですかねえ」
渕野さんは煙草を唇に挟み、天井を見上げた。あどけない顔だが、煙草はよく似合っていた。
「でも、好きなことってやめらんないんですよね」
天井を見上げたまま、彼女はそう言った。
「好きな物が、離してくれないんですよ。私のこと」
煙が交差する。真面目な人は触れられないドライアイスが、ここを満たしている。
「母親が目の前で吸うんですよ。私の目の前で。私が煙草好きなの知ってるから。ほれほれーって言いながら」
「いいお母様だ」
「いいのか悪いのか分からないですよ」
渕野さんは、私の方を向いて口を横に広げた。
「でも、最高にカッコイイですよ、うちの母」
その顔が、誰かに似ていた。昔見た、誰かの顔に。
「多分今日も、一人でバイク乗り回してますよ。父親は危ないからやめてくれって言うけど」
困ったように眉が下がる。煙が顔をベールのように覆っている。
急に、頭の中を不思議な記憶が駆け巡った。じわりと顔が熱くなり、汗が滲む。上着を脱ごうとして、服についた赤い染みを思い出す。上着で隠れる赤い染み。絆創膏のガーゼに広がる、赤い染み。
「でも、遊べる時に遊ばなきゃ損でしょって、子供みたいに笑うんです」
おかしいでしょ。彼女はそう言って、灰皿に煙草を捻じ入れた。私の心臓が、内側から胸を叩いている。ここから出してくれと言わんばかりに、胸を叩いている。子供のような顔。人懐っこい笑顔。
「というわけで、煙草やめないことにしました! またよろしくお願いします!」
元気よく頭を下げた彼女は、その姿勢のまま顔を上げて、へへ、と笑った。ああ、だから、不真面目は最高なんだ。
「……正直で結構。また会おう」
私は煙を吐きながらそう言った。はい、と元気よく言い、踵を返した彼女のポケットには、赤いマルボロが入っていた。
「……まさかな」
誰に言うでもなく、そう呟く。煙と共に、名も知らぬ同じ年齢の彼女を宙に浮かべる。きっと、素晴らしい『大人』になっているに違いない。
「……まだ行けるか? 相棒」
フルフェイスヘルメットも被っていないのに、そう呟いた。胸から湧き上がる、懐かしい高揚感。遠くで、答えるかのように心臓を叩くようなエンジン音が聞こえた。これからまた、始めるのだ。
ドライアイス・エンジン 本間 海鳴 @mazi_Greensea
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