第16話 もふもふ無双
「さあ、アルル。ここからが本番よ。やることは覚えてる?」
部屋の隅でシルヴェスはミアの陰に隠れ、アルルに額を突き合わせて囁いた。
「もちろんさ! 僕たちがここにいる人間を全員魅了すればいいんだよね。ナンパは僕の得意分野だよ!」
誇らしげに胸を張るアルル。
「だからナンパじゃないんだけど……。まあいいや。とにかく、ここにいる自警団に猫の魅力を伝えるのが私たちのミッションよ。タイムリミットは日没まで。昨日確認した通り、手分けしてやろう!」
「了解だよ!」
「じゃあ、まずは私から行くね。いきなり二匹が同時にミアの近くを離れると目立ちすぎるから。アルルはしばらくそこで様子を見てて」
そう言い残すと、シルヴェスは静かに、しかし大胆に移動し始めた。
さりげなく人の顔を見上げ、最初のターゲットを探す。
表情、仕草、雰囲気……。猫に変身していると、不思議と人の「心根」が透けて見える気がする。自分に好意的な人間を見抜く洞察力が、猫には生まれつき備わっているのだろう。
よし。あの人からいこう。
シルヴェスはテーブルの上の書類を整理している、事務所内の数少ない女性の一人に狙いを定めた。
歳はシルヴェスと同じくらい。華奢で病弱そうな見た目から察するに、彼女は事務作業要員なのだろう。兄弟か親、あるいは彼氏に引き込まれて自警団に入ったのかもしれない。何となく、他の団員よりも熱意に欠けているように見えた。
まずは小手調べ!
シルヴェスはテーブルを回り込み、女性の正面に置かれた椅子の上に飛び乗ると、そっとテーブルの上に顔をのぞかせた。
女性が右から左に次々と送っている羊皮紙を目で追い、それに合わせて首を動かし始める。
この時、シルヴェスは半分は猫の本能に従い、半分は意識的に人から可愛く見えるよう狙って動いていた。
そう。無邪気な好奇心は、猫の最大の武器の一つである。普通の人間なら、興味津々の猫を前にして、構わずに無視を決め込むことは不可能に近い。
おまけに、シルヴェスの瞳はくりくりと真ん丸になり、普段以上の愛嬌を醸し出していた。
猫の瞳孔の大きさは周囲の明るさに合わせて変化するが、猫自身の感情にも影響される。ことに、つぶらな瞳は人間に対して効果絶大だと、猫の方も自覚しているのだ。好かれたい人間に対し、瞳孔を大きくしてアピールするのは彼らにとっての常套手段なのである。
書類を手にした女性はシルヴェスの視線に気が付き、羊皮紙を移す手の動きを止めた。続いて、シルヴェスを見つめながら、羊皮紙を右へ、左へと小刻みに動かす。シルヴェスの顔が紙について動くのが面白かったのだろう。さらに上下にも揺らし始めた。つられてシルヴェスの首が伸びる。そして――
ぽふっ。
不意にシルヴェスの前足が伸び、女性の羊皮紙を持つ手を捕らえた。
「……!?」
女性はびっくりした様子で紙を離し、手を引っ込める。その色白の顔には怯えの表情が浮かんでいた。邪悪な動物だと信じている猫に触れられたショックが大きかったのだろう。
おっと。さすがに、いきなりじゃれつくのはやりすぎだったかな?
シルヴェスは片手を出した格好のまま固まり、女性の顔色を伺った。女性は目を見開き、シルヴェスを油断なく注視している。彼らの間に刹那の緊張が走った。
お願い!
シルヴェスは祈るように心の中で叫んだ。
今だけはイメージの「猫」じゃなく、目の前の私を見て!
すると、その思いが通じたのか、女性は肩の力を抜き……ふっと微笑した。シルヴェスが無害だと気付き、警戒する必要はないと判断したのだろう。
そして、なんと――。
女性はおずおずとその細い腕を伸ばし、シルヴェスの前足にそっと触り返したのだった。
「おーい、シアーナ。そこに粛清の広場の事件簿あるか?」
「あ、はい!」
女性は奥にいた男性から声を掛けられ、後ろに首を回して返事をする。それから書類の山をかき分けると、中から一枚の羊皮紙を引っ張り出した。
「ありました!」
女性は紙を持って部屋の奥へと歩いていく。去り際に、ちらりと名残惜しそうにシルヴェスの方を振り返った。その視線から敵意は感じられない。
よし! まずは一人!
シルヴェスは女性の後姿を見送りながら、ほっと胸をなでおろした。幸先の良いスタートだ。だが、これで満足している場合ではない。
シルヴェスはすぐに気持ちを切り替え、次のターゲットに向かった。
目を付けたのは、椅子に座って足を組み、短剣の手入れをしている若い男性の四人組である。それぞれが脇目も降らずに作業に没頭していて、何となく近寄りがたい雰囲気が漂っているが、ここで尻込みするわけにはいかない。
シルヴェスは床の上に前足をそろえて座り、じっとそのうちの一人を見上げた。しかし、男性はシルヴェスを一瞥しただけで、興味がなさそうに再び刃を研ぎ始める。
むむ……。構ってくれないのか。よーし。それなら……。
シルヴェスはチャンスを伺い、男性が砥石を取り替えに席を立った隙に、空いた椅子に飛び乗って丸くなった。寝たふりをして、耳をそばだてる。
「おっ!?」
戻って来た男性の驚く声が聞こえた。
「どうした?」
「この猫、俺の椅子を横取りしてやがる」
「本当だ。何してるんだ、こいつ。ミアのところに戻れよ」
狙い通り。他の男性も作業を中断し、自分に注目が集まっているようだ。仕掛けるとしたら、今しかない!
シルヴェスは横になって目を閉じたまま、前足をうーんと伸ばすと、両手を顔の前で交差させ、ぎゅうっと肉球で自分の目を押さえた。
「……!?」
途端、シルヴェスを囲んでいた男たちが水を打ったように静かになった。彼らの間に、電流のような衝撃が走ったことが分かる。
「ね、猫って、こんな仕草するんだな。なんていうか、意外に……その……」
一人が言いにくそうに口ごもった。
「ああ。お前の言いたいことは分かるぜ……。俺も今、一瞬だけ変な気分になった」
「俺もだ。まさか、猫を可愛いと思う日が来るとはな……。ひょっとして俺たち、こいつに魔法でたぶらかされているんじゃねえか?」
「確かにそうかもしれねえ……」
動揺し始める四人組。ここで、シルヴェスはダメ押しとばかりに寝返りを打ち、無防備にお腹を見せて仰向けになってみせた。
「うっ!? こっ、こいつ……!」
一発でハートを射抜かれた男たちはそろって絶句する。束の間の沈黙の後、一人が口を開いた。
「は、はは……。これは、魔法なんかじゃねーな。こんな間抜けな恰好で寝やがって……」
「そうだな……。飼い猫って、こんな感じなんだな……」
「ああ。ミアがこいつを可愛がる理由も分かる気がしてきたぜ……」
「おい。お前、別の椅子持って来いよ。こいつはこのままここで寝させといてやろうぜ」
「ああ。そうするか……って、あ、起きた」
シルヴェスは身を起こし、大きく伸びをした。この人たちはもう大丈夫。これ以上、ここに留まる必要はない。
わざわざ代わりの椅子を運んできてもらうのも心苦しかったので、シルヴェスは早々に椅子の上から降り、四人組から離れたのだった。
さあ! どんどん行こう!
それからシルヴェスは、次々に団員を陥落していった。
部屋の隅でお金を数えている厳格そうな女性の目の前で小首を傾げ、本を手に行ったり来たりしている気弱そうな若者の足に本棚の陰から飛びつき、ベッドで仮眠している中年男性の枕もとでゴロゴロと喉を鳴らし、食事中のグループの真ん中に陣取って、わざと声を出さずに「にゃー」と口だけを動かしてアピールしたのである。
途中、何度かミアのところに追い返されることはあったが、シルヴェスの身に危険が及ぶことはなかった。
猫に対する反感が弱まり、自警団の空気は確実に変わっていく。
途中からはアルルも参戦し、効率は二倍になった。そして、夕方までに、シルヴェスたちは事務所内のほとんど全員を猫の虜にしてしまっていたのである。
そう。たった一人、ワーグ団長を除いては……。
*
「……そろそろ……日暮れ……だね」
「そうね。音声を聞く限り上手くやっているようだけれど、結果は最後まで分からないわ」
夕日が差し込む小部屋の中で、フェルとエリスは相変わらず向かい合ってテーブルの上の通信魔法石を注視していた。
「自警団員たちが、シルヴェスたちを殺すのに抵抗を感じるほどの猫好きになっているかどうかが、運命の分かれ目ね……。私たちも、いつでも助けに行けるように準備をしておくわよ」
「……うん」
そう言って、二人は窓の外に視線を移す。通信魔法石が小さく震え、ワーグの野太い声を部屋に響かせた。
『さあ。時間だ。お前ら、小娘と猫どもを取り囲め!』
*
「シ、シ、シ、シルヴェスー! 話が違うじゃないかあ! 僕、頑張ってナンパしたのに、みんなが僕を殺そうとしてるよー!」
「アルル、落ち着いて! 今日一日の成果が出るとすればこれからよ! ここが正念場!」
「そ、そんなこと言ったってー! みんな武器を持ってるじゃないかー!」
シルヴェスとアルル、そしてミアは、事務所内にいた自警団全員の輪の中に追い詰められていた。団員の手には短剣や棍棒が握られ、物騒な雰囲気が漂っている。
「さーて。日が暮れちまったわけだが、まだ猫は生きているようだな? え? 魔女さんよ」
ワーグが威圧するように声を掛けてきた。短剣を光らせながら仁王立ちし、殺気を放っている。
うう。やっぱり団長が最後の関門か……。あの手この手で猫の魅力に気づいてもらおうとしたけれど、結局、この人の考えを変えることはできなかったみたいね。
シルヴェスは悔しさを覚えた。だが、諦めるのはまだ早い……。彼女は爪を床に突き立て、逃げ出したい気持ちを抑えた。
背後からは、床の上に座り込んだミアが震えている気配が伝わってくる。緊急時にシルヴェスが通信魔法石に爪を三回打ち付けると、エリスたちが助けに来てくれる手筈になっていることはミアも把握しているが、それでも幼い少女にとっては耐え難い恐怖なのだろう。
ミアちゃん、もうちょっと頑張って!
シルヴェスは心の中でミアを鼓舞した。
「最後のチャンスだ……。この場で猫どもを、殺せ。貴様がやらなければ、この場で自警団がそいつらを始末する。どちらにせよ、猫はここで死ぬんだ。それでも、自分で手は下せないというのか?」
ワーグが唸る。ミアは蒼白な顔で、ふるふると首を横に振った。
「なるほど……。判決は下った。処刑だ!」
自警団員たちの間に、ピリッと緊張が走る。ワーグは短剣を持った手を振り上げてから、勢いよく刃先をシルヴェスたちに向けて叫んだ。
「猫を殺せ! 今すぐ息の根を止めてしまえ!」
「ひえええええええええ!」
アルルがすくみあがって悲鳴を上げる。しかし――
「どうしたっ!? 早くしろ!」
団員たちは誰一人として、その場から動かなかった。彼らは苦笑して、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「い、いやー……。なんていうか、この一日で俺、この猫たちに情が移っちゃったんですよね……」
「私もです。団長……。正直、この子たちを殺すのはちょっと耐え難いです」
「すみません……。猫の可愛い一面を知ってしまったせいで、素直に猫を悪者としては見られなくなってしまったんですよね……」
「な、何!? お前ら、昨日までは躊躇なく猫を殺していただろうが!」
ワーグは怒りを露わにして大声を上げた。
「くそっ。不甲斐無い奴らめ! まんまと猫の魔力に当てられおって! こうなったら、俺が直接この手で……!」
ワーグは足を踏み鳴らし、シルヴェスに向かって一気に進み出た。
「黒い悪魔の化身め! 覚悟しろ!」
目を血走らせて短剣を振り上げる。同時に、シルヴェスがワーグの足元に素早く駆け寄った。
「な……」
ワーグはそのままの格好で固まり、言葉を失った。
シルヴェスが、あろうことか逆にワーグにすり寄り、尻尾を立てながら彼の足に首をこすりつけたからである。
「おい。貴様、馬鹿なのか? 俺は貴様を殺そうとしているんだぞ?」
予想外のシルヴェスの行動にワーグは狼狽え、剣を振り下ろすタイミングを失ってしまった。
「あはは。団長、懐かれてしまいましたね」
不意にカイルが笑い声を上げると、途端にその場が和やかな雰囲気に包まれる。
「団長ー。俺は、この猫は無害だと思いますよー」
「団長、俺たち、猫のイメージを改めた方が良くないですか? ミアがこいつを殺せないのも無理はないですよ」
「お、お前ら……」
口々になだめられ、ワーグは困惑の表情を浮かべて団員を見回した。どうすればよいのか分からない様子で、シルヴェスに目を落とす。
「にゃーん」
とどめの一撃!
シルヴェスはワーグを見上げ、渾身の猫なで声を発した。
「うっ!?」
髭の下でワーグの口元が強張り、短剣を持った手が小さく震える。今度こそ、シルヴェスの攻撃はワーグの強固な敵意という鎧をぶち破り、その心を完璧に撃ち抜いたようであった。
「あー……えへん」
短剣を下ろし、咳払いをして平静を装うワーグ。
「あー。うん。その……なんだ。まあ……つまり、たった今はっきりしたが、こいつは俺の知っている『猫』とは少し違うようだな」
ワーグはしどろもどろになりながらも、何とか威厳を保つため、苦し紛れに言葉を絞り出した。それから短剣を鞘に納めると、ミアたちに背を向けて顔を伏せる。
「『猫』じゃない動物の飼い主を罰する必要はない。小娘、そいつらを連れてさっさと消え失せろ」
かなり無理やりな理論だったが、ワーグが彼らを見逃してくれたことは明らかであった。
「わあっ!」と団員たちから歓声が上がる。ワーグはフンと鼻を鳴らし、団員の輪から抜けると、足早に出口へと向かった。
「おい。見回り部隊、出発するぞ」
苛立ったように声を張り上げ、扉を開けて部屋の外に出て行く。
「あっ、団長! 待ってください!」
ミアたちを取り囲んでいた団員のほとんどが、バタバタと慌ててワーグの後を追った。しかし、カイルだけは真っ先にミアのもとに駆け寄る。
「ミア! 無事で良かった……。まさか、あの団長が考えを変えるなんて信じられないよ」
涙ぐみながらミアを抱きしめた。
「ごめんね。俺たちみんな、猫のことを誤解していたみたいだ。ミアのお陰で間違いに気付けたよ」
カイルは泣き笑いの表情でシルヴェスとアルルに目を向ける。
「ミア、それから、猫たちにもお礼を言わなきゃね。……ありがとう」
『いえいえ、どういたしまして!』
さっきまでビビりまくっていた情けなさはどこへやら、アルルが誇らしげに胸を張って答えた。それを横目で見ながら、シルヴェスは安堵するとともに、足から力が抜けてその場にへたり込んだ。
良かった。助かった……。
シルヴェスは息をつきながら前足から爪を出し、通信魔法石を引っ掻いて一度だけ小さく音を鳴らす。
やったよ!
エリスたちに向けた終戦の合図だった。
こうして、もふもふの力を信じたシルヴェスたちの賭けは、ピンチを跳ね返し、完全勝利を収めたのであった。
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