第29話「その祈りは最後の灯火」
目が覚めるとそこは、何もない真っ白な空間だった。
本当に、何もなかった。天井も壁も、そして床さえもなく私は白の中に漂う何かだった。ここまで何もないと、むしろ存在している自分自身の方が異常なようにすら思えた。
何が起こったのかもわからず、ただ呆然とするしかない。
「さっきまで私は……、……うっ!」
思い出そうとした瞬間、強烈な吐き気に襲われた。その場に胃の中のものを全て吐き出してしまう。だがそれも感覚のみで、私の口からは一滴の水分すらも出てこなかった。
「なに、これ……」
もしかして、これが『死』というものなのだろうか。死んだら天国に行ったり地獄に落ちたりとか、そんな風に思っていたけど、誰も死後の世界なんて見たことがないのだ。
命の果てがこんなものなのだとしたら、何もない虚無の中を漂うだけならば、それは途方もない絶望でしかない。
助けを求めて声を張り上げてみた。
何も返ってこない。
そもそも声が出ているのかもわからなかった。
徐々に自分の置かれた状況の最悪さに気がつき始める。それと同時に直前の記憶が戻ってくる。
私は、波揺美奈。
これまでもそうしてきたように、今年の夏も私は仕事の休暇を使って祖母のいる波揺に来たのだ。
そして、私は――。
「殺され、た?」
山の中に大量に出現した化け物に、私は殺されてしまったのだろうか。
――違う。
そう自分の感覚が告げる。理由も、どうしてそうなったのかもわからないままだけれど、それだけは確信を持って言えた。
今の私の中に、世界がある。
時が止まった世界そのものが、私の中に閉じ込められている。
それだけは、揺るぎようのない事実だった。
――――
私が幻覚を見るようになったのは、それからほどなくしてのことだった。この場所において時間というものがどれほどの意味を持つかも、私にはわからなかったが。
知らない声が聞こえたのが始まりだった。
『……てやる』
輪郭のはっきりしない音で、最初はそれが人の声だとわからなかった。でも、すぐにそれは聞き取れるようになる。
『殺してやる……!』
「えっ?」
自分に向けられた言葉だと思い辺りを見渡すも、あるのは白のみ。
強い恨みが込められたその声に私は震えた。自分が殺されると、本気でそう感じた。
やがて今度は知らない光景が見え始める。見たことのない場所で、見たことのない男が剣を握りしめていた。その目は赤く充血していて、とても正気を保っているとは思えない。
その視線の先にいるのは、一匹の化け物だった。赤い皮膚は幾多の傷でボロボロで、緑色の液体がこぼれてやまない。とてもじゃないが、脅威を感じるような代物ではなかった。
『妻の、そして娘のかたき……っ!』
男の剣を握りしめる力が強まる。赤い血が手から一滴、二滴と地面に落ちる。
『うぉぉぉおおおおっっ!!!』
男の振り下ろした剣は化け物の腹部を簡単に斬り裂いた。この世のものとは思えない叫び声が響き渡り、私は思わず耳を塞ぐ。
「や……めて……」
無意識に声がこぼれた。
しかし、男は振り下ろす手を止めようとしない。
「やめてぇっ!」
もう一度、今度は声を上げて叫んだ。
再び男の剣が化け物の胸を裂き、緑色の血が吹き出た。
彼に、私の声は届いていないようだった。
何度も叫んでも、彼は顔色一つ変えずに剣を振り続けた。化け物の叫び声が何度も何度も、数えきれないくらいに繰り返された。
「やめて……。やめて……っ」
やがて化け物は動かなくなった。
『はぁ……はぁ……はぁ……。……はは』
男は力が抜けたように膝から崩れ落ちた。そして、笑う。
悲しい響きを持った笑い。
いつの間にか私は泣き出していた。
彼の状況はたった今のやり取りだけで理解できてしまったからだ。そして今この瞬間に復讐を果たしたことも。
空虚な笑いが響き渡る。復讐を為したところで彼の家族が戻ってくるわけがない。私にはもう何も口にできなかった。たとえ声に出しても、彼の耳には届かない。それを痛いほどに思い知らされてしまった。
『あはははははははははははははははは……、ぐはぁっ!?』
その笑い声が途中で不自然に鳴り止む。ハッとして見てみると彼の心臓を槍が串刺しにしていた。その槍を握っているのは、さっきの化け物によく似た、また別の化け物だった。
化け物が咆哮を上げる。言葉はわからずとも、それが怒りに満ちたものだと伝わってくる。
『ぐっ、ごぼぉ……っ』
男はその場に倒れ伏し、何度か痙攣をした後に動かなくなった。
なんて呆気ないのだろう。
たった数分にも満たない間に、二つの命が失われたのだ。
「い……や……。いやぁ……っ! いやぁぁあああああああああああああっっっ!!!!」
叫んだ。
ひたすら叫んだ。
恐怖。
悲哀。
虚無。
いくつもの感情が入り混じって、その濁流に飲み込まれる。
叫ぶ。
ただ、叫ぶ。
誰も、私には目もくれない。
――――
それから同じような光景を何度も見せられた。
何度も。
何度も。
何度も、何度も。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
人間が、魔物が殺し合う様を繰り返し見せつけられた。
目を閉じても、耳を塞いでも意味がなかった。
どうやってもその悲惨な光景は、この目に映し出される。
悲痛な叫び声が頭の中で鳴り止まない。
殺すだけなのならまだマシだとすら思えた。ただ痛めつけるためだけの暴力というものがあることを知った。
その理由は拷問であったり、単なる憂さ晴らしだったり、快楽を求めたり、家族や友人を殺された恨みだったり。
息の根を止めることではなく、相手を苦しめることが目的で振るわれるそれは、悲惨という言葉では到底言い表せないほどに残酷だった。
指を切り落とし、目玉をくり抜き、歯を強引に抜く。
あるいは思いついた人物の精神を疑いたくなるような、苦痛の限りを尽くした拷問器具の数々。
しかしどれをされても生物とはなかなか死なない。苦痛は終わらない。
たくさんの人がそうやって、痛みに泣き叫びながら死んでいくのを見た。
人が魔物にそうするのを見た。その逆もまた然り。
人が人に対してそうするのを見た。これもまた逆がある。
全ての生命が傷つけ、傷つけられを繰り返す。
時には幸せな光景を目にすることもあった。
あたたかな家庭。若き日の青春。生きがいを見つけて日々を暮らす人々。
それが壊される瞬間ほど、絶望に染まる光景もまた存在しなかった。
たとえば、家族で夕ご飯を食べている最中に強盗が入ってきて、無防備な彼らが皆殺しにされることもあった。
親を殺されて泣いている子供の首元にナイフが突き刺された瞬間は、今も私の脳裏にくっきりと焼き付いている。
私は世界で起きるありとあらゆる光景を見せられていたのだ。
誰に、とか、どうして、とか、そういうものはわからない。答えなど出るはずもなく、とっくに私は考えることを忘れてしまった。
その代わりに私は祈り始めた。
見ていることしかできない私にそれ以外にできることが、祈ることしかなかった。
これ以上苦しむ人が増えないように。
どうか、誰も争わないように。
生命というものがなんて醜く、おぞましいものなのかと思い知らされ、いっそのこと滅んでしまえばいいと思ったこともあった。
世界がこんなにも愚かならば、存在しない方がマシだと。
でも、そう心から思うことはできなかった。
だってそれは、否定することになってしまうから。
私の『宝物』を。
彼が人々を救うために戦っている姿も幾度となく目にした。そのために魔物も人も、たくさん殺している姿も。
いつかの夜に彼の口から聞いたことだから、わかっていた。いや、わかっているつもりだった。
その凄惨さをこうなることによって、私は初めて思い知らされたのだ。
人々を救う。
その言葉はきっと綺麗で、立派で、正しいことだろう。でも、その綺麗さとは裏腹に実際がどれほどの過酷さを持ち合わせているか。普通の人間だったらとっくに気が狂ってもおかしくない年月を経ても、それでも彼の足は立ち止まらない。
いつだって、彼は歩むことをやめなかった。
だから私は祈り続けた。
誰かが泣き叫ぶ声を聞きながら。誰かが血を流して苦悶の表情の中で死んでいくのを見ながら。
それでも祈った。
どうか、こんな世界を救ってほしいと。
こんな人間と魔物たちに、救済の手が差し伸べられないかと。
彼にいつか安息の日が訪れてほしいと。
そう、祈り続けた。
――――
ある存在が、昔いた。
昔という言葉を使うのは間違っているのかもしれない。そもそも時間という概念に縛られてなどいなかった。
その存在はある日、世界を作ることにした。
どうしてなのかはわからない。その存在に理由があったのかどうかも怪しい。
ただ、世界を作った。
後にその存在は、『 』と呼ばれることとなった。
『 』は生命の進化を見届け、果てにそれらは二種類に別れた。
それが人間と、魔物。
どう調整しても、それらが争い世界は崩壊するばかり。
だからその存在は、その世界を見捨てまた新たな世界を作った。
何度やっても、同じことの繰り返し。
その回数は108。
自ら崩壊へと進むのは、二つの種族が交わるが故のバグと判断した。
ならば、一方の要素を排除してしまえばいい。
最後の望みをかけて、全く異なる世界を創造した。
しかしなおも、結果は変わらなかった。
過程は違えど、行き着く末路は同じ場所。
そしてついには『 』はそれらの全てを見放した。最早救いようがないと、そう判断した。
見放された世界は、そこに存在を残留しシミュレーションを繰り返した。
途方もない時間をかけて、永遠に。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、永遠の中をさまよった。
致命的な欠陥は誰にも気づかれぬまま。
自己修復のパターンが、組み上げられていった。
――――
驚いたな。こんなことが起こるなんて。
ここで君にほんの少しの救いの手を差し伸べれば、全てが救われるなんて。
想像もしていなかった。こんな方法があったのか。
もう、関わるつもりなどなかったが、最後に少しだけ。
だが君は、さらなる絶望を味わうことになる。
君も見たはずだ。彼らの愚かな姿を。
それでもなお、君は祈り続けるのか?
世界の未来を、信じ続けられるのか?
――――
それは私に問いかけた。
世界の未来を、信じ続けられるのか、と。
答えは考えるまでもなかった。
理解できない、とそれは言った。
そして私に何かを渡して、そのまま何も言わずに去ってしまった。
それは小さな光だった。
永遠にも思えるほどの時間を捧げた祈りがそれには詰まっていて、言うなれば私の祈りの結晶だった。
それを使えば、何かを変えられるかもしれない。
だから私は人形を作った。
私の代わりになる人形を。
私はここから出られないけれど、人形ならこの牢獄の外でも行動できるから。
今までの祈りのほとんどを費やして、彼女に託す。
大変な役目を担わせてしまうことには胸が痛むけれど、他に方法は思いつかない。
ずっと、ずっと考えてきたけど、私の頭ではわからなかった。
だから、祈り続けた。
たくさんの命が苦しみの中で失われていくのを目にしながら。
大好きな人の心が壊れていくのを、ただ傍観することしかできない悔しさに涙を流しながら。
だから、どうか――。
お願い。みんなを、助けて。
私を見つけて。
私を、助けて。
――――
刹那。
それは彼女にとって、永遠にも等しい一瞬だった。
永劫の牢獄の中、それでも彼女は祈り続けた。
全ての喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。
この世の始まりから終わりまで、彼女は何度も繰り返し見せつけられた。
それでもなお、彼女は正気を失うことはあれど、希望を捨てなかった。
彼女は、未来を見続けた。
存在するはずのない未来のために、祈り続けた。
故に、それは起こった。
必然的な奇跡が。
――――
痛い。
その感覚が、ひどく久しぶりのものに感じられた。
「……えっ?」
しかし、それも消えていく。痛すぎて感覚が麻痺したのではなかった。
曲がったはずの腕は元に戻っていて、お腹をさするもそこには擦り傷一つない。
辺りを見渡すと、あれだけいた魔物の群れは、みな地面に突っ伏していて身動き一つしない。
その中に、一人の大きな背中が目に入る。
「長いこと、待たせてしまったな」
その声を知っている。この長い間、何度も何度も耳にして、でもその声は決して私に向けられたものではなくて。
でも、今は違う。
その声は、今ここにいる『私』に向かって言っている。
「美奈。君を、助けに来た」
ずっと私の待ち望んだ人が、私に向かって笑いかけながら、そう言ってくれた。
「……うん。ずっと、待ってたよ」
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