第28話「波揺美奈の話」
昼間にあんなに暑かったのが嘘のように、夕方になると風が吹いて心地よかった。
波の寄せては返す音は、この村にいればどこでも聞こえるBGMだ。その音と潮風の匂いに誘われて、海辺まで足を運ぶけれど、そこには誰もいない砂浜があるだけ。
わかっている。誰もいるはずがないと。
わかっているはずなのに、どこか期待してしまう自分がいた。
あれからちょうど十年。
私はもう社会人になって、普通に働いている。
毎年夏になったらここに来るのは、もう自分にとって恒例行事になっていて、親の事情なしでも自然と足が向かうようになった。就職してからは、ここにいられるのはほんの数日ほどになってしまったが。
おばあちゃんは何かを察してくれているようで、その理由について聞いてくることはなかった。けれど、その人についてのことを話してくることもなくて、毎年夏が来る度に憂鬱になる。
「いつになったら、帰ってくるのかなぁ……」
時間が過ぎるほどに、年が一年変わるごとに、怖くなる。
あんな昔の約束を、今も待っている自分がどうかしているんじゃないか。
そんな声が聞こえてくる頻度が、少しずつ増えていった。
「もう、十年経ったよ」
日が沈み、藍色の空を映す海に問いかける。
いつだったか、『十年女を磨いてから、出直してこい』って言われたことを思い出す。
今の私は彼にとって少しでも魅力的になってるのかな、なんてことを思う。
「そうだったら、いいな」
風景は何も答えず、ただ波の音を返すだけ。
ポケットの中にいつも肌身離さず忍ばせている、お守りを取り出した。
何の変哲もないビー玉だ。だけど、彼はこれをお守りだって言ってて、私に持っていてほしいと、最後の夜に渡してくれた。
私にとっては唯一の、あの日々を証明できる物。
ふと、自分の座っている傍らに目を移す。初めて会った日の非現実的な光景が脳裏によみがえってくる。
もしも、今この瞬間に、この場所に彼が現れたら、どれだけ私は幸せなのだろう。どんな声を上げてしまうんだろう。楽観的過ぎる自分が滑稽に思えてきた。
今も、彼は戦っているかもしれないのに。たくさんの人たちを救うために、走り回っているのかもしれないのに。
なんて自己中心的な女なんだろう、自分は。なのに――。
「……早く、帰ってきてよ」
そう、声に出さずにはいられない。
「寂しいよ……。不安なんだよ……」
自分の体温でもう冷たくないビー玉を、手の中で強く握りしめた。
その時、低くどもるような音が村中に鳴り響いた。
「えっ……?」
音のする方をとっさに向くと、それはこの村で一番大きな山からしたのだとわかった。山頂が、鈍く禍々しい色の光を放っている。あまりにも突拍子のない出来事に、思考が完全に停止してしまう。これは本当に現実なのだろうか。
刹那、目が眩むほどの閃光。
遅れて鳴り響くこの世の物とは思えない轟音。
思わずつむってしまっていた両目を開くと、そこにはとても現実とは思えない光景が広がっていた。
光っていた山の隣の山が一つ、消し飛んでいたのだ。
あんなにも高くそびえ立っていた物が、今は空白と化してしまっている。
「嘘……」
あまりの音の大きさだったせいか、他の音がひどく遠くのもののように感じられた。一体何が起こっているのだろう?
疑問符が脳内で次々と生まれてくる中、一つの可能性がふっと浮かび上がってくる。
「もしかして、帰って、きたの……?」
光に吸い寄せられる虫のように、ふらついた足取りは山の方へと向く。
鼓動が激しくなる。手に汗が滲む。
いつの間にか私は駆けだしていた。あんな現実離れした光景があり得るとしたら、彼が関わっている以外考えられない。
「あなたは……そこに……いるの……!?」
山が消えたこともあって、村の人たちはみんなあれを脅威だと認識したようで、私とは逆方向に逃げていく。
それを横目に大方の人の流れと逆走する私は、何度もいろんな人に止められかけたが、それらの手をくぐり抜けるようにして先へと進んだ。
「はぁ、はぁっ」
普段運動をしなくなったせいで肺が痛い。息もすぐに切れてしまい酸欠気味だ。そんな既に疲労困憊状態で、山の麓に立つ。
隣の山を吹き飛ばしてからは、何も起こっていない。次に何か起こるとしたら、もうそろそろなのかもしれない。
「ち、近づくのは、危ない、かな……?」
今更になってそんなことを言う自分もどうかと思ったが、それでも何が起こるかもわからない得体の知れないものに、これ以上近づくのは気が引ける。
一歩、退こうとしたその時、背後でザクリと地面を踏みしめる音がした。
「えっ……?」
振り向くと、毛むくじゃらの巨大な何かがあった。
茶色の体毛が全身を覆い、顔の部分に異様なまでに大きな目玉が一つある。人間でないのは明らかだった。
「ぐふぇ……!」
口らしきものが動き、この世のものとは思えない声とともにニヤリと笑う。
次の瞬間には私は走り出していた。頭で考えたというよりは脊髄反射的で、本能的にあれが脅威だと直感したのだろう。
逃げる先は山の中以外になかった。足下が悪く何度もつまずきそうになるも、幸運にも転ぶことはなく上へ上へと登る。
「な、なに……? 何なの……? 一体何が……」
遅れて頭が理解したのか、今になって自分の手が震えてきた。
怖い、怖い。
こわい。
「はぁっ……、はぁっ……」
さっきまで痛くて仕方なかった肺は、最早その域を超えて感覚がなくなりつつある。
「だ、誰か……助け……っ」
地の底から響いてくるような轟音に、背中を突き飛ばされた。
宙を舞う感覚。
そして衝撃。
「きゃあっ!?」
何かに吹き飛ばされて地面に打ち付けられたのだ。
「どうして、こんな……」
目から涙がとめどなく流れてくる。水滴を吸い込む地面は、他の何かの足音で一定の間隔で揺れる。
「嫌だ……っ、死にたく、死にたくないよぉ……!」
命乞いなんてものは意味を成さず、背後からなおもそれらは近づいてくる。気づけばその数は瞬時に数えきれないほどに膨れ上がっている。
逃げようにも、足がうまく動かない。さっき吹き飛ばされた時に強く打ってしまったようだった。
それでも、動かないと。
今いる場所より先に行かないと。
動かない足を引きずるようにして、さらに上へと登る。少し動かすだけで激痛が脳を突いた。
「くっ、あぁ……っ!」
後ろを振り向くと、さっきよりもさらにその距離は縮まっていた。捕まるのが時間の問題だということがすぐにわかった。
「やっと……、あの人に会えると思ってたのに……っ」
どうして、どうして……っ、どうして……!?
「痛い……。痛いよ……っ。やめて……、来ないでぇっ!」
もう嫌だ……。どうしてこんなことになってしまったの……?
助けて、誰か……!
「えっ……?」
眼の前の光景に、言葉を失った。
何度もまばたきを繰り返しても、それは変わらない。
寒気がするような状況だった。
「嘘……、そんな……」
私の歩く先に、道がなかった。
あるのは断崖絶壁で、それ以上逃げる先がないことを意味していた。
ゾクリ。
背筋を冷たい指先でそっとなぞられるような感覚。反射的に振り向いた私の目の前には、不気味なほどに口角をつり上げた何かの顔があった。
「いや、いやいやいやいやぁっ!!」
視界が大きく揺れる。
妙に冷えた感覚がとっさに覆った腕を通り抜けていき、そして、急速にその跡が熱を帯びていく。
「きゃあああああああっっ!!! 痛い痛い痛いいたいぃぃっ!!!」
腕が縦に、真っ二つに裂けてしまったような感覚が全身を突き抜ける。鮮血が傷口から一気に噴き出る。
あまりの痛さに加えて力も抜けていって、その場に立っていることもできなくなり、地面に倒れてしまう。
傷口に土が入ってきて、それによってさらなる激痛が私に降り掛かった。
「うぐぅっ! やめて、やめてぇ……っ! いたいいたいいたいいたいぃっ!!」
あまりの痛みに息が詰まる。
苦しい。息がしたいのに、できない。
私を取り囲む化物たちは、なおも私を傷つけようとする手を止めず、次々と何かが壊れていくのを感じた。
頭を殴られたような気がする。右耳が聞こえなくなった。そこに手をやると、本来あるはずのものが、そこにはなかった。違和感の意味を理解するよりも先に、その上げていた手が勝手に動いた。
何か棒のようなもので打ち付けられたのだとわかった瞬間、また想像を絶する痛みが襲いかかる。あまりの苦痛に叫び声をあげようにも、そのための息がもう私の中には残っていない。
「あ……っ、ぐぁ……っ」
太ももに刃を突き立てられる。また血が一斉に吹き出して、そこら中が私の血溜まりだらけになっているのが見えた。
「あっ……っっ! た、たす、け、つ……っ」
逃げ出したい。
なのに、ほんの少し、指先を微かに動かすだけで、体の中が針で埋め尽くされたように、全身に痛みが走る。
もう、痛くない場所がなかった。
今度は何かが砕ける音がした。
「……えっ?」
腕がへんな方向にねじ曲がっていた。
誰の腕だろう、これは。
そんなことを一瞬思った。
けど、本当に一瞬で、次の瞬間にはまた別の痛みでのたうち回る。
お腹の辺りが強く押される。と思いきや、不自然にそこにあったものは抵抗を失い通り抜けていく。
私の体の中を。
「ぐふぅっ!?」
喉の奥から何かが逆流してきて、そのまま留めることもできず口から吐き出した。ドロッとした感触が唇を伝っていく。
今までで一番の痛みに暴れまわるも、そうすると余計に痛みが私を刺してきて、それで暴れて、さらに痛くなって。その繰り返し。
よく見るとお腹から血と一緒に、ドクドクと見慣れないものが溢れ出てくる。その正体が自分の中身だとわかるのに、少し時間がかかった。
本来自分の体から外に出てはいけないものが、はみ出していた。
「ひぃっ、も、もろさ、ないと……っ」
必死に飛び出した内臓を元に戻そうとする。だが――
「ひゃいらないっ、もろらないよぉ……!」
腕が曲がっているせいで、うまく中に入っていかない。そもそもちゃんと集めることすらできていなかった。
血はずっと止まらずに私の中から溢れ出すのをやめない。もう自分の中は空っぽなんじゃないかって、そんなことを考えてしまうくらいに。
「ひぃ……っ、はぁ……っ!」
下品な笑い声がそこらじゅうから聞こえてくる。何がそんなに可笑しいのかわからない。
――!
地面が一気に震え上がる。ずっと遠くの地の底から、何かが湧き上がってくるような音がした。
私の周りにいた化け物たちはみな手を止めて、一方向を見つめる。その視線を追うと、あの山の頂上の鈍い光がどんどん強まっていくのを感じた。
何が起こっているのか最初からわからなかったけど、とうとう本当にわからなくなった。
どうして、こんなところに私は倒れているのだろう。
どうして、私の右腕は変な方に曲がっているのだろう。
どうして、こんなにヌルヌルするのだろう。
どうして、私の中身はあんなところにまで飛び散っているのだろう。
どうして、こんなにも絶望的な状況なのに――
「おね、がい……。たすけて……っ!」
――私はまだ、奇跡を願っているのだろう。
彼が現れる瞬間を、待ち焦がれているのだろう。
比較的まっすぐな左腕を伸ばした。すると、爪先が何かにぶつかりコツンと音を立てた。
これは、祠?
この山には祠があったっけ。あれ、こんなに小さかったかな。
昔、彼と一緒にこの山を冒険したんだった。
熊に襲われて、でも彼が助けてくれて。
すごく具合悪そうにしながらも、それでも私のために魔法を使ってくれた。
……ああ。懐かしいな。これって、走馬灯なのかな。
そっか。
じゃあ、私、このまま死んじゃうのかな……。
…………。
やだよ……。
このまま、死ぬのなんて、そんなの……。
いやだ、いやだ、いやだ……。
まだ、やりたいこと、いっぱいあったのにな。
せめて、あともう一度だけ、あなたに会いたかったのに……。
まだ、死にたくないよ……。死にたくない……。
助けて……。
誰か、私を、助けて……!
助けて……!!
その時、
世界が終わる音がした。
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