第7話「転生しすぎた勇者と少女の小さな冒険~その3」

「よかった、間に合った……」


 頭に思いっきり振り下ろした木の枝は真っ二つに折れているが、熊はよろめきはしても依然として倒れる素振りを見せない。

 勢いが足りなかったのか、打つ箇所が悪かったのか。いずれにせよ一発で沈められなかった時点で、危機が去っていないことに変わりない。


「あ、あ……」


 美奈は唖然と口を開いたままボーッと僕の顔を見ている。そんなことをしている時と場合じゃない。


「大丈夫? 早く逃げ――」


 いきなり美奈が叫ぶ。


「後ろっ!!」

「ぐふっ!?」


 意味を理解するよりも先に、痛烈な衝撃が僕を襲った。一瞬の浮遊感を味わった後、地面に叩きつけられる。


「大丈夫!?」

「ぐぅ……。何か火でもあれば……」


 火、という単語からようやく思い出す。

 勇者である僕には魔法が使えるのだった。最下級の炎魔法なら倒すことはできなくとも、引き下がらせることくらいならできるだろう。あまり派手な魔法を使ってしまっては、山火事の原因になってしまう可能性も否定できない。


「……炎魔法(フレイヤ)」


 最下級の炎魔法とは言え、拳大ほどの大きさの炎は出るはずだ。それならこいつを驚かせるくらい――。

 ボッ。

 手のひらから、米粒のような光が現れる。


「…………」


 そしてすぐに消えた。

 沈黙が訪れる。

 マッチよりも弱い火だった。世界に魔力がほとんどないことが、ここでも影響出るのは予想外だ。


「ぶおおおっ!!」


 熊はより一層激しく吠える。まずい、挑発になってしまったらしい。魔法を使えるからと油断していたのが災いした。

 巨体は足に力を込め、獲物に向かって高速で飛びかかる。


「えっ?」


 その向かう先は、僕ではなく彼女の方。


「く……!」


 瞬時に彼女を抱き抱えるようにして横っ飛びし、背中から着地する。


「うわっ!?」

「ケガは?」

「私は大丈夫……、って正太郎くんの方こそ……っ」


 さっき殴られた顔が熊のヒヅメで抉れているらしく、触れると軽い凹凸が出来てしまっている。さっきから頬が痛むのはこのせいか。

 しかし、美奈の方も見ればどうやら転んでしまったらしく、膝に大きな擦り傷があった。

 回復魔法を使うにも、あの熊はそんな隙をくれるほど甘くないはずだ。


「大したことない。それよりも早く逃げて」

「えっ?」

「あれは僕が引き付ける。その間に美奈は逃げるんだ」

「そんなこと……!」


 強引に立ち上がらせて背中を軽く押すと、美奈は一瞬こちらを振り向く素振りを見せた。しかし僕もすぐに熊に目を向けてしまったので、はたして彼女が今こっちを見ているのかはわからない。

 できることならすぐにでも走っていってほしいものなのだが。

 熊は今にもまた僕たちに飛びかかってきそうな形相だ。険しく歪ませた目の奥で、黒い瞳がギラリと鈍く光る。


「早く!」

「……絶対、戻ってきてね」

「うん」


 土を蹴る音がどんどん遠ざかっていく。小さくなる足音はやがて聞こえなくなった。美奈はちゃんと逃げてくれたらしい。


「すぅー、はぁ……」


 一度、深呼吸。

 自分の体の中にあるものが、自分と違う者に入れ替わっていく感覚。

 拳を一度強く握り、開く。

 この身体でも、まだそれなりには動けそうだ。『俺』は目の前の標的をキッと睨む。


「待たせたな」


 さすがに熊相手をボコボコに叩きのめしてる姿なんて見せられない。

 これだけ動くのなら、一対一で向こうの攻撃が当たることもないだろう。


「さっきの分、倍にして返してやる」


 さぁ、反撃開始だ。


――――


 どこだ。美奈は一体どこに……。


「あっ!」

「美奈! 無事だったんだね……うわっ!?」


 彼女は駆け寄ってくると、そのままの勢いで抱きついてきた。ギリギリ受け止めるも、若干バランスを崩しかけて後ろに三歩よろめく。


「ひどいよ……。あんなところにいきなり置いてけぼりにするなんて……」


 背中の辺りが強く圧迫される。美奈の声は本当に細かく震えていて、自分のしでかしたことでどれだけ彼女を不安にさせたかを如実に告げていた。


「こわかった……。誰もいなくて、ここ暗くて、本当に、こわかったのに……」

「……ごめん」

「ひどいよ……、でも」

「でも?」

「あなたが無事で、本当によかった……」


 思わぬ言葉に驚きつつも、さらに罪悪感が胸を締め付けた。

 元々、彼女を楽しませるために計画したのに、こんなにも怖がらせてしまった。これでは、約束を破ったのと同義だ。

 もっと気をつけていれば……。


「もう、こんな目になんか遭わせない」


 それは決意だった。


「もう二度と、こんな怖い思いをさせない。約束する」


 思えばどこか慢心があった。だけどいくつもの世界を救った勇者だとは言っても、ここでは一人のちっぽけな子供に過ぎない。

 そんなあたりまえの事実を、僕は正確に把握できていなかった。


「……うん。ありがと」


 ふと、彼女が僕の肩を軽く叩く。


「……あ」

「どうしたの?」


 美奈はするりと僕から離れ、後ろを指差す。


「アレって……」


 その方向を追って後ろを振り返ると、彼女の指したものがどれなのかはすぐにわかった。


「ん? ……なんだ、アレ?」

「これかな? あの人が言ってた、祠って」


 さっき女神様と話した時のに比べて、ずっと大きく立派な祠がそこにはあった。どうやらいつの間にか見過ごしてしまっていたらしい。


「そう……みたいだね。……あれ? じゃあアレは何だったんだろう?」

「アレって?」

「これよりも小さいのがあったんだ。さっき」


 よくよく考えてみればあれは祠なんて言えるほどの大きさではない。せいぜい道祖神というところだ。

 しかしそうなると、そこで女神様と話すことができたという事実に、どこか引っかかりを覚える。


「まぁ、結果オーライなのかな」


 美奈の声にはっと我に返る。


「結果オーライ?」

「だって二人とも無事だし、ここにもたどり着けたし」

「確かに、そうかも……」

「きっと、ここの神様が助けてくれたんだよ」

「助けてくれた……」


 確かにこの山の中で美奈をすぐに見つけられたのは、運が良かったのが大きい。それだってギリギリだったくらいだ。


「ありがとうございました。私たちを助けてくれて」


 美奈が両手を合わせて大きく礼をする。僕も彼女に倣って同じように両手を合わせた。


「正太郎くんも、ね?」

「えっ……」

「助けてくれて、ありがとね」

「……そんな礼を言われる権利は、僕にはないよ」


 僕の不注意で彼女を危険に晒してしまった。罵られることはあっても、そんな言葉を受け取っていいわけがない。


「……さっきはああ言ったけど、ちょっと、楽しかったよ」

「楽しかった……?」

「こわかったし、殺されちゃうかもって思ったけど、でも、ちょっと面白かった」


 それは、今生きているから言えることだ。きっとそれは美奈自身も重々わかっていることだろう。


「だって今までずっと何もなかったから。あ、流石にもうごめんだけどね」


 ただ、それでも。

 そのことがわかっていても、彼女にこう言わずにはいられなかった。


「……ありがとう」

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