第67話 上尾藍の願い
車に揺られること、大体30分くらいだろうか。
周囲に木々しかない長い山道を走り続けた先に辿り着いたのは、摩耶山にある掬星台という所だった。
「……意外と人がいるんですね」
「三大夜景と称される場所でもありますからね。最近は外国人観光客も多いそうなので今一つロマンチックには欠けるかもしれませんが」
確かに四方から聞こえてくる声は日本語のそれではない。ただこんな場所を俺は知らなかったのでこういう造詣は外国の人の方が深いようにも思えた。
「さあ昌芳くんこっちですよ」
「あっ、く、黒芽先輩――」
するといつもの感じではない、柔和な表情を浮かべたままの彼女は俺の腕をぐいっと引っ張ると小走りで駆け出していく。
街頭は殆どなく、足元が見えないので、少しはしゃいでいるような動きの黒芽先輩がこけないか心配しながらついていくと――
辿り着いた先で、俺は思わず息を呑んでしまった。
「はぁ……これは……凄いな……」
正直な所自然が織りなす景色というのには興味を惹くのだが、人工物が作る景色にはあまり感銘を受けるタイプではなかったのだが。
これは素直に綺麗だと言わざるを得なかった。
港に沿うようにして広がりを見せる建物が見せる灯りは神戸を中心に六甲アイランド、ポートアイランドへと広がり、更に奥に目を向ければ地平線を流れるようにして大阪の町並みが綺麗に浮かび上がる。
高度に成長した二つの都会が織りなす光の海を、ここまで広範囲に見渡せる機会は中々ない、これを所詮は人工物と唾棄するなど到底無理な夜景である。
「ほう……これは確かに美しい夜景ですね」
「…………」
服部さんが何かを呟くが、その言葉すら届かなくなる程に圧巻の景色に心奪われてしまっていると、隣にいた黒芽先輩が袖を引っ張りぽつりと溢す。
「……大したことないと思っていましたが、思っていたよりずっと綺麗です」
「そうですね……俺もそう思います」
「……? もしかして、昌芳くんも所詮は残業で苦しむ人々が照らす余光だと思っていたんですか?」
「いやそこまでは思ってませんけど……ですが人工物が織りなす光に感銘を受けるとは俺も思っていませんでしたね」
「同じ感情を抱いていたなんてとても嬉しいです……それも昌芳くんと同じ時間同じ場所で感じられるなんて――本当に来て良かった」
「そう言って頂けると、俺も嬉しいですよ」
「あ、私も薄汚え都会が阿鼻叫喚している様相としか思っていませんでした」
「そこまで私は思っていません」
「えっ?」
服部さんの扱いが不憫でならない所はあるけども……でもわざわざ車を走らせてまで来る価値がある場所なのは事実ではある。
家に引きこもっているだけでは決して味わうことのない絶景に自然と頭の中にあったモヤモヤもクリアになる。
よし、何としてもこの旅行は皆が満足するもので終われるように頑張ろう。
そう心の中で小さく決意を固めていると、突如黒芽先輩が俺の人差し指を優しく握りしめてきたので、一瞬にして鼓動が早まってしまう。
「えっ! く、黒芽先輩……?」
「昌芳くん――実は私、次の作品では昌芳くんをモデルにした作品を書こうと思っているんです」
「へ――? い、いや! それは幾ら何でも悪いですよ」
「そうじゃないんです。確かに昌芳くんの為にと勘違いされても仕方がないかもしれませんが、あくまで私が書きたいんです」
「……? 書きたい……というのは?」
「今までとは違う、特別なアイデアが沸き上がっているんです。プロットも既に8割は完成していて、服部さんにも渡しています」
思いがけない黒芽先輩の発言に困惑しながら服部さんの方へと目線を送る。
それに気づいた服部さんは小さく首肯した。
「まだ公に出来るものではありませんが、既に読ませて頂いております。端的に申し上げて、上尾先生はこの作品で作家の頂点に上り詰めるでしょう」
「そ、そんなにですか……?」
「私の過去の経験上、プロットの段階で面白いと思った作品は総じて売れてきました。そして彼女の小説は、それらに該当しています」
それは最早言うまでもないことだろう。シリーズではない全てが新作の黒芽先輩の小説は、殆ど売上を落とすこと無く全て数字を残してきた。
「ですが――プロットの段階で涙しそうになった作品は今まで出会ったことがありません。編集長ですら『これが売れなければ出版側の怠慢か、読者の目が腐っている』という程のものが既に存在しています」
「それは……」
そこまで言わしめる作品など、いちファンでなくとも絶対に読みたい。
それを書いた人が隣にいるなんて、冷静に考えるととんでもないことだ。
「それは少し大袈裟です。ですが――私が昌芳くんがいたからこそ出来た作品だというのは間違いないと思います」
「そんな、僕は何もしてなんかいません――」
「無意識で出来てしまう所が昌芳くんなんですよ。でもそれでいいんです」
いつも申し訳ないくらいあたふたしているだけなんだけどな……と思わずにはいられないが、黒芽先輩がそう言ってくれるなら、強く否定をする理由もない。
「ですから――取材旅行に付き合って下さってありがとうございます。お陰で私の中にある世界を文字にしたためることが出来そうです」
黒芽先輩は一歩前に出て振り向くと、そう言って優しく笑ってみせる、背後に映る夜景と相まって、その姿はとても美しく見えた。
「――とんでもありません。元はと言えばその予定だったんですし、少しでも黒芽先輩のお役に立てるのであれば、お安い御用です」
「昌芳くん――……あ、あの、では最後にて、手を握って頂けませんか?」
「えっ? そ、それは……」
既に人差し指を握られてしまっていたのではあるが、つまりそれは周囲にいる恋人宜しく全ての指で手を握って欲しいということになる。
それは幾ら何でも後々尾を引きそうな気がしないでもないんだが……でもお安い御用と言ってお願いされた手前断りづらいものが――
口にして恥ずかしそうにする黒芽先輩を前にして小考……まあそれで黒芽先輩が満足するのなら、強襲されるよりはずっといいだろう。
「黒芽先輩」
「は、はいっ、どうしましたか? 昌芳くん……?」
「それは、物語を作る上で必要な取材、ということですかね?」
「えっ……ええと――そうです。とても、需要なことです」
「なら、断る理由はありません」
「――! ありがとうございます――」
狡いと思われるかもしれないが、現時点ではこういう建前があった方がずっとお互いに楽でいられるだろう。
夜になっても暑さが残り、汗がじんわりと掬星台ではあったが、きゅっと握られた黒芽先輩から伝わる手の温もりは、不思議と悪い気はしなかった。
ただ。
そんな風に現を抜かしていたとしても、もっと早く気づくべきだっただろう。
連絡をした山中から、連絡が帰ってきていないことを。
それ即ち、彼女はお怒りだということを。
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