第66話 それぞれの思惑

「くんくん……この匂いってどうしたら落ちるのでしょうか」


 冷静に考えるまでもない、非常にまずいことになった。


 確かに川西と二人の状況を長引かせるのは良くないとは思っていた、主に黒芽先輩が黙っていないのは分かっていたことではあるから。


「豊中さん、消臭スプレーならありますが」

「そんなことをして昌芳くんの香りが消えたらどうするつもりですか」


「申し訳ありません」

「いや消えませんって……」


 いや消えないというのもおかしいけども。


 そもそも黒芽先輩も言っていることが無茶苦茶だ。ただ珍しく神妙な面持ちを崩せずにいる彼女を見ると少し申し訳ないことをしたと感じてしまう。


 それ故黒芽先輩の溜飲が下がるまでは下手なことは出来ない、荷物は置いたままだから流石に別荘には戻るとは思うが……。


「昌芳くん」

「はっ、はい……ど、どうしたんですか黒芽先輩……?」


 ずっと掴まれていた腕を離してくれたかと思いきや、今度は両手で俺の手を握りしめて来たので思わずドキリとする。


 今まで散々それ以上のことをされて来ただろうにと思うかもしれないが、案外こういう自然なタッチの方が逆に緊張してしまうのだ。


「あの……別に怒ってはいないんです。いえ、違います、私は昌芳くんに怒りを覚えるなんてあり得る筈がないのです」

「そ、そう言って頂けると嬉しいですけども……」


「ただ昌芳くんは誰にでもお優しい方ですから、こうなってしまったのは必然だとは思います。ですから――これは私の我儘ではあるのです」


 黒芽先輩はそう言ってぐっと身を寄せるので思わず仰け反ってしまう。


「ええと……つもりそれは――」

「ほんの数時間で構いません、二人の旅行をさせて頂けないでしょうか」


 あれ、服部さんは?


 うむ……まあ確かにトラブル続きの旅行になったから仕方ないのだけど、本来は黒芽先輩と服部さん、そして俺の三人の旅行だったのは事実。


 黒芽先輩からすればやはり思う所はあるのだろう、それは何となく理解はしていたから、このまま終わるのは少し申し訳ないなと思わなくもない。


 川西は心配だし、早く何とかしないといけないとは思っているけど、そこに意識を向けすぎると黒芽先輩が蔑ろになって、皆が満足するものでは無くなる。


 勿論山中も。誰か一人が不満を残す、だけはあってはいけないのだ。


「……分かりました。ですがあまり遅くまでは駄目ですよ」

「昌芳くん……! ありがとうございます……!」


 その言葉でようやくぱあっと明るい笑顔を見せてくれた黒芽先輩に俺もほっと胸を撫で下ろす、いや……こういうのに弱いな、俺。


 だが山中を心配させる訳にはいかないから連絡は取るようにしよう、欲を言えば川西の動向も知りたい所だけど――


「――あの、そういえば今から何処に向かうんですか?」

「摩耶山です」


「へ? まや……?」


「ご存知ありませんか? かつて昭和天皇もご覧になられた至高の夜景です」


       ◯


 これは……非常にまずいことになってしまいました。


 もっと腰を落ち着けて、冷静に対話をするつもりだったのですがお姉ちゃんはすれ違いざまに私をバイクに乗せるとそのまま走り去ってしまったのです。


 エンジン音で会話もままならず、せめて山中先輩にはと連絡をしておいたのですが、バイクは止まる様子を見せません。


 まさか実家に帰るつもりでは……? と流石に少し焦ったのですが、お姉ちゃんは何故か三国先輩と一緒にいた場所に戻ってきたのでした。


「え……? あ、あのお姉ちゃ――」

「りん」


「な、何ですか……?」

「お姉ちゃんは、りんとお祭りに行きたい」


「へえっ!? え、ええと……」

「さあ! グズグズしている暇はないわ! レッツラゴー!」


「え、ええ……?」


 長期にわたる厳しい闘いになると覚悟をしていただけに姉の予想だにしないあっけらかんとした態度に肩透かしを受けてしまいます。


 い、一体何を考えているのでしょう……ですがただお祭りに興じるというのであれば私も付いていくしかありません。


「じゃあまずはりんご飴から!」

「は、はい……」


 猪突猛進に屋台へと突撃したお姉ちゃんは次々と食べ物を提供します。


 ただ既に三国先輩と沢山食べてしまったのでお腹は八分を超えてしまっていて少し大変だったのですが、お腹が空いていたのか食べる量はお姉ちゃんの方が多かったのでそこは何とか乗り切ります。


 すると食事を終えたら次は射的、ボールすくい等々へ、これも三国先輩としたものだったのですが構わずお姉ちゃんは攻めていきます。


「ふー屋台なんて何年ぶりだろ、結構楽しいもんだね、りん」

「はい、そうですね」


 その言葉に私は素直に返事をしました。


 三国先輩と同じことしているだけなのだから楽しくはないのでは? と思うかもしれませんが、意外にもそうではなかったのです。


 例えるなら懐かしさ、でしょうか、先輩との屋台巡りは高揚感の方が強かったのですが、お姉ちゃんと巡るのは心が落ち着く感じがしたのです。


 あれだけ喧嘩をしてしまったのに――とても不思議です。


 そんな奇妙な心の揺らぎが渦巻いてしまっていると、屋台を覗きながら歩いていたお姉ちゃんはとある場所で足を止めます。


「お、金魚すくいもあるね、やってみる?」

「え? い、いえ、大丈夫です。捕れたとして買う訳にもいきませんし」


 三国先輩とした時は単に捕れなかったのですが、お姉ちゃんは本気を出すと本当に捕ってしまいそうだったので断りを入れました。


 ですが、それを見たお姉ちゃんはクスクスと笑い出します。


「ふふ……そう言えばりんはそれでペットを買わなくなったもんね」

「? どういうことですか?」


「覚えてない? 昔もこうやって屋台で金魚を一匹だけ捕った時、りんが大喜びして持ち帰ったこと」

「あ――そ、そういえばそんなことも……」


「りんが初めて買うペットでねー、定期的に水も変えて空気も入れて大切に育ててたんだけど、屋台の金魚だからか病弱で数ヶ月で死んじゃって」

「! お、お姉ちゃんその話は――」


「それでりんってば大泣きしてお母さんにしがみついて、懐かしいなー」

「や、止めてよ……」


 人には触れて欲しくない過去というものがあります。


 特に私にとってその話はそれに値するもので――三国先輩がいなかったので混乱はしませんでしたが一気に恥ずかしくなります。


 まさかお姉ちゃんなりの復讐……? と疎ましく睨んでしまっているとお姉ちゃんはふと優しく笑って、こう返してきたのでした。


「だからね、私はりんにはずっとそういう優しい子でいて欲しいの」


「え……?」


 思いがけない言葉に私は呆気に取られてしまいます。


「りんがいつまでも私の後ろに付いて回る子でいないってことは知ってる、色んなことを勉強して、人並みに恋をして、そうやって大きくなっていくものだっていうのは理解しているつもり、でもその優しさは忘れて欲しくはないなって」

「…………」


「だからあんなに真剣なりんの表情にはビックリした。優しいりんがあの子にそこまで強い想いを抱いているんだって」

「お姉ちゃん……」


 私は思わずムキになっていた自分を恥じてしまいます。


 ですが――やはりちゃんと話をしておいて良かったのかもしれません、一方的な感情をぶつけても何一つ良い事はないと、強く学べたのですから。


 ですから、私もちゃんと気持ちを伝えるべきなのでしょう。


「りん」

「はい」


「りんは――あの子の事が好き?」


「……はい、好きです、誰にも負けたくないくらいに」

「そう」


 お姉ちゃんはその言葉で少し顔を俯かせました。


 それでも……私はちゃんとお姉ちゃんに自分の気持ちを伝えた上で――


 と思っていたのですが、次の瞬間お姉ちゃんの表情に邪悪さを帯びたかと思うと、こう言ったのでした。


「でも女の子をはべらせて温泉に入るような男は駄目よ」

「ぐ……」


 そ、そうでした……いくら皆さんの気持ちが暴走していたとはいえ、あればかりは言い訳のしようがないのでした……。


 何とか三国先輩の潔白を晴らさないことには前に進むことも――


「でもね、私も可愛い妹のことを思えば悪魔にもなりきれない」

「と、ということは……?」


「だから――それだけりんがあの子を想っているというのなら、彼がただの人たらしではないということを証明してみせない!」

「!」


「ただし、誰とも相談はなし、加えて証明をするのはりんではなくあの子、証明出来なかった場合は今後一切の交流を認めない、これならどう?」


 そう提案した姉の表情は妙に自信に満ちていました。


 その表情の通り、実際かなり苦しいものではあります。


 ですが……これはかなりの譲歩、チャンスでもあるのです。


 お姉ちゃんが三国先輩を認めざるを得ない状況になれば、この旅行だけでなく今後に対しても大きく活路が開くのですから!


「……わ、分かりました! 受けて立ちます!」



 三国先輩の身の潔白を何としても証明してみます!

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