第65話 女帝豊中黒芽

「――――服部さん」

「んん……み、三国さん……駄目です、それは禁断の――ぐえっ!」


「昌芳くんがどうかしたんですか?」

「い、いえ……な、何でもありません……」


 何だかとても心地の良い夢を見ていた気がするのですが、目を覚ますとそこには瞳孔が開きっぱなしの豊中さんのお顔が至近距離にありました。


 瞬時に記憶が吹き飛ぶ程の恐怖とはあるのですね、いくつになっても学びというのはあるようです。


「ええと……豊中さん、どうかなされたのですか」

「湯あたりで眠っていた筈の昌芳くんの姿がありません、服部さんはご存知ありませんか?」


 その言葉にふと視線をベッドへと向けると、確かに姿がありません。


「……申し訳ありません。うっかり私も眠っていましたので……体調が戻って先に下に降りたのではないのですか?」

「それにしては昌芳くんの匂いが薄い気がします」


 薄い……?


「後もう1つ、不快だった匂いも分かりづらいですが弱まっています、恐らくこれは川西さんですね……どうにも嫌な予感がします」


 私は豊中さんほどの(というより普通はないのですが)嗅覚はありませんので分かりませんが、しかし嘘ではない気がします。


「……ということは今この家には私達と山中さんしかいないということですか?」


「いえ、下の階からはもう1つ別の匂いがするのですが、川西さんに似ているようで違う匂いがしています」

「警察犬……」


「何か」

「何でもありません」


 しかしそうなりますと新たに人が増えたということになります。


 それは普通では考えられない事態。ですが温泉へ入る前の出来事を考えれば、自ずとそれが誰なのかは絞られてくるでしょう。


「……川西さんの親族が侵入者の正体だったのですか」

「加えて良好な関係ではなさそうですね。この状況を至極冷静に俯瞰的に見るのであれば、普通ではありませんし」


 その自覚はあったんですね……というは黙っておきます。


「ただ川西さんは不愉快ですが頭が回る人です。洞察力もありますし、何より冷静に状況を判断する能力も高い」

「ほ、ほう……」


「いい年をしてまんまと服部さんが利用されたのも納得の出来る話です」

「…………」


 何も言い返せないのが非常に悔しいことではありますが、実際いい年をして高校生に脅されていたのは事実ですからね……。


「ですが親族を相手にまで機転を利かせられる程ではない。匂いがしないのは何かトラブルがあった、そう考えるのが妥当です」

「揉めて飛び出し、三国さんが追いかけた、という所ですか」


「昌芳くんはとても愛が深いので十二分に考えられます、ついでに山中さんがいるのはその親族を引き留めているといった所ですか」


 無駄なお人好しを持ち合わせていますからねあの女は、と豊中さん。


 匂いだけでここまで推測出来るのは末恐ろしさしかありませんが、確かにそう言われるとそうであるとしか思えません。


「そういうことでしたら、答え合わせも兼ねて状況を確認を」

「服部さん、私が何のために昌芳くんを追いかけるのを堪えてこの場状況を把握しているのか分かっていないようですね」


「え?」

「これは盤上をひっくり返すチャンスなのです、それとも服部さんはまだその泥舟の上で仲良しこよしでもしているおつもりですか」


 ……これは意外でした、まさか豊中さんの中にまだ慈悲があったとは。


 いえ、それは流石に無いと思いますが。それでも私にまだ利用価値があるからこっちに来いと仰るとは想定していなかったことです。


「……しかし親族の方がこの旅行に納得しておらず、それに川西さんが反発したのであれば、穏便に進むとは思えません」


 何よりこの旅行は中止だと言っているのであれば私達は大人しく帰る以外に道はありませんし、ならば穏便に話を進めるべきとも考えられます。


 ですが豊中さんは首を横に振ります。


「ご両親が中止を申し出ているのであれば最初から私達は別荘に泊まれていません、つまり相手は姉妹、険悪さ鑑みれば姉でしょう」

「両親の反対を押し切っていれば山中さんに迷惑がかかる可能性がある、何より川西さんの性格を考えればそう見るのが妥当ですね」


 三国さん以外に興味を持たないのが豊中さんと思いがちですが、人間への造詣が深いからこそあの重厚な作品を描くことが出来るとも言えます。


 理想の世界を求めるからこそ現実の世界も知っている、これが上尾藍……。


「服部さん」

「は、はい」


「川西さんのご親族を味方につけてしまいしょう」

「! それは……可能なのですか?」


「すぐに分かることです。取り敢えず下に降りましょう」


 そう言って動き出した豊中さんの後に続くと、私も三国さんに充てがわれていた部屋から出て階段を降ります。


 そしてリビング手前へと辿り着くと――そこには豊中さんの予見通り、山中さんともう一人、若い女性がソファに座っていました。


「ほら見て、これが7歳の時のりん、私の後ろに隠れてとても可愛いでしょ? この時のりんは親戚にも人見知りでね~」

「へ、へえ……凄いですね……」


 若い女の人は何やらアルバムのようなものを広げ喜々とした表情で山中さんに何かを話していますが、対する山中さんはややお顔がやつれています。


 成る程……どうやら山中さんは山中さんで親族(恐らくお姉さんですね)の怒りの感情を上手く逸していたようです。


 その代償はあまりに大きいようにも見えなくないですが。


「失礼します」


 しかし……豊中さんの登場によりその頑張りも崩壊するかと思うと、流石に同情を覚えずにはいられませんが。


「げ……」

「……? 貴方達は――」


「初めまして。私は豊中黒芽と言います、こちらは服部です」

「初めまして、服部真依と申します」


「あの時の――りん……私の妹とはどういったご関係で?」


 私達のご挨拶にお姉さんの目つきがギロリと光ります、やはり妹に関わる物事に警戒心が強まっていそうですね。


 ですが、豊中さんは表情一つ変えることなく淡々と話を進めます。


「川西さんにはいつも大変お世話になっております。ただ――少しお世話になり過ぎてしまっている関係とでも言いましょうか」

「……どういう意味?」


「お、お姉さん、それよりもりんちゃんの10歳の話が聞きたいなー……」

「肯定的に捉えて頂けると幸いです。実は当初私と服部とまさよ――男の子がいたと思うのですが、その三人での旅行の予定だったのです」


 因みにこれがその証拠です、と豊中さんが見せたのはキャンセル済みではあるものの、現地のホテルを予約していた証明になるネットでの予約票。


 無論キャンセルをしたのは私なのですが、まさか元々は別であったことを証明する為に利用するとは……なんて抜かりがない……。


「3人……確かにそうみたいね」

「ただ手違いで予約が取れておらず、困っていた所をたまたま偶然通りかかった川西さん達のご厚意を頂いたという訳なのです」


「りんの優しさが滲み出た結果だと、ですが――」

「お姉さんとしては心配でしょう。今もご帰宅をされていないようですし……ですが私達も宿泊先は必要、ただご迷惑はかけたくありません、ですから――」


 豊中さんは手を前にかざし、人差し指を立てると、こう言うのでした。


「私達は寝食以外ではこの別荘を利用いたしませんので、お姉さんは川西さんと水入らずの団欒をして如何でしょうか?」

「…………なるほどね」


「な……! と、豊中先輩――!」

「この別荘の利用方針は川西家が考えることです。それに――山中さんも川西家の歴史にご興味がおありのようですし、きっと楽しい時間になることでしょう」


「しま――――」

「豊中黒芽さん――だっけ」


「はい」

「とてもいい考えだと思う。じゃあ早速それで行こっか」


「恐縮です」


 やはり豊中さんは――上尾藍は控えめに言って化物です。


 まさかわずか数分で状況を打開し、おまけにお互い直接口にせずとも通じ合ってしまうなんて……。


 どうやら私は、川西さんと山中さんには申し訳ありませんが、彼女の側に付かざるを得ないようです――彼女はあまりにも巧者過ぎる。


「ま、まずい……早く三国くんに――」

「では、日も沈んで来て心配ですし」


「だね、迎えに行くとしよっか」

「服部さん、車を」



「仰せのままに」

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